2006年04月02日

探偵小説と二〇世紀精神 ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか? 笠井潔

 さて何故この本を読んだかというと、第一部でクイーンの国名シリーズの代表作「シャム双子の謎」「ギリシア棺の謎」の謎解きの分析にかなりのページを割いていたからだ。

 そこにジャンルとしての本格推理小説において流行している「操り(マニピュレーション)」「ゲーデル的問題」「メタミステリー」といったポストモダニズムの意匠をまとった用語が繰り返し登場する。最近ではクイーンを論じるのでさえ、こういった用語武装をしないとお話にならないらしい。そこで正確な用語説明を本書に期待して読んでみたにすぎない。

 だから本書全体を覆う著者のモチーフである
「探偵小説は、二〇世紀精神から生じた固有の小説形式である」

だとか、
「(大戦などの)戦場の現代的な大量死の体験は、…尊厳ある、固有の人間の死を、フィクションとして復権させるように強いた。」

さらには
「第一次大戦の記憶さえ風化した日本のポストモダン世代の、強いられた「大量生」の窒息しそうな日常が、新本格ブームの背景にある(のかもしれない)。」

あるいは、
「(第二次大戦後の大量生のもたらした帰結として)「われらの時代」を生きる青年には「固有の尊厳ある死の夢想」に耽溺するという疑似的救済の可能性さえもが徹底的に剥奪されているのだ。」

という論点には、あまり関心がない。とりあえず同意も反対もしない。いや、しないのではなくできないと言った方がいいか。

 いま著者のモチーフを順番に抜き出してすくいあげると筋は通っているようにみえる。しいて判らないフリをするとすれば「大量生」という聴き慣れない用語の意味だろうか。

 だが少なくとも今の日本では大戦後の平和が長く続いた結果として、生きる意味が見失われやすい状況に陥っていると直感的に多くの人が感じている。それを敏感に受け止めているのが若い世代であり、自殺や殺人にしか「固有の死」がもたらされない時代の雰囲気を共有している。これが「大量死」の裏返しの「大量生」という状況だろう。

 著者の言い分は的を射ているのかも知れない。ただし僕がわからないというのは、もっぱら著者のもちいる知的意匠や文体によるところが大きい。

 古典からモダン、ポストモダンに至るおびただしい西洋哲学を援用し、時代を象徴する歴史的事件や社会的思想を雑然と配置する事で、著者は渾身の力業で先に挙げた言い分を通そうとしている。ただし、著者も見通しのよい説明になってないと明かしているように、少なくとも僕には十分納得できるとは言えない。援用の多さはこけおどしだと言ったら言いすぎだろうか。

 少なくともかつて、粛清の名の下に仲間達を殺し合い自ら自滅していった連合赤軍事件を観念形態の分類から始めて詳細に分析した「テロルの現象学」で僕が受けた説得力に遠く及ばない。

 さらには著者の文体の問題も重要だ。今どきこれほどまでに60年代左翼まるだしの文体を用いる人間がいるだろうか。「文体に論理(ロジック)が宿る」かのように、盛んに簡単な事を難しく言っている箇所と、論理が通らないのにあたかも論理が通るかのように見せかけている箇所が散見される。

 虚心坦懐に読むと「…必然的なのだ」「…いうまでもない」という文末表現は、まず根拠なき断定と思って間違いない。

 P61で「シャム双子の謎」のラストを引用し、山火事に逃げ場を失ったエラリーたちが雨に救われるシーンでクイーン警視が「奇跡だ」と述べる点を取り上げて、

 
「最後に「神」が出現しなければならないのは…(現代の探偵小説の形式にとって)必然的なのだ。」

 と述べ、その直後に後期クイーン作品のタイトルをいくつか挙げて論証としている。しかし作家クイーンにとっての「必然」を探偵小説一般における「必然」かのように論を進めて平気なのはなんとしたことだろう。

 また、P64で「換言すれば…自己完結性な性格をもつ。」と探偵小説におけるキャラクターの性格付けをしているが、なんでこんなまわりくどい言い方をする必要があるか僕にはわからない。全編に現れる「…的」「…性」「自己…」という文体武装が意味するところは、やはり一言で言ってこけおどしだろう。

 そのような目で本書を読み通すと、結局第一部で論じられたクイーン作品の分析の中でも、「シャム双子の謎」のダイイング・メッセージの問題と、同作品における「読者への挑戦」の不在の問題、そして「ギリシア棺の謎」におけるメタ・ミステリーの解決不可能の問題が、本書で一番まともに読めるところだと思える。

 ダイイング・メッセージとは、被害者自身が死ぬ間際に残す何らかの手がかりを指している。これは作家クイーンが得意とした分野で、「シャム双子」ではこれが極限にまで駆使されている。

 ダイイング・メッセージは分かりやすければ謎にならず、謎が難しいと被害者が死ぬ直前に残すリアリティを失うという原理的な不均衡を抱えている。クイーンもその点を自覚していたようで「Xの悲劇」で電車内で殺された被害者が残した人差し指と中指のクロスを探偵ドルリー・レーンがダイイング・メッセージと指摘する際に、人間の思考は死ぬ直前に無限の飛躍を果たすはずだと謎解きのリアリティを読者が問う事をあらかじめ封じている。

 そして「シャム双子」で著者クイーンは分かりやすいダイイング・メッセージを採用しながらも、犯人が偽の手がかりを与えて探偵をかく乱する状況を持ち込む事でダイイング・メッセージが二転三転するという魅力的な展開を読者に提示してみせた。しかし犯人が用意した偽の証拠が探偵の推理を何度も挫折させるという作品の構成が、探偵の最終的な推理さえもが偽の証拠である可能性を排除できないと本書では指摘している。

 もちろんクイーンはその可能性を否定するために犯人の自白で作品にピリオドを打つのだが、それは言わば作者が選んだ恣意的な結末であり、探偵の推理の正当性は作品内部からは得られない。だからこそ「シャム双子」に国名シリーズの代名詞でもある「読者への挑戦」がないのは当然だと著者は言う。

 謎と解決を形式的に分離する事で挿入可能な「読者への挑戦」では、その時点ですべての証拠は提示されなければならない。しかし提示された証拠の正当性が外部(作者)からしか得られない以上、「読者への挑戦」を挿入するのにふさわしい箇所が見あたらないと言うのだ。

 実は「読者への挑戦」の挿入箇所をあえて探し回って可能性を否定する著者の手際は、この評論中もっとも分かりやすく魅力的だ。特にクリスティの「そして誰もいなくなった」と同じクローズド・サークルを題材にした「シャム双子」がサスペンスを最後まで持続するためには「読者への挑戦」がふさわしくないという知見は納得できる。推理小説の実作者ならではの視点だろう。

 「シャム双子」で使われた偽の証拠によって探偵の推理が挫折する展開は、「ギリシヤ棺の謎」が先行している。「ギリシヤ棺」では探偵エラリーと同等なレベルの知能をもつ犯人がもたらした偽の証拠によって、探偵は誤った推理へと誘導される。最終的に犯人を見破るための証拠(メタ証拠)が提出される事で、探偵は最終的に正しい推理にたどり着く。

 しかしこれこそが「初期クイーン論」で法月倫太郎が指摘した「ゲーデル的問題」を引き起こす。つまりメタ証拠を論拠に探偵が犯人にたどり着いたとして、メタ証拠をねつ造するメタ犯人(黒幕)の可能性を探偵は否定できず、永遠にメタレベルの階梯をかけのぼる事になってしまう。

 「ゲーデル的問題」とは、数学基礎論の分野で数学者ゲーデルが発表した不完全性定理に由来した用語だ。不完全性定理では「ある公理系が無矛盾の場合に、自身の無矛盾性を証明できない」として、当時数学の体系としての無矛盾を公理から証明しようと試みていた数学者ヒルベルトの計画を挫折に追い込んだ事で知られている。

 転じて、柄谷行人が「論理の形式化を徹底するとかならず自己言及型のパラドックスを引き起こす。それを回避する事は体系の内部では不可能である」という不完全性定理から類推される論点を取り出し「ゲーデル的問題」と名付けて哲学に応用した。「ゲーデル的」と言うのはあくまで異分野への適用がゲーデル自身の思惑とは無関係である事を端的に示している。

 そもそも数学体系の基礎付けとはなんの関係もない分野に不完全性定理が応用できるかどうか今となってはきわめて疑わしいが、ダーウィンの進化論が生物学よりも社会科学への応用に大きな影響を与えたように、ある種の事象の見通しをよくする一手法として「ゲーデル的」な批評というのはポストモダン、ポスト構造主義という哲学の分野を一時期席巻した。

 日本におけるポストモダニズムは90年代に入って収束してしまったが、その原因の一つに「ゲーデル的問題」を提出した柄谷行人自身が思想的に転回してしまった事が大きいようだ。それはともかく、その後「ゲーデル的問題」という意匠は、本格推理小説というジャンルにステージを移して再燃する。1995年に発表された法月倫太郎の「初期クイーン論」では、柄谷の著書に影響を受けた法月がクイーンの国名シリーズに使われた「読者への挑戦」に「ゲーデル的問題」が潜んでいることを初めて指摘した。

 もちろんこういう議論があってもかまわない。「初期クイーン論」は未読なので詳細は分からないが、本書での言及を読んだ限りでは、法月の危機感はミステリーそのものの危機というより、実作者として今後どう作品を作っていったらいいかという問題意識と密接に関係しているようだ。

 一読者として「ゲーデル的問題」の論点にあえてつきあうとすれば、作品の外部である作者は神であるがゆえに作品における探偵にどんな役回りを与えてもかまわない。たとえメタ証拠によって犯人を指摘する事が原理的にメタ犯人の存在を否定できないという論理は成り立つにしても、現にメタ犯人が現れず作品が結末を迎えたことで論理のための論理は無用となる

 本書では、90年代に終焉した日本版ポストモダニズムがミステリーの分野で10年遅れてブームを迎えるという「ねじれ現象」を何故引き起こしたかを著者お得意の力業で説明しようとしている。しかし僕に言わせれば、ポストモダニズムが終焉しその知的意匠だけが一人歩きするのは、先に触れたダーウィンの進化論あるいはトマス・クーンのパラダイムなどの概念が大衆化して意匠として使われだすのと同じで不思議でもなんでもない。
(2006年3月30日読了)


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posted by アスラン at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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