タイトルが目に入ったときからわからなかったが、タイトルと同じ文章が主人公の高校生の語りにあらわれてようやく判った。「りはめ」なんて言葉はない。
「り」は「め」より100倍恐ろしいとすればわかりやすい。ようするに「いじり」は「いじめ」よりとてつもなく酷いという意味だ。なるほど。でも「いじめ」は聞き慣れている言葉だが「いじり」は聞かない。
では、一体「いじり」ってなんだろう。
本書の冒頭から主人公の羽柴典孝は「いじり」の恐ろしさに過剰に反応する高校生として物語を語り始める。実は羽柴は中学の時に「いじられる」存在だった。いったんいじられる存在になると、卒業するまで延々と「いじり」の立場は続く。だから高校に進学してかつての同級生たちと縁が切れたのを機会に「いじり」の立場から抜けだそうと入学当初からあらゆる手を使って脱「いじり」を試みる。
例えば同じクラス同じバスケ部の仲間に「いじり」の素養を見つけたとたんに、彼を追い込もうとする。いったん誰かが「いじり」になりさえすれば自分は「いじり」の対象にはならないというわけだ。姑息な奴だ。
途中で、同じバスケ部に所属する芸達者な仲間が「いじり」の対象にされそうになるのをどうする事もできずやり過ごす時に、タイトルと同じ独白が出てくる。「いじり」とは最近のバラエティー番組に起用される芸人たちが頻繁に使ういわば業界用語から来ている。
芸人と言ってもバラエティー番組では漫才やコントといった持ち芸を披露するわけではない。するとバラエティーの本質から言って様々な話題に当意即妙でコメントしたり笑いをとる事が求められる。
その芸人としての最低限のフットワークさえない者は他の芸人から「いじってもらう」事で笑いをとる。言わば現代のテレビならではの芸人のありようであるが、視聴者も芸人の自虐的な姿を楽しんでいる。
自虐的な芸人はいじってもらって「おいしい」思いをしているわけだが、これがいじる側といじられる側の相思相愛ならばなんの問題もない。つい最近「医龍」というドラマの出演者たちは「小池徹平いじり」と称してWaTをワッツと発音してからかうのが流行っているとテレビで言っていた。からかわれる方もどことなくうれしそうだ。
本書の主人公は「いじり」が「いじめ」よりも恐ろしい理由として、いじめにはいじめられる側にも問題があるが、いじりにはいじられる側に正当な理由などないと言っている。ただある日突然「いじり」が始まるともうそれを止める手だてがなくなるのだ。
しかも「いじり」は一見すると「いじめ」のようなあからさまな弱者への虐待とは違って、「いじる/いじられる」という了解がお互いに存在しているかのように機能する。適度にいじりあるいはいじられていれば互いの上下関係の歪みは希薄だし、「いじめ」のように第三者が取りざたする状況には見えないかもしれない。
ただし本書では「いじり」はすぐに「いじめ」に転化する。そのせいで、せっかくの「いじり」というテーマへの著者のこだわりが中途半端になってしまっている。しかも同じバスケ部に中学の頃「いじり」にあった学生が極端に多いのも設定として不自然だ。これだと今の中学や高校は、いじる側といじられる側に二極化しているという印象を与えるが果たしてそこまで事態は図式的に進行しているのだろうか。
本書は角川から出版されている雑誌「野性時代」が企画した青春文学大賞受賞作であり、著者は十七歳の現役高校生だそうだ。なるほど「いじり」の実態のリアリティを確保しながら書くことができるのは高校生ならではだろう。
しかし終盤のいわば下克上とも言える「いじられる側」のクーデターは青春文学としてはわかりやすい結末だが、すでに「いじり」が100倍恐ろしいものではなくなっている。分かりやすさをとった分、「いじり」の現実から後退しているようにも見える。
ラストのブラックなオチは「いじり」のもつ残酷さを端的に表現しているというよりは、著者の若さゆえのニヒリズムに過ぎない。
(2006年4月7日読了)



