エラリー・クイーンばかりを読んでいた高校生のころ、他の有名な海外本格ミステリーのごく有名どころをあらかた読んで、さてなにか新しい本はないかなと探していたときに、ケメルマンと出会った。「九マイル」が先だったか、ラビシリーズが先だったか、どうも記憶が曖昧だが、おそらくはラビシリーズのタイトルの調子に惹かれたのだろう。
ヴァンダインの「○○殺人事件」やクイーンの「〜の謎(あるいは秘密)」にならって、語呂合わせのようなタイトルを付ける後続のミステリー作家が何人も現れた。ケメルマンのラビシリーズも「金曜日ラビは寝坊した」のように、曜日で統一して「△△した」という何気ない日常のひとこまを切り取ったタイトルに好感をもった。
おそらくそのころ、単に派手派手しい殺人が起きて、名探偵が仰々しく推理する形式に食傷気味だったのかもしれない。太宰や芥川などに傾倒してはいたが、一方で好きなミステリーはやめられない。その間をつなぐ「日常の中にひそむ謎」のようなものに僕のアンテナがピピッと振れたのだろう。その後の北村薫を見いだしたときの喜びは、このケメルマンとの出会いの再現と言ってもいい。
とはいうものの、ケメルマンの著作は退屈だ。今ではその多くが絶版状態なので、ラビシリーズは第一作しか店頭で見かけない。以前は大切に保管していた(全巻読んだかは疑わしいが)が、手放してしまった。内容も今となっては思い出せない。ユダヤ教信者の日課というのは変わっているなぁという感想をもったことがかすかに思い出される。
退屈の主たる要因は、やはり長編を引っ張る謎が派手さに欠け、そのうえラビの日常がそうそう面白く描けるわけでもないからだ。そういう意味では短編の連作(これは北村薫の戦略とも合致する)にすればよかっただろう。「九マイル」のニコラス・ウェルトが主役の連作はなかなか読ませる。
と思ったが、今ようやく感想を書くことにしてみると、冒頭の作品で表題作でもある「九マイルは遠すぎる」以外にどんな短編があったか、もう忘れてしまっている。やはり「九マイル」だけが特別な出来なのかもしれない。作者本人が言うように、ワンアイディアをいかにしてミステリーにしあげるか考え抜いては文章をこねくり回し、うまくいかずに何年も寝かせた。そうしてようやくのことに出来上がったと言うのだから、稀有な味わいが実感できるのは当たり前なのかもしれない。
「九マイルは遠すぎる」。この何気ない一文から何事が言えるというのか。どこまで演繹推理の輪を広げることができるというのか。友人であり、凡庸が極まったワトソン役でもある語り手「私」の挑戦に、名探偵ニッキーは渋々うけてたつ。ニッキーは探偵でも警察関係者でもない。「私」同様、とある大学の職員だ。ここでも作者は日常からかけ離れた人物を造ろうとはしない。
ニッキーが引き出す推論は、フェアかアンフェアかといった議論を呼び起こすものではなく、ストーリーテリングの妙味を楽しむ部類のものだ。例えば、ニッキーは前提として今二人が存在する「この場所」で誰かが言った一節であると仮定する事を「私」に認めさせた上で、大胆な推理を展開する。だが、厳密に言えば街の中心地から周辺の要所要所の距離などは、「九マイル」という言葉に都合がよいように著者によって配置されているだけだろうとケチを付ける事も可能だろう。だから、本格ミステリーとしてのフェア・アンフェアを問うよりも、とりあえずは作者がワンフレーズからどのように想像力を広げていったかを素直に楽しむべきなのだ。
しかも最後に、現実に隠された犯罪をあばいてしまうというオマケが付くのはもちろんの事だが、ニッキーが「私」の挑戦を受けて何を証明しようとしたかを改めて「私」から指摘されて、ニッキーは思わず苦笑いする。このユーモアたっぷりの皮肉なオチも絶妙だ。
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2010年03月29日
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ニッキー・ブレイクって誰やねん!
ニコラス・ウォルト、通称ニッキー
が正解でした。
とりあえず自爆したので、本文なおします。
ニコラス・ウェルト
だった。
ケメルマンさん、ごめんなさいm(_ _)m