2010年09月09日

日本語作文術−伝わる文章を書くために− 野内良三(その2)

 「6.文の単位は長い順に並べる」で紹介されるテクニックは、前回も指摘したように本多勝一の「日本語の作文技術」という労作で初めて原理的に説明されたテクニックだ。その事に触れず、さらにはテクニックの創始者に敬意を払わないだけでなく、使い方も間違っているという点を詳細に検討していきたい。

 ここで言うテクニックを説明するために、著者は次の例文を持ち出す。

(A)彼は友人たちと先週の日曜日に桜の名所として知られる吉野を訪れた。


 ではこの文章を「わかりにくい」と感じた人はいるだろうか。僕は誤解なく読めた。何故かといえば(A)には係り受けの解釈にあいまいさが入り込む余地がないからだ。

 「彼は」&「友人たちと」&「先週の日曜日に」&「桜の名所として知られる吉野を」-->訪れた

というように、4つの言葉が文末の「訪れる」にかかる構造だ。「受ける言葉」に複数の「かかる言葉」が存在する場合はどうならべてもいいというのが、日本語の構文の原則だ。この例文を単純化して「AがBとCにDを訪れた」とみなすと、「Aが」「Bと」「Cに」「Dを」は順不同ということになる。(なぜ「Aは」ではなく「Aが」にしたかは後で触れる。)

 しかし、例文(A)のように「かかる言葉」の長さが違うと対等というわけにはいかない。そこが本多勝一メソッドの主眼(目の付けどころ)である。

(A’)桜の名所として知られる吉野を先週の日曜日に友人たちと彼は訪れた。

これが分かりやすい語順だと著者は推奨するが、これは間違いだ。というより(A)と(A’)とでは、大きくいうと二つの問題が競合しているのでどちらがいいとは言えない。それは、本多メソッドでいうところの「かかる言葉とうける言葉」の問題と「題目のハ」の問題だ。

 著者自身、「彼は」の自然さに引かれて(A)を選んでしまう読者がいることはわかっていて、二つの例文を並べる際に「彼は」を括弧にくくった上で「今度は(2)[この書評では(A’)]のほうがすらすら頭にはいってくるだろう(P.36)」と書いている。当たり前だ。だったら最初から「題目のハ」を含まない例文で解説すればよかったのだ。

(a)友人たちと先週の日曜日に桜の名所として知られる吉野を訪れた。
(a')桜の名所として知られる吉野を先週の日曜日に友人たちと訪れた。

 これならば(a’)の方が分かりやすくなる(しかし何故分かりやすくなるか、著者は本多メソッドの原理を本当に理解しているのだろうか)。例文を(a)にしなかった理由は容易に推測できる。西洋語の論理の優位を疑わない著者は、(著者が主張するところの)主語「彼は」を省略した文を使いたくなかったのだ。

 では本多メソッドをきちんと原理的に適用することで、(A)を最後まで推敲してみよう。まずは「題目のハ」の問題にふれよう。これは先ほど述べた日本語の特徴である「Aが」「Bと」「Cに」「Dを」は順不同となる原則の、数少ない例外だからだ。(故意に「Aは」とは書かなかった理由はここにある)。

 係助詞「ハ」を用いると「かかる言葉の対等性」が崩れる。「ハ」には文の題目を表す特殊な役目があり、それが後続の陳述を支配していくために、文頭にないとおさまりが悪い。簡単に言ってしまえば「AハBトCニDヲ訪れた」は自然な表現だが、「「BトCニDヲAハ訪れた」は不自然な表現となる。

 なので(A’)の「彼は」の位置を文頭に戻して、

(A”)彼は桜の名所として知られる吉野を先週の日曜日に友人たちと訪れた。


とすべきだ。あるいは「彼は」を除いた3つの「かかる言葉」を長い順に並び替えて直接(A”)にたどり着くべきだった。

 さて、(A")では「彼は」を文頭に出すために、そこだけ「長い順」ではなくなってしまった。これによって「かかる言葉と受ける言葉」の関係が曖昧にならないように、逆順になった「彼は」の直後に読点を打つ。

(A''')彼は、桜の名所として知られる吉野を先週の日曜日に友人たちと訪れた。


 これで完成だ。ここで用いた「読点の使い方」は、本書の「8.読点の打ち方に決まりはあるか」でも解説されている。だが、ここに書かれていることは「本多の説明に寄りかかりながら(P.52)」というより、そのままパクっている。しかも勝手に本多の原則を踏みにじっていたりするので、僕としてはぜひ「中学生からの作文技術」で読点の使い方を学んでほしいと言うしかない。

 ただし、何度も言うが、語順を操作するのはあくまで「わかりにくさ」を排除するのが目的だ。何がなんでも長い順に並べると良いというわけではない。その意味でも、例文(A)は語順を変える意義を感じさせない文だった。たとえば、

自分の生命を敬愛していた太宰治の前で絶ったのである。(「中学生からの作文技術」P.72)


という例文ならば、語順を変える事の意義を誰しも実感できるのではないだろうか。「〜を敬愛する」と言い方のなじみがいいので、

 「自分の生命を敬愛していた太宰治の前で」->絶ったのである

と読めてしまうが、実は

 「自分の生命を」&「敬愛していた太宰治の前で」-->絶ったのである

が正しい。これを「長い順」に並べれば、「敬愛していた太宰治の前で自分の生命を絶ったのである」のように、元の例文よりもわかりやすい文になる。著者は原理的に物事を考えるというセンスがないためか、ことどとく当を得ない例文を選択している。どうせパクるのであれば例文もそのまま本多勝一の著作から持ってくればよかったのだ。

 例文(A)のセンスのなさをもうちょっと説明すると、「桜の名所として知られる吉野を」を後ろに置いておいたままにしておくと、

 「友人たちと」->「桜の名所として知られる」-->「吉野を」
 「先週の日曜日に」-->「桜の名所として知られる」-->「吉野を」

という係り受けの曖昧さが生じるかどうかが、語順を変える手間をかけるか否かの分岐点になる。さきほどの例のように「生命を」と「敬愛する」のなじみの良さから文意が変わってしまうのと違って、例文(A)はわざわざ語順を変えるほどには係り受けを読み違える文では元々なかったのだ。

 言いたいこと、書きたいことは後から後からわいてくるが、著者が本多勝一の作文技術をいかに中途半端に〈利用〉しているかについては、ほぼ尽くしたかと思う。ただ、すぐ次に「日本語というのがいかに論理的でなく、客観的な表現ができない言語だ」という誤った主張が待ち受けているのを見過ごす事はできない。さらにこの書評は続けねばなるまい。(つづく)
posted by アスラン at 13:48| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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