2010年09月06日

日本語作文術−伝わる文章を書くために− 野内良三(2010/8/31中途で中断、第1章のみ読了)(その1)

 ちょっと異例なことだが、第一章(I.作文術の心得−短文道場−)を読み終わったところで、感想をしたためようと思う。というのも、読み進めるうちに腹立たしい記述にぶつかってばかりだからだ。実用文をうまく書くためには、様々なテクニックが必要なのは言うまでもない。だからテクニックがよそ様の借り物であったとしても、出典を明かした上で、きちんとそのテクニックを踏襲していれば問題はない。ところがこの著者は、エッセンスをパクっただけで使い方が間違っていたり中途半端に利用していたりする。さらにはなぜそういうテクニックが必要なのかという根本的な目的が誤っていたりもするのだ。

6.文の単位は長い順に並べる
7.読点の打ち方に決まりはあるか
9.ハとガの使い分けのポイント


 これは第一章に含まれる項目だが、これを見ただけで、知る人は「ハハァ」と気づくだろう。これはまさしく本多勝一の名著「日本語の作文技術」での基本戦略を下敷きにしている。「文の単位は長い順に並べる」という明快なテクニックを、経験則ではなくて論理に裏打ちされた原理として掲げた書物は「日本語の作文技術」以前はなかったはずだ。

 それなのに、本書P.34で「文節(文の単位)は長い順に並べる」とさらっと書いたあげくに『「なに、これ?」と思われる方も多いだろう。』などと、まるで筆者自身があみだしたか、あるいは専門家ならば誰でも知っているかのような言い方をしている。本多勝一の名前も著作にも言及していない。「読点の使い方」の項目にいたって、ようやく本多の事に触れる。一見敬意をはらっているかに見えて、実はそうではない。

「真正面から最初に取り組んだのは本多勝一である」
「もっと柔軟に対応したらいいのにという条件はつくけれども、その意見はおおむね支持できる」(いずれもP.52)


 要は採用すべきところは「いただいて」、あとはさっさと自分の主張に埋もれさせてしまっている。そのせいか、引用された本多メソッドは使い方に誤りがあり、方法論の十分の一も正しく紹介されていない。

 一方で本多勝一の主張と明らかに対立する項目もある。
5.短文で分かりやすく
12.日本語は主観的言語
13.日本語の論理、ヨーロッパの論理
 これらの点を踏まえて、もう一度本多勝一の名著に戻ってみると、対立点がいっそう際立ってくる。ここは、先に挙げた「日本語の作文技術」を分かりやすくまとめた「中学生からの作文技術」に登場ねがって、両者を比べてみよう。

本多勝一は、

日本語は「論理的ではない」とか「特殊な語順だ」とかいったひどい間違いを言ったり書いたりしている例がかなりの知識人や学者にもいることです。これはとんでもない無知によるものだということだけここで強調しておきますから、もしこういうことを聞いたり読んだりしても決してだまされないようにして下さい。人類の使っているあらゆる言語は論理的であって、非論理的な言語などは世界にひとつもありません。(本多勝一「中学生からの作文技術」P.16)


と書いている。この主張からすると、まさに本書は「無知な学者」によって書かれた本だということになる。さらに「第一章 かかる言葉と受ける言葉」で、本多は、こうも言っている。

文章が長いからわかりにくいのだ、短く切ればよい、といった解説をする例がありますが、わかりにくさと文章の長短に直接の関係はありません。(同書P.23)


 本書の6節で「短文は悪文を退治する」とまで言い切り、第一章そのものが「短文道場」と銘うっているところからみても、著者と本多勝一双方の主張はまっこうから対立していると言っていい。この違いのいずれに軍配を上げるかというよりも、本多勝一が作文技術の本質論(あるいは原理)を問題にしているのに対して、本書の著者は体験から得られた各論(対処法)を列挙しているのだと指摘しておくのがいいだろう。

 例えば本書P.25で、「長文撃退法」の例として文豪・谷崎潤一郎の書いた長文をあえて切ってみせる。著者は「ゆったりとした構えの大きな日本家屋を思わせる長文である」と持ち上げるように、実はわかりやすい長文だ。それを「あえて切ってみせる」のは、わかりにくい長文をダラダラ書いてよこす学生への警鐘のようだ。それはそれでまあいいだろう。ただし「原文の品位はなくなってしまったが、……実用文に品位は特に必要ない」と語る著者には、品位だけではなく肝心なものを奪っていることに気づかない。

 もう一度、本多の「わかりにくさと文章の長短に直接の関係はない」という主張を比べてみよう。本多が問題にしているのは、係り受けがあいまいになった長文がわかりにくさを引き込むという明快な論理であり、係り受けさえきちんと整えれば長文でもいっこうにかまわないという当然の帰結について語っているのだ。では谷崎の文章に「わかりにくさ」はあっただろうか。ないのだ。著者自身がそう言っている。単純に、長文だからという理由で悪者に仕立て上げた上で退治してみせたにすぎない。なんと無益な行為だろう。

 それが「品位を奪うだけ」と著者は言うのだが、ぶつ切りに切った直後に筆者が「音読の功」を説いているように、谷崎のオリジナルの文章には「文章教室の生徒たち」に噛んで含めるかのように語る言葉の流れ(リズム)がある。それは実用文には不要な「品位」などではない。わかりやすさの一部をなす重要な要素だ。そこに手を加えている著者の無益な行為は僭越以外のなにものでもないし、何のメリットがあるのか僕にはわからない。

 そして次なるターゲットは横溝正史の文章だ。著者は彼の文章を悪文だと言い切っている。ではその例文をあげよう。
いったい一柳家のある岡××村と、銀造が果樹園をやっているところとは、さしわたしにして十里にも足りないみちのりだが、乗り物の都合のわるいところで、ここへ来るためにはいったん玉島線へ出て、そこから山陽線の上り列車に乗り、倉敷で伯備線に乗りかえそして清××駅でおりると、そこからまた一里ほど逆に帰らなければならない。銀造や克子もその道順でやって来たし、耕助も同じ径路を辿ってやって来たのだが、その耕助が、高××川を渡って川××村の街道へさしかかったときである。(横溝正史「本陣殺人事件」P.28)

 さて、これが悪文だそうだ。その主張の根幹は、
 ・無用な「が」
 ・中止法の連続
 ・安易な接続語
が勢揃いしているからだそうだ。

 さて、ではこの文章に書かれている内容が伝わらなかった人はどれだけいるだろう。そもそも本書のねらいは「伝わる文章を書くこと」ではなかったか?「無用な」だとか「安易な」と言っても、わかる文章・伝わる文章が書けているのなら推敲すべきではない。またしても著者は本末転倒な作為をプロの作家の文章に施しているのだ。その結果を見てもらおう。

いったい一柳家のある岡××村と、銀造が果樹園をやっているところとは、さしわたしにして十里にも足りないみちのりだ。しかしながら、乗り物の都合がひどく悪い。ここへ来るためにはいったん玉島線へ出る。そこから山陽線の上り列車に乗り、また倉敷で伯備線に乗りかえ、清××駅でおりる。でも、そこからまた一里ほど逆に帰らなければならない。銀造や克子もその道順でやって来た。耕助も同じ径路を辿ってやって来たのだ。ところが、その耕助が、高××川を渡って川××村の街道へさしかかったときである。

 著者はいったい何がやりたいのであろう。「長い文を切ろうとすれば、おのずと文の要素の論理関係をきっちりと考えなければならない。」と言う。逆ではないのか。わかりにくい文章だから論理関係を明確にしなければならない。その結果として「長い文を切って接続詞で論理関係を明示する」というのは一つのテクニックに過ぎない。だがあくまで前提は「わかりにくいか否か」だ。言っておくが、横溝の文章は決して悪文ではない。確かに彼の文体で実用文を書いたら論理的構造があいまいになるかもしれない。だが、彼が書いているのは実用文ではない。小説なのだ。

 横溝の文章を読むと一文が長いにもかかわらず、つるつるとそばかうどんをすするかのように、のど(頭)に入っていくのを読者は感じるに違いない。ここにも明らかに作家特有のリズムがある。横溝の文にあって著者の文にないのは「のどごしの良さ」だ。横溝の文は長くてもつるつると流れていくので、本陣までたどり着くのになんども乗り継いで大層な時間がかかることが一挙に体感できる。ところが著者がわざわざ書き直した文は流れがいちいち止まるため、読みづらい上に退屈だ。しかも接続詞を多用したことによって、なかなか本陣にたどり着かない。論理関係を無駄に顕わにすることによって、かえってだらだらとして読みにくくなった。

 さて、以上は寄り道だ。本丸は「6.文の単位は長い順に並べる」についてだ。ここにも言いたいことはいっぱいある。ありすぎて感想をわける始末になった。(つづく)
posted by アスラン at 12:58| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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