2010年11月21日

現代倫理学入門 加藤尚武(2010/11/18読了)

 マイケル・サンデルの「これからの『正義』の話をしよう」を読んだ直後に、カントの哲学(倫理学)についてもうちょっと知りたいなぁと探している時に、この本に行き当たった。というより、だいぶ以前に一度借りているが、読まずに返却してしまった本だ。

 そもそもNHKで放映されたサンデルの「白熱教室」を見るとも無しに見ていて、この手の設問(5人を救うのと1人を救うのとでは、どちらが正しいか)から倫理の本質を考えさせようとする本を、何冊か頭の中に思い浮かべていた。本書より先に思いついたのはマーティン・コーエン「倫理問題101問 (ちくま学芸文庫)」だ。こちらも借りた事がある。だが、読み出してたちまちのうちに諦めてしまった。

 では、サンデルのテレビ教室や著書と比べて、上述の本が読み切れない理由はどこにあるのか。設問自体はわかりやすい。身近に起きることばかりとは言えないが、何が問題であるかは誰でも理解できる。ところが自分はこう思うと考えを決めても、かならず違った視点(アプローチ)で横やりが入るような難問ばかりだ。難問ではあるが設問の射程が長く(あるいは広く)、日常生活で起こりうるさまざまな雑事にまで適用できる。僕らは日常の雑事と同じように直感的に「こちらが良い」と判断してみるが、本当に正しい選択をしているのかと言われると非常にあやしくなってくる。

 このように、日々の生活の悩みから、大きく言えば「生きる」ことを完遂するまでのあらゆる原理を与えてくれるのが「倫理学」だ。だから、誰もが無関心ではいられない内容であるにもかかわらず、これまでにどうしても読み切れる本に出会わなかった。それは何故かと言えば、ひとえに内容を説明する言葉が難しいからだ。本書は、著者が放送大学で講義した内容をまとめた「倫理学の基礎」という本がオリジナルだ。それを読み物としてできるだけ「面白く書こう」と心がけて改訂したそうだ。と同時に、学生への教材に耐えるように工夫したとも言っている。つまり、一方で優しく書いたつもりでも、従来からある「学者の書いた啓蒙書」の体裁を捨て切れていない。

 一番乗り越えが難しいのは、哲学者(倫理学者)のテーゼの引用だ。ただでさえ使われている用語も難しいが、僕ら素人をなによりうんざりさせるのは、言葉遣いの生硬なところだ。すでに本を図書館に返却してしまい例示できないのが残念だが、おそらくは原文が小難しくて堅苦しい上に、それを訳す側も直訳にすれば小難しさが伝わるとでも思っているのか、あるいは自分にも訳せると思って下手な日本語になってしまったのか。いずれにしても頭が痛くなるような文章が引用される。そして著者の言葉使いもそれに合わせるかのように、硬い。とても一般の人にも「面白く読ませよう」と思って書き直したとは、おせじにも言えない。(蛇足だが、著者の「しかし」の使い方は少し問題がある。順接としか思えないのに何故か「しかし」が文の間にはさまれていて、時々立ち往生をする。こういう間違えをしそうにない顔つきの文章なだけに、たちが悪い。)

 そのせいか、著者がここさえ読んでくれればいいと述べている11章にたどり着くまでは、ひととおり読んでもなかなかピンとこない。設問を考え、そこから現代人(ふつうの生活者)が日常生活で同じような問題に接した場合に、自分ならどう考えるかを実感するところから道徳(倫理)への興味がわいてくる。マイケル・サンデルの著書(テレビ)がまさに読者(視聴者)をそのように導いてくれたわけだが、筆者は彼ほど優しく導いてはくれない。設問の要点をまとめ、設問の解法における倫理学者たちの対立を浮き彫りにして、どちらの側にも「倫理学」として利点と欠点がある事を示し、結論は宙づりにする。と同時に僕らの実感や悩みは置き去りにされたまま、次なる設問(新たなる倫理学的課題)に移ってしまう。僕ら読者はとまどうばかりだ。

 しかし、やがてターニングポイントがやってくる。11章だ。まえがきに「最初にこの章を読んで、後から他の部分を読んでもよい」と書いてあるとおり、本当にここから読むべきだ。11章から俄然わかりやすくなり、内容も興味深いものに様変わりする。それまでは、設問に寄りそって倫理学者の学説のあれやこれやをとりあげ、時に議論のための議論にうんざりさせられる事が多かった。11章では「自由主義」が抱える5つの条件と問題点を、著者なりの考え方で手際よく要約してくれる。つまり、この章からは倫理学の現代的な課題を著者自身がどう受けとめて、どう解決すべきかを、著者自身の言葉で積極的に主張しだすのだ。だからとってもわかりやすいし、とっても面白い。

 圧巻なのは、13章で取り上げる「現在の人間には未来の人間に対する義務があるか」という設問だ。これには、世代間の利害関係は確かにあるが対話できないという難問が含まれている。ところが、この難問の根本は近代的なシステムではなおざりにされてきた。なぜなら、近代は「過去の世代に対して遠慮しない」というシステムであり、「契約」という概念は徹底的に同じ世代間のみで合意されうるものとしているからだ。当然の帰結として「未来の世代に対しても責任を負わない」というのが、近代の倫理なのだ。

 一方で、現代が切り捨ててきた封建社会では、先祖から受け継いだものを次世代にしっかりと引き渡すバトンタッチ型の倫理をベースに組み立てられていた。そこには「次の世代への責任を負う」ことが社会の倫理として織り込まれていた。この点に関して無頓着な近代の倫理システムは、見直さなければならない時代を迎えている。それが僕らの生きる現代だ。地球の資源も、僕らが過去の世代から受け取り、なるべく損なうことなく未来の世代へと届ける事の倫理的な根拠が求められている。

 そこで注目されているのが、日本にかつてはあった「恩」という概念だ。この「恩」は、未来の世代との直接的な対話でも契約でもない。過去の世代から受け取った恩に報いるために、受けた恩に相当するものを未来の世代に返すという「バトンタッチ型の倫理」だ。この説明にはちょっとうならされた。いまや「恩」は封建時代の遺物ではなく、再発見された倫理システムである。

 そう言えば、11章では、他の著名な倫理学者と同等の扱いでマイケル・サンデルがちょっとだけ登場する。著者のような同業者がサンデルにどういうレッテルを貼っているか、興味深いので最後に挙げておこう。自由主義に対して共同体主義から批判が出ているという。それは自由主義が人間を「アトム的な個体」と見なしている事に対する批判だ。要するに誤解を恐れずに言えば「しがらみのない一個人」と見なしすぎるという事だろう。自由主義が現実的な問題を解決する際には、「しがらみ」を考慮せざるをえない。

 これに対して共同体主義は、人間をいつもどこかの共同体(community)に帰属するものと見なしている。たとえば代表的共同体主義者の一人であるサンデル(Michael Sandel 1952-)は、個人には、家族、共同体、社会関係が刻印されており、「負荷のない自己」(the unencumbered self)というアトミズムの個人観は幻影にすぎないという。(P.186)


 どうやらサンデルは無制限な自由主義には批判的なようだ。それに対して著者は自由主義にもまだ見どころがあり、欠点を改良しながら使いこなすべきだと主張している。
posted by アスラン at 16:33| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
かなり参考になりました。
ありがとうございました。
Posted by 大学生 at 2011年04月06日 09:08
大学生さん、コメントありがとう。

でも大学生なんですよね。
参考にしないでも、自分で考えて書いてくださいね。
Posted by アスラン at 2011年04月11日 12:28
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