2010年09月13日

日本語作文術−伝わる文章を書くために− 野内良三(その3)

 ついに(その3)まで来てしまった。かつて、ツッコミどころ満載のミステリー評論集の書評を(その5)まで書き継いだことがあったが、あれほどにはしたくない。あまりにバカバカしい記述が多いので、正直疲れてしまった。実はまな板にのせるのは第一章だけの予定なのに、もうひと山もふた山も越さねばならない。とりあえずは「12.日本語は主観的言語」の誤りについて、ざっと概観していこう。

国境(くにざかい)の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所で汽車が止まった。(P.78)

 川端康成の「雪国」の冒頭の一文だ。「国境」を「くにざかい」と読むか「こっきょう」と読むかの議論があったと思ったのだが、著者がルビを付けて断定しているところを見ると、決着がついたのかしら。腑に落ちないが本旨とは無関係だ。まあ良しとしよう。腑に落ちないのはルビどころではないからだ。

 ここで著者は第一文の「国境の長いトンネルを抜ける」の主語について取りざたする。理屈からすると「汽車」だと早々に断定するが、独断もいいところだ。「汽車」かもしれないし、「(汽車に乗った)私」かもしれないが、「非人称の主体(つまり誰でも)」の可能性もあるし、「語り手」自身だと考えて悪いわけではない。断定できないのは、日本語が英語などと違って主語を持たない言語だからだ。だからといって、この文章が不完全で意味が伝わらない文章というわけでは決してない。たとえば「ニに二をたすと四になる」「酒は米から作る」などのように、日本語では(英語でいうところの)主語は構文の必須要素ではない。

 主語がない文が書けてしまうことから「日本語は主観的な言語だ」という著者の断言はあまりに短絡的だ。こういう日本語の特徴は、逆に「自由度が高い」とは言えても決して言語としての不完全さを意味しない。英語を含めたヨーロッパの言語の方が融通がきかなくて不自由だとも言える。彼らの言語は「主語−動詞」を最小セットとして表現する。主語単独では機能しないし、述語も主語なしには意味をなさない。ワンセットで一つの表現をなす。そのため何がなんでも主体を明らかにし、状況を限定したうえでないと文章として表現できないのだ。

 案の定、「雪国」の英訳では冒頭の一文を「The train」を主語に据えて訳している。これは翻訳の不自由さを物語っている。川端の原文を読むときに僕らが想像するさまざまなイメージにくらべると、英訳は訳出可能な「汽車がトンネルを抜けると」という表現で原文を近似したにすぎない。なのに著者は、主語がないのは日本語が「主観的言語」だからと言うのだが、はたしてそうだろうか。

 国境の長いトンネルを抜けると新潟である。

と記述されたら、これは主観的判断だろうか、客観的判断だろうか。

 太陽系を抜けると外宇宙である。

これは主観的表現だろうか。客観的表現だろうか。さらには著者のありがたがる「主語」が本当に必要な文だろうか。翻訳は、同じ幹から派生した言語どうし(ヨーロッパの言語どうし)よりも、別系統の源を持つ言語どうし(日本語と英語など)の方が困難なことは容易に推測されるが、だからと言って日本語だけが特殊というわけではない。異なる言語を橋渡しする(翻訳する)以上、大なり小なり困難さはつきまとうものだ。ましてや、自国の構文を他国にあわせようとするなんて、どこまで外国語をありがたがってへつらえば気がすむのだろう。

 話を例文に戻そう。

日本語の文章の視点は「私」が基本である。日本語は黙っていれば「私」が見たこと、感じたこと、思ったことを語っていることになる(P.79)

と書く著者は、さきの「国境の…抜けると」は、「私」の視点から語られていると言う。

 一般に文章は「視点」の問題から自由にはなれない。どこから見ているかといえば、全知全能の神のように、上空からすべてを俯瞰しているか、あるいは登場人物の傍らに寄り添って、同時に心の中もお見通しで傍観しているか、いずれかであろう。通常、私たちはこれを「語り手(話者)」と呼ぶ。

 話者は日本語特有の問題ではないことは言うまでもない。

The train came out of the long tunnel into the sonow country.(P.79)


「(その)列車」について言及しているのは誰であろう。「汽車がトンネルを抜ける」のを見たのは誰だろう。「雪国に出た」と描写できる視点を確保しているのは誰であろう。これは著者のいう「客観化した『私』」などではない。全知全能の、神ならぬ「語り手」である。

 だが「主語ー述語」を基本セットとする言語では、語り手の痕跡は徹底的に文章の外に追い出されている。一方で「国境の…抜ける」のように、日本語は語り手の痕跡を消すどころか同伴OKの言語である。そのせいで「主観的」というバカげた主張でつけ込まれる隙ができたとすれば、日本語にとって大変不幸なことだ。

 著者は調子にのって、「私」の視点から例文を次のように書きかえる。

国境の長いトンネルを抜けたら、ほら目の前に雪国の景色がひろがってきた。夜の底が白くなったように感じる。おや、信号所で汽車が止まった。(P.80)


 一読して、原文とは似ても似つかない文章になってしまった事は歴然だ。書き換え文に「品位」がないのはもちろんだが、これでは原文で作者が伝えようとした表現が全く違っている。「国境の長いトンネルを抜ける」という表現に語り手の視点が感じられるとしても、語り手の視点である以上は主観的か客観的かの問題は引き起こさない。そもそもは著者の「私」の視点の導入が間違っているのだ。

 それがはっきりするのは次の文からだ。「夜の底が白くなった」あるいは「信号所で汽車が止まった」に、「私」の視点が感じられる根拠はどこにあるのか。

 信号所で汽車が止まった。
 The train came out of the long tunnel.

 筆者お得意の「主語」が明示されれば、主観的ではなく客観的な表現になるのではなかったか。なぜ「おや、信号所で汽車が止まった。」などと、語り手を顕在化する文章にする必要があるのか。もちろん、著者にとっては「必要がある」のだ。

日本語は自分の印象・思いを聞き手(読み手)にそのまま放り投げる。…「私」が省略されるという現象は日本語の発話環境依存性に起因する。(P.80)


 著者は是が非でも日本語が主観的な言語だと言いたいのだ。挙げ句の果てが、小難しい専門用語を使えば、こちらが「へへー」と平伏するとでも思っているのだろう。「日本語の発話環境依存性」とは、また難しい言葉を持ち出したものだ。ただし、発話環境によって「私」の省略が生じるというのは、またしても腑に落ちない。環境というのは、行為や行為者をとりまく状況や外的条件(制約)を指す。発話環境というのは、どういう場所でどういう状況でしゃべるかを指しているのだと思うが、これによって主語の「私」が省略されるというのでは、意味がよくわからない。おそらく著者は「文脈依存」の事を言いたいのではないだろうか?


 たとえば

 「昨日、あなたは夕食を食べましたか?」
 「食べました。」

という受け答えがあると、対話における文脈を可能な限り継承できるのが日本語の特徴なので「食べました」という答え方でも一向に表現として問題ない。わざわざ「私は昨日夕食を食べました」などと省略を補う必要などない。

 このような日本語の特徴を明確に正しく言及するためには、信頼のおける専門家に登場してもらうのが良さそうだ。小池清治は、著書「日本語はどんな言語か」で次のように日本語の特徴を簡潔に表現している。

日本語の文の第一の特徴は、構造的には非自律的であり、一般に文脈の助けを前提として文として成り立つという性質である。表現は言語主体の表現活動だけでは完成しない。受容者の理解活動を待たなければ完成しないのである。日本語の多くの文は、文脈の助けを得て初めて文になる。(「日本語はどんな言語か」(P.27))


 つまり「発話環境依存的」ではなく「日本語は文脈依存的である」という事は言える。ただし生成文法でいうところの「文脈依存」という性質は、自然言語であればまぬがれない性質だ。日本語の独特な点は「文脈に依存してさまざまな要素を省略できる」ところにあり、最終的には「お茶!」のような一語文も可能だし、「食べました」のような用言だけでも立派な文章となる。

 小池は、この後に日本語を「題説構文と叙述構文」とに分けて、言語主体(話し手・書き手)が個人的な判断を表現したり、客観的事象として叙述したりする構文をもっていることを詳細に説明している。決して日本語が「主観的だ」などとバカな事は主張していない。

ただこう書いていて、ちょっと気になる点がある。本書の著者は、

日本語は基本的には主観的判断(と思う)か事実の記述(雨が降る)しかできない。(P.83)


と書いている。正直、なんとなくパクっている気配が感じられる。しかも著者はパクッた上で早とちりしているのではないか。主観的判断と客観的記述ができれば言語として完全のはずだ。「しかできない」というのはどういう事だろう。それは「13.日本語の論理 ヨーロッパ語の論理」の主張を読めばわかるのだが、おそらく日本語は抽象的な記述や客観的判断(論理的判断)は表現できないと言いたいようなのだが、そう思っているのは著者だけではないだろうか。

 この点は13節の内容を検討する事で明らかにしていこう。という事はまた続いてしまうようだ。(つづく)
posted by アスラン at 19:57| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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