2010年06月23日

代替医療のトリック サイモン・シン/エツァート・エルンスト(2010/5/26読了)

 「代替医療」とはなんだろう?耳慣れないことばだ。ひょっとして日本語にはもともとないことばを新たに翻訳の都合で造ったのかもしれない。このことばの反対語は、「通常医療」だ。これは、いわゆる病院や町医者によって我々が受けられる西洋医学を主とした医療を指す。

 この医療体系からはずれたものは、すべて「代替医療」だ。この言葉も一人歩きしそうな曖昧さをかかえている。「通常医療にかわる医療」をさすのか、あるいは「医療そのものにとって代わる何か」を指すのか。後者であれば、それは医療ではないことになり、最初から本書の著者たちあるいは「代替医療」に疑いの目を向けている側の意見を代弁していることになる。

 だが、一般論から言えば、世の中には怪しげな理屈で高額な治療行為をおこなったり、うさんくさい機器や薬を売りつけるやからが後を絶たない。そういったものから逃れるすべがあるのなら、この種のなんらかの啓蒙書は必要なのかもしれない。でも、ここで取り上げられている「代替医療」の急先鋒として、日本では至る所に看板を見かける「カイロプラクティック」や「鍼灸」が含まれている事に、僕ら日本人はかなりショックが大きい。通常医療の現場(病院)で当たり前のように処方される「漢方薬」ですら、この本では代替医療と見なされる。

 そして結論から言うと、これら代替医療のほとんどが「効果がない(科学的な検証で有意性が確認できない)」か、あるいは「効果はあるが、通常医療にとって代わるほどの効果はない」。さらに大切な点は、通常医療の方が同じ効果を手に入れるにしても圧倒的に安価だという点だ。

 では鍼やお灸やカイロプラクッティックが本当に効かないにもかかわらず、僕ら一般人は高額なお金を払い続けているのかというと、実はその背景には「プラセボ効果」という重要なキーワードが関係してくる。これも耳慣れないことばだが、要するに「治ったような気になる」という一種のおまけのようなものだ。これが時に馬鹿にならないほど患者に好影響を与えるため、代替医療はいまだに大手を振って世の中にまかりとおっていられるわけだ。

 今回、とくに驚かされたのは、ホメオパシーという治療法の怪しさだ。幸いながら日本では、あまり普及していない。だが海外では一部の無知なセレブが推奨するおかげで、かなりの人々が治療を受けているらしい。考え方の基本は、一種の免疫療法に似ている。何かを治すために、それに関係するものを水で希釈した溶液を飲むというものだ。

 しかも創始者の信念では「溶液は薄ければ薄いほど効果がある」。一般に、量を増やしたり濃度を濃くしたりすると効き目が強くなることは理にかなっているが、その逆は理屈にあわない。なんと究極の治療で処方される溶液には、「うすい」どころか最初に投入した「何か」の分子一個すら含まれない。つまり、これを飲んで効き目があったところで、それは100%プラセボ効果なのだ。

 これを医療と言えるかと言えば、まっとうな科学的知識をもつ人ならばNoと言えるはずだ。しかし、これと同列に鍼灸や指圧などがプラセボしかないとやり玉に挙がっているのを読むと、さすがにこれまで絶大な信頼を置いてきたサイモン・シンの著書とはいえ、ちょっとこれは違うのではないかと言いたくなってくる。

 とくに今回はホメオパシーの医師でもあり、現在は代替医療の科学的検証に力を入れているもう一人の著者エルンストとの共著であるせいか、立論と結論がいつものような明快さに欠ける。

 著者たちの主張は、代替医療を排除することにあるのではなく、科学的な有効性があるならば積極的に容認したいという寛容さを表明している。だが、たとえ「プラセボ効果」だけしか確認されない治療法であっても、通常医療により安価で有効性がある治療法が存在する場合には、著者たちの姿勢は代替医療無用論に偏っているように感じられる。

 その偏りがどこからくるかと言えば、このような科学的に検証されていない医療(あるいは医療もどき)を放置しておけば、かつての通常医療が「瀉血(しゃけつ)」などという有害無益な治療法を信用していたように、暗黒な時代に逆戻りしてしまうという著者たちの根拠のない「怖れ」から来ている。

 僕から言わせれば、科学という確固たるものさしができあがっている現代において、代替医療が通常医療をおびやかすことはありえない。どだい100%総取りをめざす通常医療(または科学)の側が欲張りなのだ。自分の健康や生き死にに対して自分が責任を持って金を出す。それでかまわないではないか。それで高い代償を払うことになろうとも、責任は個人にある。通常医療は正義でもなんでもない。

 著者達は、通常医療の側にも問題はあると控えめながら指摘している。

「代替医療は治療しているのではなく、患者とのあいだに治療効果のある関係をつくっているのだろう。」(P.350)


 この指摘は、いくら言っても言い過ぎにならないほど重要だ。僕の体験から言うと、通常医療の科学的有効性はピカイチ。だがサービス面は最低だ。いちどでも入院したことがあれば、よくわかる。近代的医療の名の下に、モルモットのように実験台にされたり、痛みや熱でうんうんうなっている体にむち打ち、あちこちの検査に連れ回わされる。しかも、そのあとに待ち受けるのは、退屈でつらい「安静という名の牢獄」の日々だ。図書館や映画施設の一つもなく、まともな喫茶店すらない。いったい僕らは金を払って苦行を強いられに来たとでもいうのか。

 しかしそれでも、入院すれば担当医が頻繁に回診にきてくれて、今やっている治療や検査の説明をしてくれるなら、まだましかもしれない。外来で通う人たちは、たった15分程度の受診のために、待合室に2〜3時間も待たされる。じっくり最近の体調を説明しようと思っても、適当なところで話の腰を折られるのは毎度のことだ。

 もし本当に通常医療関係者たちが、代替医療よりも自分たちの病院の門をたたいてほしいと願うならば、まずは相手の悪いところをあげつらうのでなく、先にいいところ(それは患者がもっとも望んでいることだ)を学ぶべきだろう。
posted by アスラン at 12:59| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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