2010年03月10日

百鬼夜行−陰 京極夏彦(2009/10/10読了,再読)

 最近、自宅にある蔵書の棚卸しをやった。と言ってもメモ帳にタイトルを控えていっただけだ。ざっと数えただけで300冊をこえている。これを全部消費しつくすことはどうしたって不可能に近いが、それでもあると安心するのが読書好きのならいだ。いたしかたない。しかも、相変わらず本はちょこちょこと増えていく。本来ならば一度読んだ本はどんどん処分していかないと、DVDレコーダーの内蔵ディスク同様に部屋の容量も限界を迎えてしまうだろう。

 ところで、こう本が多くなると、買ったにもかかわらず忘れて同じ本を買ってしまうことがある。この「京極堂」シリーズでも、短編集のタイトルがどれもこれも区別しがたく、古本屋の店頭で出くわした本が果たして購入済みなのかどうか、毎回のように頭を悩まされる。

 それだけではない。文庫を買うかノベルスを買うかでも悩む。意外なことに文庫版の短編集はブックオフなどでも品がない事が多い。あっても安くない。そこで仕方なく値の張る文庫版を購入するか、ノベルス版を買うか、いずれかを選択する。そのときにどうやら大きな間違いを引き起こすらしい。で、うちには文庫とノベルスとで同じ短編集が2セットある。これ以上間違えると、買って早々に二束三文で買い取ってもらう事になりかねないので、声を大にして言っておくが、すでに僕はスピンオフ作品を全部手に入れました!以上。

 自戒も含めて、ここで短編のタイトルをリストアップしておこう。いまだにタイトルと出版順と内容とが自分の中で対応づけられていないのだ。

百鬼夜行 −陰− (1999年) 妖怪小説(京極堂)
百鬼徒然袋 −雨−(1999年) 探偵小説(薔薇十字探偵)
今昔続百鬼 −雲−(2001年) 冒険小説(多々良先生)
百鬼徒然袋 −風−(2004年) 探偵小説(薔薇十字探偵)

 これで全部だろうか。「今昔…」の「続」が気になる。だがこれに「正編」があるわけではなさそうだ。いずれの短編集にも「百鬼」の文字が含まれる。紛らわしい。しかも末尾に短編集を象徴づける一文字漢字が並ぶ。それがまた、雨や風や雲のように似た言葉ばかりだ。ますます紛らわしい!間違えて二度三度買わせるように、どこぞの憑き物落としがタイトルに〈呪(じゅ)〉を掛けたのではないかと思いたくなる。

 本書は「京極堂」シリーズ最初のスピンオフ作品で、ずっと依然に文庫版を購入した。それ以前に出版された長編を読んだ後に本書を読み終えた直後から、僕の迷走が始まったわけだ。一つ一つの短編に、かつての長編の中にでてきた人物がふたたび登場する。いや、順序的には各事件が起こる直前や最中あるいはその後というように描かれ方がは様々なだ。とにかく共通しているのは、すべての事件の時代も世界も、シリーズ全作品を介してつながっているという点だ。僕らは作品の登場人物同様、作者が作った大伽藍から抜け出せなくなる。

 そこで本書を最初に読んだときから処女作「姑獲鳥の夏」に戻ることに決めた。そう決めてから早二年たってしまった。紆余曲折あったが再び本書にたどり着き、ついに長編「陰摩羅鬼の瑕」も読破した。あとは長編「邪魅の雫」までに、先に挙げた短編「雨」「雲」「風」の3冊を残すのみだ。

 僕などは、つい京極堂シリーズなどと言ってしまうのだが、正式な(と言えるのかわからないが)通称は「百鬼夜行」シリーズと言うらしい。となれば、本書のタイトルの「陰」の意味はおのずと明らかだ。長編の系列が、京極堂ら主役たちの活躍する「表(おもて)」だとすると、こちらで描かれる人々は言わば主役の影に隠れたわき役か、あるいはわき役にも満たない端役にすぎない。しかし、そこにも、いやそんなかれらだからこそ妖怪は棲みつく。

 「百鬼」というからには無数に存在する妖怪が、長編だけで描き切れるものではない。だから著者は、本編では顧みられなかった市井の人々をいちいち選び出しては、「夜行(やぎょう)」の中からこれまた端役のような妖怪を選び出しては彼らに貼り付けていくのだ。そのせいか、選ばれた〈陰〉の主役たちはことごとく暗い末路をたどる。最悪なことには、かれらの前に憑き物落としの「あの男」は姿をみせてくれないのだ。
posted by アスラン at 12:59| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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