2010年06月02日

“文学少女”と死にたがりの道化 野村美月(2009/11/22読了)


 ライトノベルス2006年のランキング第一位を獲得した作品(シリーズ)であると知って興味を持ち、たまたま最寄りの図書館におかれた番外編「“文学少女”と月花を孕く水妖」を読んだ。今ひとつ人間関係が見えてこない。文学少女が人間でないらしい(小説を食べてしまう妖怪らしい)という事さえも、この時点では読者と作者とのお約束事項になっているせいか、いとも当たり前のようにさらっと描写されるので、果たしてそういう変わった体質の女の子、もしくはきわめて変わった性癖の少女に過ぎないのかなとも疑ってみたりした。やはり、第一作からたどらなければ理解できそうにない。

 「本気で読む気なの?」と、声優マニアの同僚からあきれ顔で問いかけられた。「いや、そうでもないですけど…」と逃げてしまったが、すでにシリーズ読みは始まってしまったのだ。読書好きのサガ(サーガではない)と笑ってくれぇ。

 語り手は、なにか幼いころのトラウマを抱えていて自己韜晦ばかりしている少年で、しかもいっぱしに物書きでもあるのだが、ここだけを取り出して説明すると、なにやら京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」に出てくる語り手・関口巽とうり二つのような設定に思えてくる。ただし、あそこまで自虐的でも破滅的でもない。「韜晦する草食系男子」といった趣だ。

 一方、文学少女は妖怪でありながら清純そうな少女の肉体を持ち、文学を糧として生きながらえるならば、官能的な妄想さえも辞さないというきわめてアンビバレンツな存在だ。そこに目を付けられ、ガールズラブ(あれ?「ボーイズラブ」という言葉はあるが、「ガールズラブ」の方は言わない?)の対象にされたり、どことなくアラウンド50のオヤジが読むには「使用目的」にそぐわない描写も多々挿入されている。「本気か?」と同僚に突っ込まれる所以だ。

 それでも、ひととおり読んでみる気にさせるのは、文学少女の文学的嗜好のせいだ。「水妖」では泉鏡花をフィーチャーし、この「死にたがりの道化」では、言わずと知れた太宰治を題材にしている。その切り口だけでも味わってみるべきだろう。

 高校生(とくに女子高生)を相手にしているだけあって、いまさら聞けないような文学的常識がぬけぬけと書かれていたりする。実は常識の偏った僕には非常に参考(は大げさかもしれないが)になったりする。題材に比してストーリーは、使用対象者からはずれた僕のような読者にとっては退屈な点も多いので、どこまで続くか分からないが、とりあえず次作に進んでみるとするか。
posted by アスラン at 13:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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