2006年03月23日

この本が、世界に存在することに 角田光代

 本とは何なのだろう?読書する事に何の意味があるのだろう?そしていま目の前にある本が、この世界に存在することに僕は何を思い何を感じるのだろう?

 こんな問いかけは不毛かもしれない。なぜなら読書という体験はきわめてプライベートなもので、それを一般化したり他人と共有することにあまり意味は感じられないからだ。

 思想家である前にすぐれた書評家でもある吉本隆明は、読書論を集めた「読書の方法」という本の中で、こう言っている。

 本を読むということは、ひとがいうほど生活のたしになることもなければ、社会を判断することのたしになるものでもない。また有益なわけでも有害なわけでもない。生活の世界があり、書物の世界があり、いずれも体験であるにはちがいないが、どこまでも二重になった体験で、どこかで地続きになっているところなどないから、本を読んで実生活の役に立つことなどないのである。
  (中略)
 書物がそういうものであるとすれば、読むことの中心には、いつも、なにに向って読むのか、ということを<無>にしてしまうものがあって然るべきだ、といったほうがいい。


 要するに言ってしまえば読書には何かの役に立つから読むという事以上のある体験が含まれていると言っている。それが何かと言えば、他人と直接おしゃべりする事が思ったほど意思疎通しないという事に多くの書籍が気づかせてくれる事であり、読書でなら書き手と読み手は実際以上に意思疎通ができるということだ。読書にはそういう本質がある。

 すると「この本が、世界に存在すること」というのは「この私が、世界に存在すること」と同義であると言える。もし自分以外の人間がこの世界から姿を消したとしても「この私」の存在は、本がある限り消えることはない。本は別の意味でひとつの他者であり、実際の他者よりも意思疎通を可能とする他者なのだ。読書は、まさに身近に自分にとって心地よい他者を引き寄せる行為と言ってもいいかもしれない。

 そして本書に含まれる短編に登場する主人公たちは、本がかけがえのない他者としてくりかえし現れる。そして「この本」を読むことを通じて「この私」がいかなる存在でありいかなる変化を遂げてきたかを主人公たちは知ることになるのだ。

 「旅する本」では、主人公の私は古本屋のじいさんから「あんた、これ売っちゃうの」と言われた本を旅先のネパールで見つける。退屈だと思った本は再読するとまったく違う本のように感じられる。読んでは売り、またどこかで出会う。出会うたびに読むと感想が変わる。本が変わるのではない。自分が変わっていくのだ。

 「だれか」では、主人公はタイに来てマラリアにかかる。同行した恋人は寝たきりの私に食堂でみつけた日本の本を持ってくる。なぜ片岡義男がこの遠い異国にあるのだろう。タイで読むにはふさわしくないと思ったのに、繰り返し読むたびにこれ以外は考えられないと感じられるようになる。これを持ってタイにきた見知らぬ男を主人公は想像する。

 「手紙」では、主人公は恋人とケンカして一人で旅先の伊豆の旅館にいる。退屈だ。引き出しに見つけたブローティガンの詩集とはさまっていた手紙。別れた恋人に当てた恥ずかしくなるような文面にいつしか自分の思いが乗り移る。それは自分の持っている詩集であり、自分が書いた手紙のような気がしてくるのだ。

 「彼と私の本棚」では、主人公は本好きの恋人と別れた。二人分の本棚から自分の本を選り分けて段ボール箱につめる。引越し先で箱をあけながら彼と共有してたものを思って泣く。ぬけおちた本棚の事を思って泣く。そして新たな一人きりの生活を始めるために新しい本棚をまず買おうと決める。

 「不幸の種」で描かれるのは、主人公が占い師に言われた不幸の種である一冊の本。別れた恋人に返そうと相手の女性に託す。年月を経て彼女と再会すると彼女はまだ持っていると言う。あれから恋人とも別れたし他人から見れば不幸めいた人生を歩んでる。でも本人は不幸でもなんでもない、何もないことこそ不幸だと言う。主人公は本を引き取ったのち気づく。この本は不幸の種ではない。この本を読むことでみずからの成長を知る事ができるのだと。

 「引き出しの奥」では伝説の古本が出てくる。伝説では、その本の裏表紙にはびっしり書き込みがある。「夕方六時に、向かいのマンションの明かりが、ぱちぱち灯る」とか「夏の昼下がり、住宅街の路地でカレーのにおい」とか読者が残したとりとめもないメッセージばかりだ。

 それはその人の一番最初の記憶かもしれない。古本探しで出くわした語学のクラスが一緒の男の子が言う。その後古本は見つからないが、わたしはすさんだ生活から足を洗う。わたしの大切な記憶を捜したくなったから。ある日、サカイテツヤという語学のクラスが同じ男の子と走る見慣れた光景に、その一瞬の美しさに彼女は息をのむ。

 「ミツザワ書店」では、主人公は作家になったぼくだ。偶然たまたま賞を取って居心地が悪い。「どうして小説を書こうと思ったの?」の問いに生まれ故郷のミツザワ書店を思い出す。ミツザワ書店は世界図書館だった。ぼくは万引きしてくださいと言わんばかりの店主であるお婆さんの目を盗んで、いちど高い本を万引きする。それを読み耽る。すげえ。言葉が他にない。

 小説を書こうと思ったのはそれから十数年たった最近のこと。それなのに二作めから絶望している。久々に訪れたミツザワ書店は閉ざされ、孫の女性からお婆さんの死を知る。本の代金を返しさらに本を元の場所に返し、ぼくは思う。「ミツザワ書店の棚の一部を占めるくらいの小説を書こう」と。

 「さがしもの」では、余命少ない祖母から本を探すよういいつかる私。しかしどうしてもその本は見つからず祖母は亡くなる。大学生となってある日、祖母が探していた本が「幻のエッセイ」として復刊される。画家である著者が若き日に通いつめた定食屋の娘が祖母だった。その思い出こそが祖母が探していた宝物だったのだ。

 お祖母さんは私の「死ぬことは怖くないか」という問いかけを一蹴し、「できごとより考えのほうが怖いんだよ」という言葉を残す。それを胸に私はひとつずつ物事を片づけていく人生を生きる。いまは小さな書店のブック・コンシェルジェを仕事にしている。お客様が探している本を心を込めて探しだそうと思う。

 「初バレンタイン」に、私は自分の人生を変えた本を恋人に送ろうと考える。チョコじゃなく。それも渡しづらくなってラブホテルでようやく。私はその後、彼と別れて今別の男と結婚しようとしている。彼の本棚に同じ本を見つける。彼も昔の彼女に贈られたそうだ。私は「自分も」とでかかった声を呑みこむ。私は、彼の昔の彼女と同様に自分以外の人のことを考えに考えて、あげくにびっくりして疲れ果ててしまったのだ。そんな体験が無駄ではなく、だからこそ今の自分がここにいると私は思うのだ。

 いずれも気持ちのいい話だ。本好き・読書好きには腑に落ちる話ばかりでどことなく胸がきゅんとなる懐かしさと心地よさに彩られている。

 読書好きが何故読書が好きかをうまく答えられないのは、本そのものの面白さとは違う読書の快楽が存在するからだ。そしてそれは、やはり本が居心地のよい他者として現れるからに他ならない。「あとがきエッセイ」で著者・角田光代は「本は人を呼ぶ」と書いている。それは、まさに居心地のよい他者を通じて、読者が生身の他者との意思疎通に戻ってくるきっかけを与えてくれるからに違いない。
(2006年3月1日読了)


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posted by アスラン at 03:10| Comment(2) | TrackBack(2) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「私」というのは一冊の書物なのかもしれない。私が本を読むたびに、その内容が私の一部となり、私という書物に新たなページが加えられていく。
私が誰かと話すとき、誰かは私を読み、私は誰かを読む。そしてお互いが書き加えられていく。
こうして私がこのブログを読んだことによっても私は書き加えられ、そしてこのコメントを読んだ貴方も書き加えられていく。
そんなことを考えました。。
Posted by 54のパラレルワールド at 2006年03月24日 17:58
コメントどうもありがとう。

 僕は自分自身が書物というメタファーでとらえられる考えた事はないですね。書物の一つの限定した世界と考えるならば、個としての自分も一つの世界には違いないので、その意味では一冊の書物と言えるのかもしれません。

 ただし本文でも書きましたが、人間という代物は実際の書物と違ってあんまり心地よい他者とは言えないようです。
Posted by アスラン at 2006年03月26日 00:07
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