2012年03月09日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その1)(2012/2/17改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)


 以前、『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18(小森収 編)』の中に収められた『明るい館の秘密』という小論を興味深く読んだ。これは「乱視読者」を名乗る批評家・若島正が、アガサ・クリスティー作『そして誰もいなくなった』の深読みを行った小論である。著者の深読みの独創性には敬意を払いたいが、結論から言うと主要な論点に致命的な欠陥がある事を感想(書評「ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18(小森収 編)」(その5))に書いた。しかし今回は、この小論が誤読に満ちている事、それだけでなく『そして誰もいなくなった』を愛する読者にとって弊害になる事を改めて説明したい。

 僕が言いたい事は3点ほどある。
(1)若島の主張する「叙述トリック」は、言わば手品のタネである。若島は手品のタネをあばいた上で「作者の手際の良さ」だけを賞賛するが、「手品そのものの出来映え」に対する正当な評価を欠いている。
(2)若島は「(『そして誰も…』は)論理的に構築されている」と主張するが、必ずしも論理的な構成とは言えない。
(3)「(『そして誰も…』は)犯人のトリックはつまらないが、作者クリスティの叙述トリックは賞賛できる」という若島の主張には異論がある。ましてや「再読しないと真価がわからない作品」という独断には、なんら正当な根拠はない。

 これだけの事を言い尽くせば、若島の小論に対して一矢を報いる事ができるのではないかと思う。と言うのも、若島の小論を読んで内容を鵜呑みにする読者や評論家が少なからず存在しているからである。若島の小論を収めた『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』の編者も、まさに鵜呑みにした一人だろう。これではクリスティーの名作の価値が正しく後世に伝わらない。さらには、著者が書いた無責任な一言によってハヤカワ・ミステリ文庫の旧訳が不当におとしめられたという事実も明らかにしたい。

 とりわけ、ちょうど新訳が出たばかりで、旧訳を正当に比較検討できる好機だ。きちんとしたミステリーマニアであれば、単純に「旧訳はNGで新訳はOK」という事にはならないと気づくはずだ。若島は旧訳の「ある一箇所の訳」を取り沙汰して、訳者の無能を証左したつもりになっているが、この点については既に他界されている訳者に代わって若島氏を糾弾したい。

 まわりくどい言い方をしないで率直に言えば、「ある一箇所の訳」は若島が主張するような誤訳とは言えない。ましてや「作品全体に関わる致命的な誤訳」と言うのは、勘違いもはなはだしい。なのに、たった「ある一箇所の訳」を根拠にして、一つの翻訳書と一人の翻訳家を不当におとしめた罪は大きい。

 若島は論旨を展開するのに先立って「わたしの読み方が正しいのかどうか、それが愛読者の常識なのかどうか、確かめるすべがない」と書いている。この一見すると愛読者の常識に訴えるような謙虚さにだまされてはいけない。著者のしたたかさは、その後の強引な論調からも明らかだ。もうそろそろ、この「乱視読者」の深読みが的を射ていない事を誰かが指摘してあげるべきだろう。

 前置きはこのくらいにして、小論の検討にとりかかろう。

[(1)叙述トリックは手品のタネである]
 『明るい館の秘密』というミステリー評論を読んだ読者は、著者のあざやかな読みにうならされたはずだ。と同時に、以下のような2点を頭に思い浮かべたのではないだろうか。
(A)『そして誰もいなくなった』という作品は、再読して初めて評価に値する作品だったのか。
(B)それにしても、何故こんなあからさまな読みを若島以外に気づく人がいなかったのだろう。

 (A)のような印象が出てくるのは、犯人の用いたトリックは「つまらない」と断言し、真に評価すべきは作者クリスティの「叙述トリック」の方だと若島自身が書いているからだが、実はそれだけではない。後で詳しく述べるが、『そして誰も…』の主要なモチーフ(トリックや設定、サスペンスなど)が、何度も何度も後発の小説あるいは映画やテレビドラマで再利用され、いまや『そして誰も…』にはパイオニアとしての価値しかなくなっているという現状がある。そうなると、新たな若い読者は『そして誰も…』の独創性に気づきにくい。

 くだけてたとえるならば、「古畑任三郎」を見て育った後発の世代は、わざわざ「刑事コロンボ」を見ないだろう。いや、見ても評価しないだろう。しかし「コロンボ」がなければ、それが大ファンだった脚本家三谷幸喜に「古畑」を書かせるモチベーションを与えなかっただろうし、なにより「コロンボ」を洗練させたミステリドラマを作り上げる事もかなわなかっただろう。もちろん不可能だったと言うつもりはない。できたとしても、作品を一から作り上げるためには、パイオニアとしての並々ならぬ力量と膨大な労力がかかったはずだ。

 しかし、やはりまっとうに考えて『そして誰も…』は、初読から読むに値する驚くべき小説ではないだろうか。それについては(3)の論点で詳しく述べようと思う。ここでは、まず(B)の問題をとりあげよう。

 何故、若島以外にこれまで指摘されてこなかったかと言えば、最初に指摘しておいたように、若島の評価法が通常のミステリ評論の方法と異なるからだ。僕は「叙述トリック」を手品(作品)におけるタネにたとえた。手品のタネは、通常は「作品の出来映え」に奉仕する。そうであるからこそ、観客(読者)は手品(作品)に対して惜しみない拍手をおくる。なのに若島は「作品の出来映え」にはいっさい言及しない。言い換えると「初読の際の感動」については一切語らない。いや、それどころか「犯人のトリックはつまらない」とまで言い切っている。これでは、手品(作品)としては駄作だと言っているに等しい。

 しかし、若島のような”慧眼”の持ち主からすれば、この作品で作者クリスティがやろうとしたねらいは明白であった。僕らのように”慧眼”を持たぬ読者に配慮するかのように、ご丁寧にも「作品を論じるにあたって、わたしは難解な批評用語を弄ぶつもりはない」と言っておきながら、「(ミステリー評論家の)各務氏の意見をパラフレーズすれば」だとか「ナラトロジーでいうところの」などと小難しい用語を弄して、さっそく「お里が知れる」始末だ。

 要するに、文芸評論家である彼がなんと言おうとも現代言語理論の力にあずかっているのは明らかだ。普通のミステリー愛読者が若島のように気づかなくても当然である。小説の現代的な読み直しが若島正の課題であるからこそ、若島は「作者」にも「作品そのもの」にも関心がない。若島自身も「わたしの関心はそこ(注:作品のテーマ批評)にはない」と言っている。僕はその点にケチをつけるつもりはさらさらない。しかし、若島が「手品の手際の良さ(作者の手口の巧みさ)」に感嘆すればするほど、「手品の出来映え」、言い換えれば『そして誰も…』という作品自体の価値は下がっていく。

 しかも若島の方法論に従えば、『そして誰も…』は再読して初めて評価できる作品となってしまう。何故ならば「作者の手口の巧みさ」は再読しないと見えてこないからである。若島の説明からは「作者の手口の巧みさ」への評価は聞こえてくるが、いっこうに「作品に対する賞賛・愛着」は聞かれない。これはミステリーの女王クリスティへの不敬に等しい。もちろん若島の主張が正当なものであれば、素直にひきさがるしかない。だが、若島の深読みの正当性を裏付けるためだけに作品が利用されているとしたら、話は違ってくる。

 若島の言い分では、『そして誰も…』最大のトリックとも言える「叙述トリック」は、読者が再読して作品をより深く楽しむために存在しているのではない。
 クリスティは『アクロイド』(引用者注:小説『アクロイド殺し』の事)がフェアかどうかという議論を巻き起こしたのを教訓として『そして誰もいなくなった』ではそのような非難を浴びない叙述トリックを用いたのではないか(若島正『乱視読者の帰還』所収の「明るい館の秘密」より)

 このように「叙述トリック」は愛読者の期待に応えるものではなく、批評家をうならせるためのトリックだったと若島は考える。しかも、それこそがクリスティの野心的なねらいだったと言う。はたしてそんな事があるだろうか。クリスティが玄人受けする作品を作ろうとした事は事実かもしれないが、肝心の「作品の出来映え」がつまらないと言われては元も子もないではないか。若島の主張はうがちすぎて辻褄があわない。

 しかし、本当に辻褄があわないのは、若島の思い描く「叙述トリック」のもつ意味だ。ミステリーを読みなれた人ならば、叙述トリックがいかなるものか知っているはずだ。一見すると「そう見える」ように書かれていた事が実際には違っていたというトリックだ。そこには「読者の誤読を誘う書き方」(若島)がなければならない。そして、もちろん『そして誰も…』という作品は、普通の意味で叙述トリックが仕組まれたミステリーの傑作であることは、ミステリーファンにとっては周知の事実だ。

 ただし、その事実が「活字になっているのを目にした事がない」「愛読者の常識なのかどうか、確かめるすべがない」という疑問を若島が投げかけるのもムリはない。もし叙述トリックがある事が公になれば、未読者に対して重大なネタバレになるからだ。もし、登場人物の心理描写にクリスティの野心的な「叙述トリック」が仕組まれているという若島の指摘が事実だとすれば、400ページ弱の長編であっても、目の付けどころとなる心理描写はかなり限定される。そこをあら探しされたら、作者の周到な計画もひとたまりもない。

 僕が「叙述トリック」を手品のタネにたとえた理由もここにある。タネがわかった手品くらいつまらないものはない。作者は是が非でもタネがばれないように細心の注意を払うだろう。ミステリーファンであれば、「ネタバレ」を良しとしないのは当然の事だ。

 だが、すでに『そして誰も…』を読み終わっている再読者であれば、話は違う。若島に従えば、
充分な手がかりを与えながらかつ容易に尻尾をつかませない、その叙述の手口の巧みさに感嘆する(同上)

ことが再読の目的であり。楽しみでもある。

 ここから再読の達人・若島正は「叙述の手口の巧みさ」をつぶさに確認するだけでは物足らず、不思議な事を言い出す。「叙述トリック」が仕掛けられた箇所の誤読をただしく読み解けば、結局のところ「犯人を推定できる」などととんでもない事を言い出すのだ。これがどれほど「とんでもないこと」なのかは、すぐに明らかになる。


[(2)『そして誰もいなくなった』は論理的に構築されたか?]

 若島は、孤島に集められた10人の登場人物の心理描写が現れる章・節をすべて列挙したうえで、以下の3箇所にねらいを定めて「叙述トリック」の分析に取りかかる。

 @登場人物たちがインディアン島におもむく導入部(1-1〜8)
 A4人が死んで、残りの6人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(11-6)
 Bさらに一人死んで、残り5人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(13-1)


 若島がとりわけ注目するのはAとBである。この二カ所は、生き残っている全員の心理が描かれていて誰の心理描写か特定されていない点が「小説の中でもひときわ目立つ」(若島)からだ。すでに半数が殺され、互いに疑心暗鬼になっている。心理描写は緊張感にあふれ、サスペンスも最高潮に達している。

 確かに、この部分の描写を意識しない読者はいないだろう。どれが誰の心理描写か頭を悩ましたのではないだろうか。僕もそうだったが、早々に特定を諦めた。しかし、若島はAとBに隠された「叙述トリック」を力業で読み解いていく。

 若島の言いたい論点は以下の5点だ。ここは重要なポイントなので一字一句違えずに引用しておこう。

(a)この箇所には、叙述トリックが仕掛けられている。言い換えれば、ある人物(=犯人)の心理描写において、読者の誤読を誘うような書き方がしてある。
(b)その誤読を正せば、犯人以外の登場人物たちの心理描写との比較から、いかにそれが書き分けられているかがわかる。
(c)AおよびBでは、特定されていない心理描写が、その言葉遣いなどに注目すると、誰の心理描写かがすべて特定できる。
(d)誰の心理描写か特定できた後で読み直せば、舞台裏で進行しているある計画の姿が見えてくる。
(e)そこでも、犯人を推定することは可能である。つまり、小説全体は論理的に構築されている。
(注)(a)(b)…の記号は便宜的に付与した。

 若島の分析の是非は次回に詳しく吟味するとして、まずは(a)〜(e)の順で展開される論旨に明らかに辻褄があわない点があることを指摘しておこう。

 若島の分析は再読を前提としている。若島自身も小論の冒頭で、再読の意義について次のように書いている。

すべては、犯人のトリックが明らかになり、小説が終わった後で、ふと疑問に思ってもう一度この小説を最初から読み直してみるような、読者の勘に委ねられているのである。(同上)


 再読者は「犯人のトリック」を知るだけでなく「犯人が誰か」も既に知っている。その再読者が@〜Bを分析すれば、主張の(a)や(b)はそのとおりだと言うしかない。(c)についても条件付きで同意しよう。ただし「言葉遣いなどに注目する」だけでは特定は難しい。再読で入手したあらゆる情報(犯行のトリックや犯人名など)を利用しなければ特定は無理だ。理由は後述する。

 若島は、(d)で「ある計画の姿がみえてくる」と主張する。ある計画とは、犯人(ウォーグレイヴ判事)がアームストロング医師をだまして、犯人をあぶり出すための陥計の片棒をかつがせるという部分を指している。しかし「みえてくる」というのもおかしな表現だ。すでに僕ら再読者は犯人の計画の存在を知っている。知った上で、叙述トリックの手口を確認しているのではなかったか。

 極めつけは(e)の「犯人を推定することは可能である」という結論だ。いつの間にか若島は健忘症にかかってしまったようだ。僕ら再読者は犯人の名前もトリックも忘れる事はできない。だから(d)や(e)の主張は再読者にとっては無意味だ。

 では再読者ではなく初読者が@〜Bを正しく分析すれば、「ある計画の姿がみえてきて、犯人を推定できる」と若島は言いたいのだろうか。それもあり得ない。この分析そのものが「登場人物の心理描写に叙述トリックが仕組まれている」という事を前提にしているからだ。そして叙述トリックの存在を知り得るのは再読者に限られる。

 状況を変えて考えてみよう。再読者は「叙述トリック」の存在を知っている。そこで初読者に次のように耳打ちしたとしよう。『そして誰も…』には作者の巧みな「叙述トリック」が存在し、それは@〜Bに隠されていると。ここまで耳打ちするのはかなりのネタバレと言えるが、やむを得ない。

 もしこうなら(a)->(e)にいたる若島の主張はすべて満たされるだろうか?これまた満たされる事はない。さきほど書いたように(c)は「言葉遣い」だけでは一部の人物の心理しか特定できない。全員を特定するには、やはり「犯人のトリックや結末」をすべて知っておく必要がある。(c)が確定しない以上、(d)の「ある計画」は存在を想像する事すらできない。当然の帰結として、(e)の「そこでも、犯人を推定することは可能である」という主張も、初読者では不可能だ。

 では、若島の「小説全体は論理的に構築されている」という結論は一体何を意味しているのか。僕が思うに、若島が言いたい事(言える事)は「登場人物の心理描写に仕組まれた叙述トリック」が小説全体と整合がとれているという事だけではないだろうか。確かに辻褄は合っているが、だからと言って「小説全体が論理的に構築されているか」と言えば、若島が考えているほどには論理的ではない。

 こう書いてもまだ、本論の分析を鵜呑みにしている人には信じられないかもしれないので、次回は若島の分析を詳細に検討して、若島の思い違いを一つ一つ指摘していこうと思う。
(2010/11/29初出,2012/2/17改訂)
posted by アスラン at 19:24| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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