2010年04月13日

闇の奥 コンラッド(2009/10/29読了)

 コッポラの映画「地獄の黙示録」という邦題は、もちろん内容を吟味した配給元が決めたものだろう。コンラッドの原作がアメリカのコンゴを舞台にしているのに対して、コッポラは近過去であるベトナム戦争に場所も歴史もそっくり移し変えた。

 映画では、人類にとってまだ記憶に新しい近代戦争を彩る人間心理の暗黒面を、やや過剰にえぐりだした扇情的なタイトルであるが、原作の方はいたってシンプルで隠喩に富んだタイトルになっている。

 コッポラの映画を先に知ってしまった僕から見ると、原作は肩すかしともいえる文章だった。一言で言うと、コンゴの奥地で現地人から神とも王ともあがめられるようになった一人の男のお目付け役・監視役として、語り手でもある船乗りが派遣される。船で川を遡り、船が行き来できない部分は徒歩で、ようやくの事に着いてみれば、王は病んで、王国は滅亡の瀬戸際にたたされている。王のなった一人の男のはかない夢と挫折を受けとめて、語り手である私はふたたび文明国へと戻ってくる。それだけのストーリーだ。

 非常に寓話にとんだ文章から僕ら現代の読者が読み取れるのは、たとえば「宝島」に代表されるような冒険譚の一種というところがせいぜいだ。ところが解説を読むと、かつてコンゴで実際に起きたある統治者による大虐殺を題材にしたものだとわかって、今更ながらに真実の重さに驚かされる。

 そう知ってみれば寓話の見かけのどこかのんきな観光気分はふきとび、その奥底に隠された〈闇の奥の奥〉がかいま見えてくるだろう。だが世界史に疎い単なる本好きにとっては、そういった〈本格的な読み方〉はかえって邪道ではないだろうか。それよりも、ずるずると文明国から疎外されたあげくに、スイフトの「ガリバー」のように近代的なまなざしから逃れようとひたすら旅を続け、終着地を求めて奥の奥へと前進し、やがては自らの疎外感の核心にたどり着くことで、元の居場所に復帰するという、いわゆる地獄めぐりのモチーフが見えてくる。漱石作品のなかでも僕のお気に入りである「坑夫」にも同様なモチーフが存在する。

 おそらくはコンラッドの作品がヨーロッパの人々だけでなく、世界中で、しかもヨーロッパの人々から見れば辺境にすぎないアジアの片隅の一小国の人々の心を今なおとらえるとするならば、この地獄めぐりとも観光とも見間違えるような物語には、人間の心にあまねく存在する〈怖いもの見たさ〉を満足させるものが封じ込められているからに違いない。
posted by アスラン at 12:44| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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