2010年10月06日

無・無生物主語のススメ 〜「日本語作文術」から遠く離れて〜(その1)

 これは「日本語作文術−伝わる文章を書くために−(野内良三・著)」の書評番外編にあたる。すでに、この本を読んで感じたあれこれについては、4回にわたって書くつくした。いや、書きつくした事にした。そうでもしないと、細かく読み込めば読み込むほどに言いたいことがわき上がってくる。正直、こんな本は初めてだった。だから無理矢理にでも4回でケリをつけたつもりだ。ただ心残りだったのは、翻訳家という肩書きを持つはずの著者が「無生物主語のススメ」を読者に説いている事に対して、無生物主語の弊害を強く訴える余裕がなかった点だ。

 書評(その4)で、英語の無生物主語構文をそのまま翻訳調で訳すか、あるいはきちんと日本語としてこなれた調子で訳すかは、「好みの問題」なので作文術の対象外だと書いた。しかし本音を言えば、「無生物主語」構文をそのまま直訳した文章を読まされるのはごめんこうむりたい。それだけ始末に悪い文章なのだ。

 しかし、翻訳家でもない素人がうまく説明できる自信もないし、書評を書いている最中には適当な実例が見当たらなかったので、(その5)を書くのを断念した。ところが、ちょうど読み出した本に格好な素材が見つかったので、無謀にも無生物主語構文の意訳にとりかかってしまった。実は原書と対照していないので、自分の書き換えが正しいのか正しくないのか確かめようがない。だから、これは翻訳などではもちろんない。あくまで翻訳書に出てきた無生物主語構文を、こなれた文章に〈和文和訳〉する試みだ。


 格好の素材を提供してくれた本は「ユングとタロット」(サリー・ニコルズ著/秋山さと子・若山隆良訳)である。心理学者ユングは自らの「集合的無意識」や「元型」などの理論をあとづける素材として、タロットに関心をもっていた。この点を踏まえてユングの末弟とも言える著者が、歴史的にはほとんどわかっていないタロットの中でも、特に切り札22枚についてユング心理学における〈象徴〉としての意味を考察した大部である。とにかくでかくて重い本だ。持ち歩くには手に余るが、内容が面白そうなので自宅でぼつぼつ読み始めた。タロットへの興味、ユングという人物への好奇心があるせいで、序文の訳に足をとられることなく読み進めた。だが、少し気になるところがあって文章一つ一つの意味を正確に理解しようとすると、途端につまづきだした。だから、タロットの解説書程度に読んでおけば読めない本ではないのだけれど、著者の立論を学術的に正しく把握するには少々問題がある文章だ。(と、最初は甘い点数をつけていたのだが、その後読み進めるうちに「トンデモ翻訳」である事がわかった。それはまた別の機会に紹介しよう。)

 序文で著者は、まずタロットがユング心理学にとってどういう位置づけなのかを簡単に説明する。切り札カード22枚を一つ一つ検討していく前に、「マルセイユ版」とよばれる由緒あるタロットを出発点に選んだ理由を述べる。普通に店頭で買うことのできるタロットのデッキ(一組のタロットをこう呼ぶらしい)には、カード一枚一枚の意味を説明する解説書がついてくる。これに対して「マルセイユ版」と呼ばれるタロットは、無数にあるタロットの中の一系譜にすぎないが、タロットの起源へと多少なりともさかのぼろうとするにはきわめて重要だと著者は考える。

 さて、問題となる無生物主語構文を提示する準備は整った。次の引用の後半にそれがある。助走のために前半から見ていこう。

 解説書付きのタロットのデッキと、単体で存在しているマルセイユ版の間にある違いは微妙なものではあるが、タロットへのアプローチということに関していえば、その違いは重要である。私たちの思考の方法にとってみれば、解説書を読むことと美術館に入って行くことの間にある違いほどである。どちらも貴重な体験ではあるが、両者はその効果においてきわめてかけ離れている。解説書は、知性と感情移入を刺激し、他者の洞察や感情へと私たちを結びつける。美術館は想像力を刺激し、私たちを強いて、自分自身の創造性の中に深く浸らせ、拡充(アンプリフィケーション)と理解のための体験の中に浸らせる。(サリー・ニコルズ「ユングとタロット」P.22)


 一見して「の」が多いことがみてとれる。翻訳において準体助詞「の」は不吉な印と言っていい。
 「解説書付きのタロットのデッキ」
 「タロットへのアプローチ」
 「私たちの思考の方法」

 一番目は読みちがえようがないから目をつぶるにしても、少しは配慮があっていいだろう。「解説書がついたタロット一組」でもいいではないか。2番目は単なる「の」ではなく「への」なので、「タロット(の起源や意味、役割など)に迫ること」という解釈以外にはならない。この中では3番目がもっとも罪深い。「の」に匹敵するくらい不吉な印「私たち」が不用意に使われている。これは果たして何者なのか?

 著者が単独ではなくグループで研究した論文であれば、「私たち」は著者たちを指し、その主張には一種の権威が感じられる。そうではなく読者を含めた「私たち」であれば、あえて著者(たち)と読者(たち)を共犯関係に仕立てた上で、「ねえ、そうでしょ」と読者側に一歩すり寄っている。最後に考えられるのは「私たち=人類、人間、人」という解釈だ。この場合は、そのあとにくる「思考の方法」に普遍性・客観性が付与される。

 結論から言うと、ここの「私たち」は第一の解釈だ。というのも「解説書付きのタロットとマルセイユ版」にはたいした違いはないと言っておきながら、「タロットへのアプローチ」という観点からは「大きな違い」があると主張するからには、著者独自の理屈がなければならない。「私たちの思考の方法」とは、「(著者たちの)思考の方法」という事になる。

 すると今度は「思考の方法」という表現がきわめて奇妙で怪しげに思えてくる。こういうとき、普通の日本人ならば「考え方」ぐらいな言い方をしないだろうか?
私たちの思考の方法をとってみれば…


という表現も、もってまわった言い方でピンと来ない。ここは「私たち著者の考えでは」とするか、それではあまりにあっさりしすぎていると言うのであれば「私たち著者らの理論を適用すれば」が良さそうだ。次は

〜の間にある違いほどである。


 うーむ。「difference between A & B」がモロにすけてみえる。細かく見ていくとけっこうヘボい訳文かもしれない。ここはもう、
私たちの理論をあてはめてみれば、前者はタロットの解説書を読むだけなのに、後者はわざわざ実物を見に美術館に足を運ぶくらいの差がある。

と書き換えておこう。

 続く文章で著者は、「解説書を読むことと美術館に行くこと」とは、「効果」という点できわめてかけ離れた体験なのだと述べている。そしていよいよ次が無生物主語の文章だ。しかも、手強そうな無生物主語文が2文続く。

(A)解説書は、知性と感情移入を刺激し、他者の洞察や感情へと私たちを結びつける。
(B)美術館は想像力を刺激し、私たちを強いて、自分自身の創造性の中に深く浸らせ、拡充(アンプリフィケーション)と理解のための体験の中に浸らせる。


まずは(A)だ。この文章には「無生物主語」にたいして二つの述語が呼応している。
(A-1)解説書は、知性と感情移入を刺激し、
(A-2)(解説書は)他者の洞察と感情へと私たちを結びつける。

 一般に(A-2)の方がS+V+O1+O2式の典型的な無生物主語構文だ。しかも(A-1)と(A-2)とは、「知性」と「洞察」、「感情移入」と「感情」という対応関係があるので、もしかすると(A-1)は(A-2)を主文とした分詞構文かもしれない。とりあえずこのまま(A-1)と(A-2)を順に解釈していくとすると、たちまち壁にぶつかる。

(A-1a)(解説書は)知性を刺激する


ことはあっても

(A-1b)(解説書は)感情移入を刺激する


ことはない。そもそも、「知性と感情移入」とは〈性質〉と〈行為〉なのだから、並び立たないのではないだろうか。どこかに間違いがあるはずだ。このままでは手詰まりなので、(A-2)を先に解釈してみよう。

 するとまたしても「他者の洞察と感情」というフレーズに不吉な印「の」が出てくるし、「の」と同じくらいやっかいな並列助詞「と」が組み合わされている。「AのBとC」には「Aの(BとC)」と「(AのB)とC」という二種類の解釈がありうるが、バランスを考えると、(他者の)「洞察と感情」、すなわち「他者の洞察」および「他者の感情」という解釈が妥当だろう。

(A-2a)(解説書は)他者の洞察へと私たちを結びつける。
(A-2b)(解説書は)他者の感情へと私たちを結びつける。

 ここでまたしても「の」の解釈が行く手を阻む。いったい「他者の洞察」とは何だろう。「他者を洞察すること」なのか、「他者が洞察することなのか」のいずれだろうか。ふつうに考えると「他者を洞察すること」のほうなのだが、どうも手がかりがない。そこでまたしても保留して「他者の感情」の方を考えてみよう。

 感情は〈行為〉ではないことから、これはそのまま「の」が所有格となり「他者が持つ感情」を意味する。ならば、さきほどの「他者の洞察」は「他者が持つ洞察」という事になりそうだ。これをもうちょっとわかりやすく読みほどくと、
 他者の洞察=他者がどんなことを考えるか?
 他者の感情=他者がどんなことを感じるか?

という解釈になる。ここから遡って(A-1a)および(A-1b)との対応関係を考えてみる。「他者の洞察(考え方)」を知るには、知る事へのアプローチつまりは「知的活動」が要求され、「他者の感情(感じ方)」を知るには、まさに心の内へのアプローチつまりは「共感(感情移入)」が不可欠となる。

以上をまとめると、

(A-1a)'解説書は知的活動をうながし、
(A-1b)'(解説書は)共感をうながし、
(A-2a)'(解説書は)他者が何を考えるかへと私たちを結びつける。
(A-2b)'(解説書は)他者が何を感じるかへと私たちを結びつける。


 さて、まだピンとこない点があるとすると「〜へと私たちを結びつける」という表現だ。「導く」と書いてあれば「(私たちが)〜を理解する」と訳せるが、「結びつける」はもうちょっと「自らの問題として引き受ける」というニュアンスが感じられる。つまり「わがことのようにみなす」である。

 そこからこんな試訳ができあがった。

 [(A)の試訳]
解説書を読むと知的関心や共感がわきおこり、他人がどんなことを考えどんな感情をいだくかについて、より身近に感じられる。


次は(B)だが、こちらはさらに手強い。(つづく)
posted by アスラン at 12:33| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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