2010年11月18日

日本語は論理的である 月本洋(2010/11/3読了)

 かなり期待して読んだが、肩すかしを食わされた思いだ。世に「日本語は論理的でない」あるいは「日本語は非論理的だ」と考える人は意外と多い。そこから、日本人は物事を論理的に考える事が苦手だとか、抽象的な文章表現ができないという、見せかけの主張が出てくる。さらには英語の構文をまねて「『無生物主語』を使えば論理的な(あるいは抽象的な)文章が書ける」と言い出す愚か者まで現れる始末だ。決して一般人だけでなく、案外と文化人や知識人、はては専門家にまで「日本語非論理的・派」が絶えないのだから、始末におえない。
 「日本語は論理的か非論理的か」という昔からの議論に一つの解答を与えたのが、この本だ。だが著者の苦労はむくわれているだろうか。なにより長年にわたってこの議論に注目してきた僕自身が、著者の主張に説得されただろうか。「はい」とも言えるし、「いいえ」とも言える。

 確かに「日本語は論理的でない」という事を具体的に論証した文章にお目にかかった事はない。そう主張している人は実感さえあれば根拠はいらないと思っているのか、とにかく迷うことなく断定する。しかし「日本語は論理的である」と言い返す側の具体的な反証に出くわす事もまた少ない。いずれの側も自らの体験から来る実感だけを頼りに、いらぬ議論をしているに過ぎないのかもしれない。

 そういう意味では、著者は明らかに「日本語の論理」に真っ正面から取り組んで、従来から日本人を二分してきた議論に一つの解決を与えたには違いない。しかし、さきほど僕が著者の説明に納得しなかったと言ったのは、著者がこの問題を論理的に扱いすぎたからに他ならない。長い間、国語学者たちを悩ませてきた大問題を、結論からさかのぼって設問自体をすりかえてしまったように思われるからだ。端的に言えば、著者は大きな勘違いをしている。

 「日本語の論理」と「英語の論理」が異なる事は一目瞭然。誰でもそう思うだろう。そして「日本語が論理的でない」という定言が、裏を返せば「英語は論理的である」という定言を前提にしている事もまた確かだろう。そこで「日本語が論理的な構造を持っている」ことを説明するために、著者は日本語の構文を形式化(いわゆる数学でいうところの抽象化)し、日本語が「場の論理(容器の論理)」に支配されている事を論証する。結論として「命題論理」こそが日本語の論理の基本である事を示す。

 一方で「英語の論理構造」をとりあげて、「述語論理」が基本であることを示す。つまり命題論理と述語論理という対立はあっても、それぞれに優劣はない。「日本語は非論理的」という主張は見当違いだ。証明終わり(QED)。

 めでたし、めでたしだ。返す刀で、著者は数々の国語学者の説を切り捨てる。「日本語は非論理的」という主張を一刀両断にするのは当然であるが、「日本語は特殊なだけで論理的である」という主張も切り捨てる。「論理的だ」と言っている、言わば身内までも、同じように切り捨てるのはやりすぎだろう。しかし、著者にしてみれば「日本語の論理」の『論理』の内実に関心があるのだから、「特殊な論理」という主張でさえも認めないというこだわりは致し方ないのかもしれない。

 僕が肩すかしされたと感じるのは、そのあとだ。著者は「日本語は論理的である」ことを証明したあとは、その原因を学校文法に求める。「主語−述語」という英語特有の構造を日本語にあてはめた学校文法(国語文法)が元凶と見るのだ。どうして学校文法(国語文法)が誤りだと「日本語は非論理的」という主張が出てくるのか?

 著者にとっては「日本語が論理的である」ことは自明であるからこそ、当然の帰結として学校文法が元凶だと断定するのだが、ことはそう簡単ではない。なぜならば国語学者は、著者のような理数系の人間とは違って、科学的な思考法で言語現象を捉えているわけではない。ましてや一般人が「日本語は形式論理に基づいている」から安心してご使用くださいと言われて、はい、そうですかと鵜呑みにするはずはないだろう。

 著者が本書の後半で主張していることと言えば、「現行の学校文法(国語文法)をやめて、日本語文法を教え直す必要がある」という、あたりまえの結論でしかない。では著者がすべきことはなんだったのだろう。僕は著者に何を期待していたのだろう。

 実は僕自身も、「日本語が形式論理に則った論理構造を持っている」と誰かが明晰に答えてくれればいいのにと考えていた。「日本語は論理的だ」と自信をもって言える根拠さえあれば心強いと思っていた。しかし、本書を読んで、そうではないということがはっきりとわかった。それだけではダメなのだ。

 たとえ「日本語は論理的だ」と証明されたとしても、「日本語は論理的ではない」という主張は消えてなくならない。なぜならば、この主張自体は論証された結論ではなく、あくまでアメリカの政治的・経済的達成を目の当たりにした日本人(特に知識人)の劣等感が根本にあるからだ。アメリカ人が合理的・論理的に思考し、抽象的な議論を得意とするのも、ひとえに日本人そのものが、あらゆる点でアメリカに遅れをとっているからだ。そういう劣等感が日本人を「西洋にならえ」と駆り立て、西洋の文化や哲学、果ては習慣までも猿まねするようになった。それはそう遠い話ではない。たかだか百数十年前の事だ。

 この間にさまざまな過程を経て、日本人は自らの劣等感を克服してきた。バブル期の日本人は自らのアイデンティティが最も鼓舞されたことだろう。〈電子立国〉というキーワードで、過去のみじめな歴史観を拭い去れたと信じた人が、かなりの数にのぼったことだろう。

 今の日本人は、明治の文明開化期に当時の人が感じたようには、アメリカやヨーロッパ諸国に対して、文化や経済に遅れを感じてはいない。しかし、そうであっても、日本がまだまだ西洋に対して劣等感を感じる場面がある。たとえば、なぜオリンピックで日本は(アメリカのようには)金メダルをとれないか。なぜノーベル賞をとれる人材が(アメリカと比べて)少ないか。何故、何故、何故…。話は日本国あるいは日本民族全体の問題になる。そこには、日本には根づかず、アメリカには根づいている何かがあるはずだ。

 おそらく、アメリカやヨーロッパに留学して学んできた人々が感じる日本の後進性は、文化にはない。経済にもない。では、何か。合理的精神そのもの、そしてそれを培う風土にしかない。そう思い込んで〈アメリカ教〉に宗旨替えする人々が後を絶たない。彼らは日本に戻ってきては、さまざまな迷妄を世に広めている。そのほとんどは、留学時の体験から得た直観から来ている。「日本語は論理的ではない」というドグマは、「日本人は論理的思考ができない(苦手だ)」という実感とワンセットとなって主張される。時に「日本語」は、「我々は論理的思考が苦手だ」という事の最大要因(元凶)とされてきたのだ。

だから真なる敵がなんであるかと言えば、「日本人は論理的思考ができない」という点だ。これを克服しないかぎり、日本人は最後の最後まで劣等感をぬぐえない。逆を言うと、日本人がもしアメリカ人並みに「論理的思考」とやらを身につけ、苦手意識を解消できれば「日本語は論理的でない」という主張も時代遅れとなって、雲散霧消するだろう。いつだって歴史を変えていくのは新しい世代だ。旧世代の戯言に耳を貸さなくなるのも彼らなのだ。そういう意味で、僕はこの問題に対しては楽観的だ。

 ただし、「日本語は論理的でない」という主張は一人歩きしている。あらゆる場面で顔を出す。それをただすには「学校文法」の弊害を取り除くしかない。これは立場の違いこそあれ、多くの人の共通するところだ。この問題解決に、これまで多くの国語学者たちがアプローチしてきた。三上章などは在野の研究者の筆頭だ。その彼からして「日本語は論理的だが、西洋と比べて特殊な論理を持っている」という「誤った主張」をしている、と著者は言う。

 しかし、日本語はまぎれもなく正真正銘「論理的」だと主張するだけの著者の態度は、はっきりと「不毛」だと言える。そんなことを科学的に、あるいは数学的に証明したところで、何の解決も与えない。要は方法論こそが求められている。「日本語が論理的である」という実感を日本人全員に抱かせる方法論を求めて、三上やその後継者たちは戦ってきた。

 その方法論を学としてみがくためにあれこれ考えているというのに、著者は日本語が「補語+補語+…+述語」という形式を持つのは自明だと、独りごちている。その程度の文法理解では、学校文法(国語文法)の壁は打ち破れない。いわば「方法論」の取り沙汰に関しては、著者のような科学者(数学者)の出る幕はない。

 僕が期待していながらがっかりさせられたのは、「日本語の論理」の正体をもっと見極めた上で、その論理が日本人の思考法にどんな影響を与えたかに関する掘り下げがなかった点だ。日本語が「容器の論理」をもち、英語は「主体の論理」をもつ。これは比率の問題であって、どちらが優れているという優劣関係には還元されない。筆者はあっさりとそう断定するが、どうしてそう言えるのか。僕にはわからなかった。

 その違いが日本人とアメリカ人、あるいは日本人と西洋人との思考法の優劣を生んでないとどうして言えるのか。「日本語の論理」に責任の一端がないことを主張するために、粘り強い研究こそが著者に求められている。科学的(数学的)な証明と我々日本人の実感との間にある大きなギャップを埋めてもいない著者に、国語学者たちと同じ席について国語文法について語る資格があるとは思えない。

 さらに言えば、「小学校英語教育を廃止すべき」と主張する著者が論拠としている研究は、かなりあやしい。いや、研究そのものは尊重するし、注目に値する。問題は、研究から得られた「日本人は左脳で母音を聴き、イギリス人は右脳で母音を聴く」という定式を援用して、小学生には英語を習わせるべきではないと結論づけるところがあやしい。まだ日本人として未成熟の小学生の脳に与える悪影響は計り知れないというのが、著者の言い分だ。だから注意が必要だというのなら、タバコのパッケージに書かれた「健康のために吸いすぎに注意しましょう」と言う能書き程度には、耳を傾けよう。

 だが、この影響が日本語の崩壊をもたらすというプロセスは、科学的に検証されたものではない。言語表現はそんな単純なものではない。長きにわたる様々な要因で変化していくものだ。だから学問としての国語への批判は学者たちにまかせて、著者には科学者として彼らを援護していく立場をわきまえてほしい。
posted by アスラン at 20:16| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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