2010年10月26日

数学の秘密の本棚 イアン・スチュアート(2010/10/22途中返却)

 返却期日がやってきてしまった。最初の最初しか読めず、本当に残念だった。読めなかったのは読まねばならない本があった事も理由の一つだが、もう一つ別の理由があった。翻訳がどうしようもなくダメダメだった。それで、読み通す気力が失せてしまったのだ。

 この本は予約してかなり待たされた。立川の図書館では蔵書になってないから、川崎市の図書館で予約してひたすら待ち続けた。書店に平積みになった本は、装丁がちょうど今のハロウィンにふさわしい秋の色に染め抜いてあり、パズルの本というよりはファンタジーの絵本のようだった。中身をさらっと見たときには単純に「面白そう」だと思った。この手のパズル本が結構好きなのだ。来るのを愉しみにしていた。

 ところが、届いた本を丁寧に読み出して唖然とした。翻訳が変だ。いや、変という範疇では収まらない。もう何がなんだか訳がわからない文章だ。最初はパズルの説明(つまりは著者の文章)が分かりにくい可能性も考えたのだが、そうではない。言い切ってもいい。ド下手な翻訳だった。すかさず訳者のプロフィールを見て、なるほどと思った。プロの翻訳家ではない。単に数学を生業としたどこぞの大学の教授だった。素人よりもたちが悪い。

 ひとたび翻訳のダメさに気づくとパズルに集中できない。四色問題の項などは、問題が提起されて解法が与えられるまでを数ページにわたって解説しているが、数学的説明があっているのか間違っているのかも判断できない。本来この手の本であれば、素人にもわかりやすい表現にしてかみ砕いて説明しているはずなのだが、原文がまずいのか訳文がまずいのか、とにかくわかりにくい。

 でも、第一問のパズルからして文章がダメなのだから、そこから見ていこう。誰だって、第一問を読んで、そのパズル本の善し悪しを判断するだろうから、それがダメダメだとなると、その後の中身は推して知るべしだろう。

 最初の問題は、例の「クレタ島のパラドックス」で有名な問題の変形版だ。クレタ人は嘘しかつかないので、島民かそうでないかを判別するにはどう問いかけたらいいかという、あれだ。このあまりに有名すぎるパズルが筆頭にくるのであれば、期待したほどの内容ではないのかもしれない。いや、僕などは無駄に生きてきたから知りすぎているだけで、この本を読みたがる若い読者には新鮮で面白いパズルなのだろう。

 そうは言っても、すれっからしの読者には何かオプションが必要だ。あるいは数学パズルというだけで敬遠するような読者に読んでもらうには、愉しんでもらうための仕掛けが必要だ。本書の著者はそう考えている。だからこそ最初の問題では「クワーク船長とミスター・クロック」が登場するのだ。どう見たって、「スター・トレック」のパロディ仕立てでパズルを愉しんでもらおうという意図は明白だ。ところが、訳者はそんな事まるでわかってない。いや、そんな事は些細な事だとでも思っているのだろう。

宇宙船インディフェンシブル号
惑星ノンコンポスメンティス
惑星の種族1:ベラシター
惑星の種族2:ギバリッシュ
種族の性別:ヘルマンドロフェミガイン
惑星の公用語:ギャラクシー語
惑星人の名前:アルフィ、ベティ、ゲンマ


 これらは、原文から手つかずのままにカタカナに移し替えられた単語の一部だ。もう、次から次と意味不明なカタカナが続く。でも「クワーク船長とミスター・クロック」がカーク船長とミスター・スポックをもじっているのだから、他のカタカナ語もなんらかの意味があるはずだ。このままではちんぷんかんぷんではないか。そう思って、変な話だけれどカタカナから英語のスペルを推測したり、あるいはカタカナそのままでググってみたりした。なんのことはない。ほぼすべてに著者のユーモアが込められていた。

indefensible 防御不可能な、弁解の余地がない
non compos mentis 心神喪失(正常な思考能力を欠く状態)での
veracity 正直
gibberish ちんぷんかんぷん
galaxy 銀河


 おそらく「ヘルマンドロフェミィガイン」は著者の完全な造語だろうが、原語の中にmanとfemiが隠れている。つまり「両性具有」をほのめかしているわけだ。

 ここまで下調べしたならば、この第一問は誰でも楽しめるだろう。シールドで防御されたエンタープライズ号とは似ても似つかぬボーギョフノー号だし、二人が転送された惑星はシンシンソーシツ星なのだ。そこの住人はバカショージキィとチンプゥカンプゥ。どちらが嘘をつくかは分かってもらえるだろうか。なぜ訳者は、素人の僕にもできる簡単な手間をかけなかったのだろう。細かい事がわからなくても、物語の流れとパズルそのものがわかればいいじゃないかという人もいるかもしれない。だが呆れたことに、訳文では物語のオチすら間違っている。

 クワーク船長は惑星の住人3名と出会う。この惑星にはベラシター(正直人)とギバリッシュ(ちんぷんかんぷん人)の2つの種族しか存在しない。名前の通り(というのは僕の下調べによるとだが)、ベラシターは正直に答え、ギバリッシュは必ず嘘で答える。彼らに質問しようとして、クワークは「嘘をつかれるかもしれない」と逡巡する。それにミスター・クロックはすかさず「論理的です」と答える。この場合、ギバリッシュは「必ず嘘をつく」のは自明なので、「論理的」もへったくれもない。クロックは、単に「道理です」とか「その通りです」と相づちをうったに過ぎない。ただ「logical」と言ったことだけは訳文から確かなようだ。

 いくつかの質問を終えたクワークが、3人がどちらの種族であるかわかったと言うと、さしものミスター・クロックも「どうわかったのか」と船長に聞き返す。そこでクワークは得意げに「論理的にと言ったのは君じゃないか」と言い返して終わる。わざわざパロディに仕立てたのに、この物語のどこが面白いのだろう。そもそも「論理的に考えろ」などとクロックは一言も言っていない。せいぜい「(船長のお考えは)論理的です」と相づちを打ったぐらいだ。

 実は、スター・トレックを見たことのある人ならば、このオチはおなじみのシチュエーションなのだ。クロックの元ネタのミスター・スポックは、論理的にしか考えられない超かたぶつな民族の一員で、感情的な船長といつも対立している。それがわかれば、この最後の一文は「日頃から論理的であれと言っているのは、君じゃないか」となるはずだ。思わず読者はニヤっとするところだ。どうやら訳者はスター・トレックを見たことがないらしい。

 次は「毛むくじゃらの犬」というタイトルのパズルだ。これまた昔からおなじみの遺産分配の問題だ。親が残した遺産は、価値のある生き物17頭。それを三人の息子が2分の1、3分の1、9分の1づつ相続する。このままだと生き物を切り刻まないことには、遺言通りに相続できない。さて、どう解決すればよいか、というパズルだ。

 ところが本書ではわけのわからない話が続く。ランシャロット卿は旅の途中、どしゃぶりに会い、エセルフレッド公爵の城に雨宿りを求める。あきらかに行きずり、通りすがりの男だ。公爵の美しき夫人ジンジャベールは悲しそうに涙を流しているところから、物語はおもしろくなる。はずだ…。

(魅力的な女性に目がない)ランシャロット卿は、ジンジャベールの涙に一瞬の輝きを見て取った。


すると、夫である公爵が、こう考える。

この男と妻を密会させないためには、やつが一番耐えられないことをさせるしかない。


 おかしいと思うでしょう。なぜ公爵は、まだ不倫関係にもなっていない男に、こんなにも憎悪を抱いているのか。しかも、この文の流れだと、どちらかと言えばモーションをかけているのは妻のジンジャベールとしか思えない。だが、おそらくは違う。

…ランシャロット卿は、ジンジャベールの涙にひとめでひきつけられた。


であろうし、そうであれば、公爵の憎しみは、

この男が万が一にも私に隠れて妻に逢おうなどと思わないように、少々こらしめてやろう


ぐらいのところだろう。

 叔父の遺言に3人のいとこが困り果てている事に、夫人は頭を痛めていると語り、叔父の遺産が17頭の「乗用犬」(へんな言葉だ)だと説明する。ただし「この目で見たことはありません」と夫人は言う。ここで公爵が「美人には似合わない」と「きっぱりと」言う。すかさずランシャロットは「話を逸らそう」とする。いったい何事が起きているのか。なぜランシャロットが話を逸らしたかと言えば、公爵が夫人に当てこすりを言ったからに違いない。

淑女のおまえが乗ろうたって似合わんぞ。

ならば、公爵の内心が伝わるだろう。

 続いて変な文章が、ぞろぞろ出てくる、出てくる。

エルプス卿は3人の息子に遺産を相続しました。


 ご冗談でしょう。どうしたって「遺産を相続する」のは3人の息子であって、死んだ当人が相続できるわけがない。「遺産を残した」が正解。

「犬を切り分けるわけにはいきません。男らしい騎士殿(グッドナイト)」と、夫人が言うと、ランシャロットは、「グッドナイト」という言葉に身をこわばらせたが、別に他意もなければ冗談でもないと考えることにした。


 何を言いたいのかわからず、妙な雰囲気だ。ナイト(騎士)とナイト(夜)が発音上では区別が付かないことからくるジョークのはずだが、訳文では伝わらない。洒落が訳しにくいのは当然だが、なんの洒落を言ってるかぐらいは伝わらないといけない。訳者はわかっているのか、あるいは伝える技術がないのか。

「…。ゆうかんな騎士よ(グッドナイト)」
「おやすみなさい(グッドナイト)」という一言にランシャロットは少々緊張したが、夫人が自分に対してその気があるわけでもなければ、洒落たつもりで言ったのでもない、と考える事にした。


 その後、夫人の飼い犬1頭を加えれば遺言が実行できると公爵が主張し、そのためには中庭の犬をエルプス卿の城につれていかねばならなくなった。ランシャロットがその役をかってでる。もちろん夫人との逢瀬がかなうのではと、淡い期待を抱いてのことだ。

実際のところ、ランシャロット卿が巨大な犬に乗ってエルプス卿の城へ向かうことはなかった。遺言が実行されていないことは分かっていたけれど。ランシャロットは自分の馬にまたがり、怒りをほとぼしらせながら荒れ狂う暗闇に向かって走り去った。残されたジンジャベールは、満たされなかった欲望に苦しんだ。


 意味不明な事ばかりだ。どうしてこんな次第になったかと言うと、夫人が夫にささやいた言葉(「聞こえよがしにささやいた」というのだが、いったい聞こえるように言ったのだろうか、それとも聞こえないようにささやいたのだろうか?)のせいだ。ところが回答に用意された言葉がばかげている。ばかげたオチだからではない。訳が舌足らずで、夫人の内面が伝わってこないからだ。

 夫人ははたして騎士が思いを寄せるのを知って、自分も浮気心をくすぐられていたのだろうか?「満たされなかった欲望に苦しんだ」と書かれていれば、読者は、夫人が恋しくて身もだえしたのかと思うではないか。

実のところ、ランシャロット卿が巨大な犬にまたがってエルプス卿の城へ向かう事は、ついに果たされなかった。自分がいかなければ、遺言が成立しないことは分かっていたけれど。ランシャロット卿は…走り去った。残されたジンジャベールは、自らの望みが絶たれて思い悩んだ。


 ポイントは「欲望」が単なる「いとこの遺産問題の解決」に過ぎないという点だ。「満たされなかった欲望」というのは大げさすぎる。夫人が騎士に対して他意があるわけではない。だからこそ、解答に書かれた夫人の一言が騎士を打ちのめす。

 「真なる騎士とお考えならば、こんな犬に乗れなどとはあなたもおっしゃらないでしょうね」

 どの問題をとっても訳文がでたらめなので、肝心のパズルに集中できないのは分かってもらえるだろうか。なんとここまでで20ページしか読んでいないのだ。いっぱいありすぎて紹介しきれないので、もうやめておく。一番最後に読んだ「πの値を法律できめる」(P.25)の訳があまりに秀逸なので、簡単に触れておこう。

 アメリカのある州で、かつて「πの値」を決める法案を州議会で可決しようとした。8つ記載された値はすべて間違っていた。そのまま通れば数学にとっては歴史的な大きな過ちになるところだったが、幸いながら可決されなかった。その部分がこう訳される。

この法案は可決されず「無期限先送り」になった。今でも法案としては生きているらしい。……反対する理由もなく、法案は下院を通過した。全会一致だった。

 いったい「πの値を決める法案」は先送りされたのか、可決されたのか。そもそも「無期限先送りになった」と言った直後に「法案としては生きている」という訳もわかりにくい。日本では可決されなかった法案は、先送りされることなく廃案になるからだ。だから「be alive」の直訳だかなんだかしらないが、日本人に馴染みのある訳にするならば、「廃案にならずに継続扱いになっている」ぐらい説明的に訳してもらわないとわかりにくい。

 いや、それは目をつぶるとして、やはり先送りなのか、全会一致なのかどちらなんだろう。ああ、そうか、全会一致だったのは別の「πに関する法案」だったのだな。もうちょっとちゃんと読めばよかった。そこにはπの値が記載されていて、正しい値が含まれていたと書いてあった。やっぱり後半は別の法案の事を指していたのか。なるほど、なるほど。ところが、さらにその後に、「下院は全会一致で通過したが、結局は前述したとおり『無期限先送り』になった」と書かれている。あれっ?やっぱり最初の法案だったのか。でも、そうなると今度は法案に記載された「πの値」は正しかったのか、正しくなかったのかの辻褄が合わなくなる。

 きっとどこかに訳者の誤訳が隠されているに違いない。でも、もうタイムリミットだ。図書館の前に着いてしまった。この本の続編が出ているので、今度は待たされないように早めに予約しようと思っていたのだが、なんと引き続き同じ翻訳家が訳しているとわかって、いまだに予約していない。この本も、続きを読むかどうかは「無期限先送り」とさせてもらおう。なにしろ、読み出せばいちいち訳文に引っかかってパズルに集中できないに決まってるからだ。
posted by アスラン at 12:24| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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