2006年04月26日

半島を出よ 村上龍

 一昨年の夏、福井晴敏の「終戦のローレライ」を読み終わったときに、慟哭に近い感動が押し寄せてきたのを覚えている。それはフィクションであるにもかかわらず、原爆投下直前の広島・呉港を出港した潜水艦の乗組員たちが、もうひとつのありえたかもしれない終戦の可能性を阻止するために奮闘するドラマに、フィクションを超えたリアリティを感じたからである。同時に日本人であることを誇れるその日その時その場所を描くことで、終戦後にたどってきた日本の今を見つめ直す著者のまなざしに共感したからでもある。

 しかし超弩級のエンターテイメントであった「終戦のローレライ」に欠けていたものがあるとするならば、それはまさに本作にこそ描かれているものだ。すなわち日本の置かれた現実から目を背けることなく今を生きるという事だ。今を生きる事の意味を考えるのではない。著者が問いかけているのは意味ではない。現実への感受性を読者に呼び覚まそうとしているのだ。

 「半島を出よ」というのは北朝鮮が仕掛けた福岡占領作戦の作戦名だ。朝鮮半島を出た表向き反乱軍が日本の一部を占拠して共存(統治)することを目指した作戦である。反乱軍が北朝鮮の右派から構成されているのは、北朝鮮内部で左派の発言が力を持ってきていてほうっておけば内戦にならないとも限らない現状を踏まえたもので、138度線を踏みこえるのではなく日本の九州へと右派に踏み出させる事で国内事情の解決と日本への長年にわたる意趣返しを果たす一石二鳥の作戦と言える。

 タイトルから、テロリストに占拠された福岡から脱出を試みる大脱走的なシーンを思い描いていた僕は、作戦名に意表を突かれた。と同時に著者が仕掛けたシナリオが生半可な着想を超えていることに気づかされた。たかだか日本人のナショナリズムを鼓舞する日本寄りの身勝手な近未来ストーリーではなく、北朝鮮の実情を踏まえた上での言わばガチンコストーリーを考えている。要するに著者は本気なのだ

 朝鮮高麗軍を名乗るテロリストたちが少人数で福岡を占拠して反乱軍として居座る事の正当性を主張し、日本政府はいつものように手をこまねいて国際世論を味方に付けることもかなわず、ただ本州ならびに東京ひいては天皇を守護するために福岡を封鎖する。やがて飴とムチ式の恐怖に裏打ちされた高麗軍の懐柔策は福岡市民になだらかに浸透してゆく。

 このシナリオに一定のリアリティを感じさせるものがあるのかないのか議論はあるのだろうが、僕にはその点はあまり関心がない。そもそも終盤に訪れるカタストロフィを考えればリアリティなどという架空の問題の枠を著者が大きく踏み出しているのは自明だからだ。

 では僕が本書に何を読んだかというと三つのポイントがある。

 一つは、拷問による恐怖に人間(日本人)はどう崩れるかという点だ。

 高麗軍は占領の費用を調達するために重要犯罪者を洗い出し拷問にかけた上で資産を没収する。また出頭を命じられた警察署長に身代りをたてるという姑息な手段がばれて、身代りの官僚が一晩で歩けず顔が変形するほど壊される

 ここに描かれるのは高麗軍を構成する特殊部隊の非人間的な行為ではなく、母を愛し家族を愛し将軍様を愛し国を愛する彼らは躊躇する事なく敵を拷問にかけ壊す事ができるという事実である。そしてそれは彼らの持つ人間性(母を愛するとか)と何ら矛盾しない。

 本書に見られる過剰な拷問の描写は、平和に慣れきって暴力や戦争に無関心でいられる事が当たり前となった僕ら日本人を易々とたじろがせる。そして過剰な暴力への身体感覚こそが、著者がデビュー以来手放さない表現なのだ。

 二つめは、特殊部隊と市民が出会う事で互いに影響が生じるという著者の着想である。

 かつての旧日本軍が「八紘一宇」というアジア諸国の団結を謳った理念を盾に朝鮮半島を侵略した時でさえ互いの影響があったろうが、今回は特殊部隊が日本の生活文化に触れる事で早々と規律が乱れる。逆に日本人の一部は権力を持った高麗軍に尻尾を振るように媚を売りだす

 著者の思考実験から生まれたストーリーだから影響の顕在化が早すぎるようにも思うが、12万人の部隊本体が到着する前に影響が出ている必要があるという事情はあったにしても、著者の狙いが北朝鮮人と日本人との政治理念抜きの出会いである事は間違いない。しかし現実の政治交渉が拉致被害者の気持ちをおもんぱかれというような日本式の情に訴えたものに過ぎないように、全体主義と民主主義という相容れない政治理念を超えた対話が成立するには仕掛けが必要なはずだ。

 福岡を占拠した特殊部隊が自らを反乱軍と位置づけた方便が、資本主義経済を維持しつつやがては武装解除していかざるをえない自らの生き方の足かせとなっていく。そこで特殊部隊の面々ははじめて民主主義・資本主義に出会うのだ。そしてそれは福岡の人々にも言える。60年も前に一度は精算した全体主義の亡霊にもう一度つきあう事になる。

 互いに毒だと教えられ相まみえる事のないはずの二つが、福岡に急遽出現した政治特区で混じり合う。そのありえないアマルガムを現出させることで、著者は前の大戦で少年兵として朝鮮にいた老医師と若き女性兵士との心の交流を可能にした。

 三つめは、例の「五分後の世界」で太平洋戦争終結後に分割統治された日本にあって若き仕官たちが降伏することなく作った「アンダーグラウンド」を夢想した著者が、日本のありうべき今に求める戦士とは誰かという視点だ。

 そして驚くべきは、社会から不適格との烙印をおされた少年たちこそが戦士でありうるという帰結だ。そこには「13歳のハローワーク」で少年たちを取材した体験が活かされていることは間違いないが、彼らへの熱い眼差しがあったればこその著者らしい着想だと思える。

 彼ら少年たちはもちろん現実の存在というよりも「可能性としての戦士」として描かれているというべきだろう。少年たちは社会から不適格というだけで自分たちを疎外した社会を憎み、自分らを見捨てた周囲の人々を憎み、自分らを追い出すことで平穏を保っている日常を憎んでいる。

 著者には少年たちにつけられた不適格マークがそっくりそのまま今の日本につけられるべきマークだと感じているのではないか。閉鎖された日本社会の中では少年たちの怨嗟は何も生み出さないが、社会の枠が壊れて外部に出れば少年たちがもつ可能性は大きくひらけると直感しているのだ。

 そして外部から朝鮮高麗軍(コリョ)は来た。暗い憎しみに染まった少年らは一度はコリョの占領に快哉を叫ぶ。こんな社会壊してしまえ。しかし次の瞬間に直感する。こいつらは敵だと。その時彼らは戦士になるのだ。政府よりも官僚よりも自衛隊よりも警察よりも、日本国中の誰よりも早く。
(2006年4月8日読了)


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posted by アスラン at 02:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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