2010年06月24日

13日間で「名文」を書けるようになる方法 高橋源一郎(2010/5/7読了)

 あとがきに書かれていたように思うが、このタイトルで括弧に括られた名文とは、世間で言うところの名文(文章の達人が書いたような文)とは違っている。自由に書きたい事を書き、自分以外の誰か一人でも「すげえ!」と感じてもらえるような文章は「名文」だ。そこに受講者が気づいてくれれば、著者はそれで十分だと考えている。教えるのではなく、「自由に書きたい事を文章にしよう」とやってきた学生たちから著者自身が教えてもらっているのだ。

 そういう意味では、これは従来からの文芸評論の枠の中におさまるものとも言える。高橋源一郎自身が気に入った文章を授業で紹介し、感想を話しあい、先生が解説する。その次は学生たちが文章を書き、そしてまた感想を言い合う。けっして真似をしろお手本にしろと言うために、著者は毎回気に入った文章を紹介しているわけではない。そもそも手本とするのは無理な文章ばかりが読み上げられる事が多い。

 例えば「AV女優の履歴書」などは、声を出して読むにははばかれるほどぶっとんだ内容だ。感想を求められた女子学生の一人は「この授業って修行なんですね」とため息をつく。そう、修行だ。そうとでも言わないかぎり、倫理的な良し悪しや政治的・宗教的信条に、あるいは性別や民族などへの偏見に足を取られて、僕らはすぐにある種の文章を吟味する事も感想を述べあう事もできなくなってしまう。著者が学生達(あるいは読者たち)に求めているのは「文学の可能性」について考える事ではなく、「文章(を書くこと)の可能性」について考え、実践する事なのだ。

 小中高と国語の授業があり、教師の教え方の大半は、書かれた文章に「何が書かれているか」あるいは「(書かれていないが)何が行間から読み取れるか」という読解(読むこと)の方法論に終始する。これに対して著者の方法論は「まず読んでみよう」でも「まず書いてみよう」でもない。「どうしたら『何が読み取れるのか』が、自分以外の読者に読み取れるように書けるか」という事を、学生と一緒に考えていく。著者が紹介する文章は、そのための呼び水に過ぎない。

 読者がいない文章は、この講座で扱う「文章」ではない。だから、「いったい読者とは何者か」を意識した時点で、「名文」を書くという課題の半分は解決しているわけだ。もちろん、この本を最後まで読んでも、タイトルどおりに名文を書けるかどうかの答えは出ていない。括弧付きの「名文」はレトリックに違いない。

「文章の可能性」を語るということは、その限界をも語ることにならざるをえない。著者は、子供が大病して、やむなく授業を一回休講にする。再開初日にその顛末を物語る。子供がことばを失いかけたときに、彼をモデルにした(かどうかははっきりとは分からないが)小説を連載している時期で、その小説の中で子供が言葉の障害にかかるストーリーに、現実の妻から「あんなものを書くからいけない」とヒステリックに反応され、著者は何も言い返せなかったと語る。

 これはもちろん休講にした事の言い訳ではありえない。高橋源一郎が学生を前にして静々と語っているのは、「文章(を書くこと)の限界」である事は明らかだろう。著者は「名文」とはなにかを考える上で「書きたい事を思い通りに書きなさい」と言うのでは答えになっていない事を、あるいは一面でしか捉えていない事を、まさに身をもって体験した事で学生たち(読者たち)に伝えているのだ。
posted by アスラン at 13:13| 東京 ☁| Comment(6) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 はじめまして、komaと言います。

 アンデルセンの『火うち箱』につて、ネットで話している方がいないか調べていて、このブログを見つけました。タイトルと関係ないので申し訳ないのですが(高橋源一郎の著作も読んでいません。『告白』と『夏への扉』は読みました)、あの物語について、一つ個人的な見解があるのですが聞いていただけないでしょうか?

 僕は、あの『火うち箱』という物語は、一見、「残酷な兵隊が幸せになる話」に見えますが、本当は一種のホラー作品ではないかと思うのです。

 というのも、もし、兵隊が魔女の取引に素直に応じて、火うち箱を渡していたら、兵隊はその場で殺されてしまったのではないでしょうか。

 火うち箱の真価が明らかになるのは物語の後半部分ですが、兵隊が火うち箱を使ってやったことを、魔女がやっても不思議ではないです。こういう「後で真実がわかって、はっと息を呑む」式の怪談なのではないでしょうか。

 あと、僕も最近『告白』を読みました。

 ミステリーとしては、犯人の犯行動機みたいなものが不明で、それを解明していく形ですが、確かに、現実では若年層が犯罪を犯すと「なぜそんなことをしたのか」ということが焦点になりやすく、そうした現実の事件に対し、物語を語りながら一つの解を出してみたのでないかと思いました。ただ、あれは女性色みたいなものが非常に強いので、女性の方に感想を聞いてみると面白いのではないかと感じました。
Posted by koma at 2010年06月24日 22:51
komaさん、コメントありがとう。

アンデルセンについては、岩波の童話集の第一巻と「絵のない絵本」を読んだ程度なので(もちろん子どもの頃に読んだり聞かされたりした有名な童話は別にして)、作者自身の関心がどこにあったかを正確に知るよしもないのですが、第一巻を読み通した素直な感想としては、単なる童話としての形式をはみ出している作品が多いなぁと思いました。

その中でも特に「火打ち箱」はダントツで、なぜこんなストーリーなのだろう。なんでこんなべらぼうな設定なんだろうと驚かされる事ばかりでした。ですから、これが「ホラー」ではないかというkomaさんの主張はよくわかります。そして、なぜそう思えるかの理由ははっきりしているように思います。この作品では決して主人公の軍人が「善」で魔女が「悪」という単純な構図ではないからです。軍人さえも「悪」になり、父を殺され妻となった王女は、悪の力に従えさせられた被害者なのかもしれません。とにかく善悪を超越する多面性を持っている事が、ホラーとしての重要な要素なのではないでしょうか。

その一方で、やはり三匹の犬の度はずれた描写は不気味で唖然とさせられながらも、どこかユーモラスさを湛えた存在であることも確かです。このシュールなおかしみは、子ども向けというよりも、やはり大人に向けて書かれていると思わせるものです。

「善悪の超越」と「不条理な笑い」がどこから来ているかを考えると、やはり背景に「戦争」という避けがたい体験があったからのような気がします。そしてアンデルセンが「火打ち箱」で描いた悪夢は、まぎれもなく戦争の隠喩そのものです。
Posted by アスラン at 2010年06月26日 03:31
 お返事、ありごとうございます。いくつか私見があるのですが、どうでしょうか。


 まず、『火うち箱』は善悪の超越というよりは、端的に悪の勝利を描いているように見えました。ただ、この場合、悪の勝利といっても「社会がやってはいけないと言っていることをやってしまえる人間のほうが裕福になる」くらいの意味です。つまり、我らが主人公たる軍人さんは歴とした悪人だったのだと思います。


 あと、戦争を暗喩しているのは確かに言う通りだと思いますが、それだけだと軍人のいささか滑稽な生き様だとか、力の象徴である火うち箱を魔女に誘導されて手に入れるまでの経緯はほとんど無意味になってしまいます。戦争うんぬんは非常に表面的なものなのではないでしょうか。個人的にはアンデルセンという作家は、なんというか与謝野晶子みたいなスタンスの人だと思っています。反戦、ではなくて「自分のことしか考えていない」という意味で個人的なタイプの人間です(非難しているのではなく、そういう傾向を持っている、という意味です)。好きな女性に自分の自伝を送りつけたりしていますし。


 余談ですが、僕が『火うち箱』と似ているな、と思った物語で、村上春樹の短編の『納屋を焼く』という話があります。あれもストーリーとしてはただ流れるだけですが、ある地点で「おやっ」と思わせるタイプの小説です。この感じは上手く言えないのですが、意図するところ汲んでいただけたら嬉しいです。これと同じ効果を『火うち箱』は持っていますし、技巧的なので、両者とも意図してやっているのだと思います。
Posted by koma at 2010年06月27日 22:23
 追伸ですが、返答読んでいてふと思ったのですが、もしかしたらアスランさんは物語の主人公、あるいは主体は「善である」と思っていますか? あるいは少し引いて「完璧ではないにしろ、善である」と思いますか?


 というのも、他のサイトで物語における「善悪二元論」が話題になったときに、ちょっと気づいたことがあったので、自分以外の方の意見を聞いてみたかったのです(すいません、文学を勉強していたわけではないので、こういう話ができる友人が近くにいないのです)。
Posted by koma at 2010年06月27日 22:34
komaさん、おそらくこういう議論はコメントの枠を超えてしまうので、あまり深入りはできません。ただし、komaさんと僕の考えはおおむね同じところを行ったり来たりしている感じがします。

僕が「善悪の超越」と書いたのは「超克する」とかの意味ではないし、主人公を善だと思ってもいません。そういう意味でアンデルセンが「善側」「悪側」のいずれにも加担していないところに、この物語の面白さがあるように思います。

アンデルセン自身の傾向からすれば、ある程度「悪意」をもって、普通の勧善懲悪をはみだした物語を書いたと言えば、それですむのですが、その先に「悪の勝利」を意図したかと言えば少し言い過ぎか、あるいは深読みが過ぎる感じが僕にはします。

村上春樹の「納屋を焼く」は残念ながら未読ですが、たしか高橋源一郎か荒川洋治のどちらかが解説していたのを読んだので、同形の技巧があるという指摘は理解できます。僕もこの「おやっ」と思わせるタイプの小説というkomaさんの考えには賛成ですが、そうするとやはり「悪」を描くというよりは、表向きはAに見えるが、別の見方をすると反Aに見えるという趣向を優先したとみたいですね。

その上であえて私見を言わせてもらえば、軍人がやった事が社会的にはモラルを逸脱しているという点で「悪の勝利」だとkomaさんが考えるというのなら、僕はそこにこそ「戦争」の隠喩が色濃く反映していると考えます。つまり戦争という現実的な体験は「生きのびる事が善である」、言い換えれば「生きるためには何をしてもいい」というニヒリズムを生み出したはずで、それを体現した軍人の行為は平和時には悪ですが、戦時中では悪とは言えなかったはずです。そういう人間が戦後(確か軍人は戦地から帰郷する道すがらだったと思います)に引き起こすトラブルは、滑稽であると同時に人間らしいとも言えます。

思い出しましたが、「火打ち箱」を魔女に渡すか渡さないかの場面では、確かに渡せば軍人は魔女に殺されていたでしょうが、渡さない事で軍人は、結果的にその後の災厄からあの城下を救ったのだと思いました。あくまで結果的には、です。
Posted by アスラン at 2010年06月28日 02:13
 返信ありがとうございます。エントリーとはまったく関係のない本だったのに、今までありがとうございました。これで最後のコメントにします。

 アンデルセン自身があまり戦争に関わっていないように見えたので、軍人の設定は戦争から影響を受けたのではなく、小説の展開の上でのつじつまあわせ(つまり、武器を持っていること。これは魔女を殺すことでしか危機を脱しえないということのつじつまあわせ)があっただけではないか、とずっと疑っていました。

 あとは、「悪」うんぬんは、市井の中の悪、現実社会では保険金詐欺だとか、オレオレ詐欺で大金を騙し取る、といったことで、そのワル(カタカナで書いた方がイメージに合います)がいい目にあってしまう、ということとして「悪の勝利」、という言い方をしたのです。

 このワルがいい目を見るということ(個人的には、ここに勧善懲悪、つまり道徳ではなく、作者のリアリズムみたいなものを見てとったつもりでした。アンデルセンの理想と対になっているリアリズムです)、と技巧的趣向(ホラー的な要素になっている部分)をあわせもっているのが、この火打ち箱という物語なのかなあ、と思っています。なので、どちらかが優勢というわけではないのではないか、とは今でも思っています。ただそれとは別に、軍人という登場人物の性格上の造形のところでは、確かに戦争と、それに関わった人間ということが作者の念頭にあった、と思い直しました。

 あと、一つだけ付け加えるのなら、戦争に行くと人格が変わってしまう、というのは吟味してみる必要があると思うのですが、どうでしょうか。例えば、水木しげるみたいな人もいます。

 以上です。物分りの悪いやつだな、とお思いでしょうが、その通りです。申し訳ありませんでした。
Posted by koma at 2010年07月01日 02:11
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