2010年09月17日

日本語作文術−伝わる文章を書くために− 野内良三(その4)

 「13.日本語の論理 ヨーロッパ語の論理」の冒頭で、

日本語は基本的には主観的な判断(と思う)か事実の記述(雨が降る)しかできない。(P.83)


と筆者は書いている。「しかできない」という否定的な言辞は、その後に述べられる「(日本語は)抽象的=観念的内容が表現できない」ことを指しているらしい。これが事実ならば、日本人はなんと不幸な民族だろうか。ところが、著者によれば僕らは生まれの不幸を呪わねばならない存在のようだ。

(1)あなたは悲しい。(You are sad.)
(2)彼は悲しい。(He is sad.)


英語の方は自然だが日本語は不自然なので、
(1')あなたは悲しそうだ。
(2')彼は悲しそうだ。

と書かないと、自然な表現にならないと著者は主張する。「(日本語は)必ず主観的判断をともなう方に表現が傾く」と言うのだ。これほど人を愚弄している主張もない。

 英語でも(1)や(2)の文章は、ある条件下でなければ使えないのは当たり前だ。小説における全知全能の語り手ならば(1)や(2)のように断定的に表現できるが、もし面と向かった相手に「You are sad.」と言ったら、驚かれるはずだ。そういう時はなんと言うか、著者はご存じでしょうか?
I think you are sad.(あなたは悲しそうだ。)
I think he is sad.(彼は悲しそうだ。)

と言うのだ。(1')(2')と事情は全く変わらないではないか。つまり(1)(2)は日本語であろうと英語であろうと、語り手を想定しないと不自然なのだ。その理由ははっきりしている。語り手でなければ、他人の心のうちを客観的に判断することなど不可能だからだ。おどろくべき事に、こんなにも簡単に論駁できる脆弱な論拠で、著者は日本語を「主観的」と決めつけているのだ。

 ここに至って、筆者は日本語の特質を3つ挙げる。
[1]発話環境依存的である
[2]統語的に単純である
[3]主観的である

ここに至るまでに誤りを指摘してきたから、正しく書き直す。
[1']文脈依存的である
[2']統語的に単純である(ただし表現は多義性に富む)

これだけになる。[3]は削除する。[2']について一言触れておく。日本語は、統語的には述部以外の必須要素を持たないので、「最小セットが単純である」のは確かだ。だが、日本語そのものが単純な言語だと思ったら大間違いだ。複雑な内容を書くためには複雑で精緻な構文やレトリックを用いる事が求められる。それが不向きな言語であるわけはない。だから、どこをどう押しても「日本語は抽象的=観念的内容を表現するには不向きだった」(P.84)と結論づけるわけにはいかない。

 ところが著者の迷走はとどまるところをしらない。

逆に見ればこの三つの性格から自由になれれば、日本語でも抽象的=観念的内容を表現できるということだ。こんなふうに言うと小難しく感じられるかもしれないが、具体的には「私」という視点をやめることだ。文の中で主語を大いに活躍させることだ。さらに言えば、主語に無生物主語(抽象的な言葉)を当てることである。(P.84)


 ついに英文和訳でおなじみの「無生物主語」まで登場してきた。しかもそれを使えば日本語の「主観的」性格を解消できるそうである。ここまで来ると僕には、著者が、用意されたNGワードをことごとく口に出しては自爆してゆく解答者のように見えてくる。寄りによって「無生物主語」とは…。

 著者はかつては翻訳も手がけていて、旺文社文庫の「ルパンシリーズ」などを翻訳していたらしい。僕自身は旺文社版「ルパン」は読んでないし、現在も出版されているのかも知らないが、つくづくこの人の翻訳を読まずにすんでよかったと「身の幸せ」を喜びたくなる。もちろん、翻訳が上手かどうかを本書で判断すべきではないとは思うが、本書で展開される主張や翻訳に対する姿勢を見ると、およそ翻訳で肝心な日本語に信頼がおけるとは到底思えない。

 あの「欠陥翻訳時評」で有名な別宮貞徳先生の著書で、無生物主語は「分かりにくい翻訳」を生み出す温床となる事が、それこそわかりやすく書かれていたはずだ。残念ながら手元にないので確認できなかった。実家に蔵していたと思って先日訪れた際に探したが、処分してしまったらしい。本当にもったいない事をした。ただし、僕にはもうひとり強い味方がいる。最近お亡くなりになった安西徹雄さんだ。彼の名著「翻訳英文法」を頼りに、いかに著者の主張が間違っているかを明らかにしていこう。

 最初に素人でも言える事を言っておく。「無生物主語=抽象的な言葉」という理解は誤りだ。著者は前提をよく取り違えるが、あまりに論の立て方が粗雑すぎる。無生物主語は文字通り「生物以外の主語」の事であり、「私」「彼」「あなた」「トラ」「象」などのような生き物でなければ何でも良い。「抽象的なコト(モノ)」なのか「具体的なコト(モノ)」なのかは一切問わない。

 もともと英語の構文を語る際の専門用語なので、英語の例文で考える。
The dog's attempts to climb the tree after the cat came to nothing.


の「The dog's attempts」がまさにそうだ。まさかこれが抽象的な言葉だとは誰も思うまい。attemptsは英語の辞書では「抽象名詞」に分類されるが、単語が抽象的概念であるかどうかとは一致しない。上記の無生物主語は、直訳すると「木にのぼろうとする犬の試み」となり、文全体の訳は

 (B)猫を追って木に登ろうとする犬の試みは無に帰した。

となる。種明かしすると、前述の例文も試訳(B)も、安西徹雄「翻訳英文法」からの受け売り(P.20)だ。さらに安西は、この直訳を良しとせず、
 (B')犬は猫の後を追いかけて何度も木に登ろうとしたけれども、無駄だった。

という訳を推奨している。

 では(B)と(B')の違いは何だろう。(B)は、たかが犬がしでかした事にしては大仰(おおげさ)で、日本語としてもこなれていない。もちろん、この一文だけでどちらの訳がいいか決めるのはナンセンスだが、原文がしゃっちょこばった学術論文ではなく、エッセイや小説に普通に出てくる文章だということを踏まえれば、誰でも(B')を選ぶだろう。直訳した(B)を選ぶと、そこだけ文の調子が堅くなってつりあいがとれなくなる。翻訳家ならば、無生物主語を解体して、こなれた日本語に訳す事を心がけるのは当然だ。

 しかし、不思議な事に本書の著者は、無生物主語を多用する事で「抽象的=観念的内容」を表現する事ができると主張する。言わせてもらうが、無生物主語を直訳調で訳すか、解体して和文調で訳すかは、文体の選択の問題にすぎない。無生物主語を使えば抽象的な内容を論理的に表現できるというのは、全くの謬見である。

 だが、著者は昔から「無生物主語は使われてきた」と、以下のように主張している。詳しく見ていこう。

無生物主語を立てるため−堅い内容を表現するため−昔の人は漢文で書いたり、漢文を真似た文章で書いたりした。明治以降の人はヨーロッパ語の影響を受けた翻訳調で書いた。(P.85)

 この一節には明らかな誤りがある。「無生物主語を立てるため昔の人は漢文で書いた」というのは事実ではない。昔から公用文を書くには漢文書き下し調を用いることが自然とされてきた。少しでも日本語の歴史、あるいは言文一致体の歴史に興味をもった事がある人ならば常識だろう。

 かつての日本は、文化・政治・技術などのすべての分野において、隣国・中国をお手本としていた時代があった。そもそもが文字をもたない民族であった日本人が、最初に日本固有の文字表現を手に入れるまでのまにあわせが、中国語(漢文)であった。ここから知識人がたどり着いたのが「書き下し文」であり、以後長きにわたって公用文や堅い調子の文章を書くのに用いられてきた。そういう事情で「漢文書き下し文=堅い文章」という印象が形作られてきたわけだ。「無生物主語を立てるために漢文で書いた」わけではない。

 明治初期の知識人や作家を悩ませたのは、言いたい事が自由に書けて相手に違和感なく伝える事ができる文体がないという事だった。漢文書き下し文は公用文や個人的なメモ(日記)などには適していたが、一部の知識人だけでなく誰もが読んだり書いたりできる文体ではない。同様に、いわゆる美文と言われた和文は、花鳥風月を叙述するには適していても、客観的な内容を整然と分かりやすく書くには適さなかった。そうして明治初期の人々(特に二葉亭四迷)が苦心した結果、生まれたのが、現代の文章につらなる「言文一致体」である。

 なぜこうまでして長々と「日本語の歴史」にふれたかというと、著者が持ち出す「翻訳調」というのは、こうした言文一致体で海外の文学などを翻訳する必然と、文体の創出を模索する過程から生み出された偶然の産物、言わば「あだ花」である事を言っておきたいからだ。

 翻訳調が広まったのは翻訳技術の未熟さが一因であるが、それ以外に「原文を理解できる知識人(インテリ)どうしの流行りの文体」であった事は否めない。翻訳調を用いれば原文が透けて見えて、読める人にはある程度通りがよいし、なによりも文体に新鮮さが感じられたに違いない。しかし、本来であれば「こなれた日本語」に翻訳することが「分かりやすい、伝わる文章」を書く第一歩であることは、安西徹雄の著作を持ち出すまでもなく、翻訳のプロと言われる人たちにとっては基本中の基本だろう。直訳でなく意訳することで「言文の客観性」が犠牲にされるわけではない。

 ところが著者は、
(日本語で)抽象的な内容を伝えようとすれば、手持ちの情報をいったんバラして−客観化して−再構成しなければならない。そのためには、日本語では主語に立たないような抽象的なもの(無生物)を主語に立てるセンス・能力がどうしても求められる(P.86)

と主張する。よくもまあ、ぬけぬけと書いたものだ。見てきたように「日本語は抽象的な内容を表現できる」し、「主観的言語でもない」ので、「手持ちの情報をいったんバラす=客観化する」事に何の意味があるだろうか。

 しかも真にナンセンス極まるのは、次の文の「無生物を主語に立てる」という主張だ。「無生物=抽象的な内容」ではない事に注意すれば、無生物主語を使う事には文体の選択以上の意味はない。ところが著者は、文体の問題ではなく抽象的な表現を書くための作文技術として「無生物主語のススメ」を説いている。あきれてものも言えないのだが、言わないと伝わらないので、あえて声を大にして言おう。バカも休み休み言いなさい。

 では著者が13節の最後に挙げている例文を吟味することで、「無生物主語」の問題にケリをつけよう。

(2)日本人の貪欲な好奇心が海外の文化の積極的な受容を可能とした。
(2')貪欲な好奇心のおかげで日本人は海外の文化を積極的に受け入れることができた。(P.87)


 「抽象的な文章を読んだり書いたりするというのは、なんのことはない翻訳調で考えるということなのだ」と書かれた直後に、(2)(2')が例示される。著者の「抽象的」と「主観的」のデタラメな使い方には、いいかげんウンザリだ。無生物主語をつかった文(2)と、日本語としてこなれた文(2')とでは、書かれている内容に差はない。(2)で内容を摂取した方が論理的=抽象的思考が養われるなどということもない。何度も言うが、文体が違うだけだ。著者も大風呂敷を広げておいて、結局は「(2)と(2')の決定な違いは主語の役割の軽重である」とか「名詞中心構文か、動詞中心構文か」のような表層の違いを指摘するだけだ。これって、つまるところは「文体の違い」の事でしょ。

 著者は(2)がどうしてもお好みなようだ。人の好みをとやかく言うつもりはないが、間違った事を読者に押しつけるのはやめにしてほしい。「報告書や論文、評論などの硬い文章は名詞=主語中心の翻訳調の文体で書かれている。本来の日本語では対応できないからである。」というのはもちろん大ウソだ。著者は強引に無生物主語の優位を説こうとしている。日本語の構文で硬い文章が書けないわけではない。たとえば(2')を次のように書き換えてみよう。

(2')(生来の)貪欲な好奇心により日本人は海外の文化を積極的に受容する事が可能になった。


 途端に「堅い文章」なったはずだ。つまり無生物主語に「堅い文章」を書く秘密があるのではなく、使われている語彙に秘密があるのだ。「(好奇心)のおかげで」とか「受け入れる」「〜ことができる」という和語表現はもともと「柔らかい表現」に適している。それが「〜により」とか「受容」とか「可能」というように語彙を変えるとなぜ「堅い文章」になるかと言えば、それらが元々は〈翻訳語〉であったからだ。

 こう書くと、さきほどの著者の主張が合っているかのように勘違いされるかもしれないが、僕がここで言う「翻訳語」とは、現代文につながる言文一致体が明治初期に創出された時にすでに抱え込んだ文体に根ざしている。先に言文一致体の歴史に触れたが、二葉亭四迷が自らの言文一致体の出来を試したのは、ツルゲーネフ「あいびき」などの翻訳でだった。だから、二葉亭が創出した言文一致体を祖先とする現代文そのものがいわば「翻訳調」と言えない事もないのだが、すでに二葉亭が創出してから100年を優に超えている。いまさら現代文の文体そのものを「翻訳調」とは誰もいわないだろう。

 明治初期の知識人や作家を悩ませたもう一つの問題があった。それは海外の文学や論文などを翻訳しようにも、原文に現れる語彙に対応する訳語が存在しないという事だった。その辺の事情を詳しく知りたければ、柳父章「翻訳語成立事情」を一読することをオススメするが、要は「自然」や「人工」「自由」「運動」などなど、大和言葉(和語)には存在しない概念を生み出すために、中国語(漢文)から借りてきたり、真似て作ったりしたものが翻訳語だ。

 これらを使う事で硬い文章ができあがる。さきほど見てきたとおりだ。なぜこれらの翻訳語を用いると文章が硬くなるのだろう。おそらくはもとが漢文から借りたり真似た単語であることが関係している。「読書」は「書(しょ)を読む」と書き下せば、硬い上に古めかしいが、「読書(どくしょ)」と音読みすれば、古めかしさは消え、硬い調子のみが残る。これを動詞化したのがサ変名詞(動詞)であり、「読書する」と言えば「書を読む」と同等の表現となった。同等とは言っても、やはり「読書(どくしょ)」という音読みの硬いイメージは引き継がれる事となったので、「報告書や論文、評論」に好んで用いられるようになって今に至った。

 だから、本当のことを言えば「硬い文章を書く」のに「無生物主語」を用いる必要もない。著者が断言した「述語中心の日本語の宿命」など存在しないのは、(2")の文章を(2)と見比べればわかってもらえるだろう。

 では「無生物主語」の問題とは何かと言えば、現在における「翻訳調」(こなれていない日本語表現)という文体の問題にすぎない。(2)と(2')を比べると表現の硬さに差があったが、(2)と(2")を比べると表現の硬さには差がない。最終的に何が違うと感じるかと言えば、著者も繰り返し言っているが、「バタくさいか、そうでないか」の違いだ。おそらく著者の年齢から推測すると、映画や小説のタイトルに「何が彼女をそうさせたか」式の翻訳調が流行した時代を経ているはずだ。このフレーズ(まさに無生物主語の文体の典型だ)は、「バタ臭い」がゆえに当時のモードにフィットした。「なんで彼女はそうしたか」では垢抜けないと感じた世代が存在したわけだ。

 おかげで、この手の「翻訳調」の文体をありがたがる人がいまだに多い。そういう人たちは「硬い」というだけでなく「バタ臭くてシャレている」と無意識に思って無生物主語の文体を多用しているのだ。だが、これ以上、文体論を語る必要はないだろう。文体の問題である以上は(a)だろうが(a')だろうが(a")だろうが、好きなものを選べばいい。どれかに優劣を付ける必要もないし、著者のように(a')を(a)にわざわざ書き直すような手間をかける必要などどこにもない。

 ただし「The dog's attemps」の例文を無生物主語のままに訳さなかった安西徹雄の主張を、もう一度思い起こして欲しい。無生物主語の翻訳調は危険をはらむ。(a)(a')のような例文はそもそもどちらで書いても「わかりやすく伝わる文章」だが、もうちょっと複雑な文章だと、無生物主語のままでは日本語としてこなれていないだけでなく、「わかりにくい文章」が簡単に書けてしまう。それは英語を日本語に訳す上での大きな障害となるのだが、日本語で最初から無生物主語を使う際も同じだ。翻訳を生業にしてきた著者ならば、その事にもっと自覚的であっていいはずだ。無生物主語の利点だけでなく欠点もしっかりと読者に伝えないと、著者のまねをして足下をすくわれる人が出てきかねない。

 さて、ここまで書いたから終わりにしよう。第1章だけ読んで図書館に返却する事になるが、第2章以降を読むかどうかは現時点で未定としよう。ここまで徹底的に腹立たしい部分をあげつらったのだが、みなさんはこの本を読んでみたいですか?僕ならば「読んでみたい」。実際に読んでみて、そんなばかげた事が本当に書いてあるか確かめてみたくなる。

 う〜む、また僕は本書の読者を増やす事に間接的に協力してしまったのではないだろう。変だなぁ。
posted by アスラン at 12:43| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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