「文豪ナビ 川端康成」にエッセイを寄稿していた角田光代は、同じように高校の頃「伊豆の踊子」を読んで、つまらないと思ったという。学生の私を評して踊り子たちが、
「いい人ね。」
「それはそう、いい人らしい。」
「ほんとにいい人ね。いい人はいいね。」
と語る口調の退屈さに嫌気がさしている。ところが大人になって旅先で読み返して、何故退屈だと思ったかわからない。つまりはこの世には醜い事も煩雑な事もあると身をもって知る身になって初めてわかる。そんなところが川端作品にはあるのだと。だとしたら、先の踊子の会話が「感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声」だと描写する川端作品の機微をたかが高校生の私(角田)がわかるわけがない。ましてや中学生の僕には到底届きようもない。
この岩波文庫の六篇は大正十年から昭和五年の十年間に発表されたもので、いわゆる著者の初期作品集と見なしてよい。その意味で川端作品の晩年の達成である「山の音」や「眠れる美女」を先に読んでしまった僕としては、どのように川端康成の文体ができあがっていったのかを知る上で大変興味深い作品集と言える。
[十六歳の日記]
著者は父母を幼くして亡くし、唯一の兄弟である姉をその後なくし最後まで残った肉親である祖父を十六歳の時になくす。この日記は祖父が亡くなるまでの数ヶ月を実際に描写したもので、作家になったのちにほとんどそのまま書き写した作品だそうだ。
だとするとすでにこの頃から著者は死に対する痛切なまでの感受性をもっていたと言える。そして老いる事の現実も見据えていた。老いた病人に対していたわりを持つと同時に自らのエゴを抑えられない。そこから人間の醜さと美しさが共存する不思議さが著者の永遠のテーマになる。
[招魂祭一景]
靖国神社境内で当時行われたお祭り風景の賑かさを描いている。靖国というと今や花見の時期の喧噪が有名だが、昔はいろんな芸人や見せ物興行が行われてにぎやかだったらしい。相撲も一時期行われていたらしくいまだに土俵が一画に置かれている。
この賑やかさとは対照的に、見せ物を生業とする幼い曲馬娘たちの屈託した心象を描いている。「伊豆の踊子」にも共通する曲馬娘の無邪気さと、世の中の醜い部分をやがて知り始めて女になろうとしている時期の屈託を著者らしい文体でスケッチしている。
[伊豆の踊子]
踊子の無邪気さに一校の学生であった私は惹き付けられて、旅芸人一家に同行する。そして短い間に踊子ともその家族とも親しくなりはするが予定された別れは時期にやってくる。
その特に何事も起こらない筋立てを映画化されたドラマはドラマチックに演出している。つまりは踊子と学生とのほのかな恋である。青春映画の代名詞として本作が取り上げられるのは、漱石の「坊っちゃん」が青春ドラマとして描かれる事が多いのと同様、的はずれとは言わないがフォーカスがずれている。
確かに学生である<私>が踊子に最初に惹きつけられるのは幼い無垢な美しさのせいであるが、途中でまだ本当に子供である事を知ってその無邪気さに爽快な気分になる。それよりも彼女を取り巻く旅芸人一家の生き方や人柄に<私>は心が動かされる。
その世間から浮かび上がる事のない旅芸人の生き方の寂しさとおもいがけない暖かさに、屈託していた私は清らかな心持ちをしばし取り戻すのだ。何に屈託していたか。著者の化身である<私>は天涯孤独の身で世をすねてひが目で世間を見ることに慣れ親しんでいたのを、旅芸人の気持ちのよい接し方に不意打ちされてしまう。そこにこの物語の核心がある。
[青い海 黒い海]
「伊豆の踊子」と同時期に書かれたとは思えないほど支離滅裂な文章が続く。作者がいう抽象的とは関係なく、あきらかに作者が意図していない文章の前後の飛躍が目立つ。発表当時おなじ新感覚派の雄である横光利一以外はだれもほめなかったらしい。自身が言うように著者は感覚的な描写は苦手だったのかも知れない。
どことなく漱石の「夢十夜」のような雰囲気があるが、あの水準に達するには、著者が言う「もっと幻想と象徴との深さ」によって生かす必要がある。そしてその後の著者はこの「幻想と象徴」を人間関係の機微に深く持ち込む事になる。
[春景色]
この作品も「青い海…」同様感覚的でいくぶん幻想的ではあるが、登場人物の言葉は象徴に富み、春の生命の息吹がかもしだすなまめかしさと華やかさが匂いたつようにかんじられる。
[温泉宿]
本短編中もっとも長く「夏逝き」「秋深き」「冬来たり」の3章からなる。最初は「春景色」のような感覚的な文章から構成されているが、登場する宿の女中たちの野性的で投げつけるようなぶっきらぼうな会話に特徴がある。
やがて冬の章に至っては、人物の心情がより深く書き分けられる。女中たちのあさましくも不憫な境遇を、たくましいさとか弱さをそれぞれの人物に振り分けながら心象を描き切っている。
思うに「新感覚」と言う時代の位置づけと自らの固有の表現の間で文体をどう形作っていくかを著者自身迷っていたか、もしくは試していた時期なのではないだろうか。その意味で習作のような作品らだった。
(2006年3月23日読了)




川端氏の作品は、少し抵抗があり、殆ど読んでいません。同じく新感覚派である横光利一氏の作品も家族会議しか読んでいない・・・・。
しかし、エラリーさんの守備範囲って広いですね。
私のように、制限をつけてしまわないところが素晴らしい!
PS ミニストップのチョコオールドファッションは、極甘で半分で満足しました。両面チョコは辛かったですw
こちらのブログにリンクを貼ってもよろしいでしょうか?
よろしくお願いします。
そうか現国のテキストに載ってたかもしれませんね。なにせ文章を読むのは好きだったけど現国は苦手でしたから。文体としては横光はかなり癖があり、川端は今回読み継いでみて、文がこなれてるという印象ですね。好き嫌いはあるでしょうね、きっと。
守備範囲をragoさんに言われると恐縮してしまいますね。何しろ一年を通しての読書の重なりがほとんどない二人ですから(笑)。
ところでチョコオールドファッション、半分でギブですか、残念。最近自分でも甘党度が進んでるのかもしれません。最近はセブンイレブンなどで買えるヤマザキのチョコリングードーナツ三個入りに凝ってます。子供の頃の懐かしの味ですね、きっと。
いつも見てくださる方が友人以外にどれだけいるのかなぁと、多少なりとも気になっていたのですが、初めて読者という方に遭遇しました。ごひいきいただきどうもありがとう。今後もよろしく。
基本的にリンクフリーのつもりですので、ご自由に貼ってください。
あ、こう書くと誤解する人もいるかもしれないので、蛇足ながら付け加えると、本ブログなり記事なりを面白い、共感できると思ってリンクを貼る分には断っていただく必要もないと思ってます。かえって宣伝していただいてこっちがお礼を言いたいくらいです。
(以下はjunnさんに言ってるのではなく、本ブログを読んだ方全員へのメッセージのつもりで読んでください。)
本ブログをあげつらうためのリンクの場合には一言ことわっていただきたい。あげつらうならリンクするなとは言うつもりはなく、勝手なところで勝手なあげつらいをされたくないということです。反論もできないですしね。
私の読む量なんか、たかが知れてます。読むそばから忘れていくしね。(号泣
名前書き忘れましたw
「色気のある文体」ウフフフ、実はそうではないかと邪推しておりました。前のコメントではあえて書かなかったのだけれど…。
僕も男女の事をどうこういうのが得手というわけではないのですが、文学表現というのは生身の行為のあけすけさを超えられると信じているからかもしれません。
朗読を推奨している齋藤孝が川端康成を取り上げてるのに懐疑的なのは、朗読する事によって身も蓋もない生々しさがでてきてしまうからです。
読むそばから忘れてしまうのはしょうがないところはありますね。だからブログに書き留める最大の理由は自分が読むためでもあります。