2010年03月05日

身の上話 佐藤正午(2009/10/3読了)

 「正午派」には、著者が書いてきた、あるいは出版されてきた小説・エッセイ・短文を網羅したリストが載っているので、とにかく佐藤正午作品を読み尽くしたいというモチベーションが高まっている。当然ながら冷めるのも早いとよく知っているので、今の内にできるだけ読むか、集められるだけ集めておきたいと思い、古本屋に寄るたびに再読用にエラリー・クイーン、今はまりつつある辻村美月などとともに、正午作品を棚で必ず確認している。

 先日「5(ご)」の文庫がブックオフで500円で売られているのを見かけて、買おうか買うまいか迷ったあげくに買い控えた。まだ高いかなぁと思いつつ、105円棚に移るのはまだだいぶ先だろうし、もしかしたら永久にないかもしれないから、さっさと買えば良かった。そうかと思えばブックストアいとうでジェフリー・ディーヴァーの「魔術師」の文庫上下巻が200円×2冊で売っていたのを買わなかったのも、今から考えたらまったくどうかしてるとしか言いようがない。

 「5」を逃して残念がっているのは、今の正午熱(猩紅熱と響きが似ている)が「5」から始まっているからだ。「アンダーリポート」の書評の前振りでも書いたが、「5」を読んだときに「僕はこんな小説を待っていたんだ」と思えるくらいに、自分にフィットした話をそこに見いだした。著者の読者の比率は圧倒的に女性が多いだろうが、それでも内容は、日頃は本など読まないような男性こそが惹きつけられるような話だ。艶っぽい女との出会いがあり、なるほどそういう話なのかと思わせておいて、実はまったく予想もしない展開が待ち受けている。

 かといって、物語や人物をいじくり回したというような構成上のあざとさはない。いつでも作者の作品では「なんでこんなことに…」と思わざるを得ない〈転げ落ちていく人生〉を抱え込んだ人間が出てくる。すでに時間が経ってしまったのでうまく言葉にできるか自信がないが、「5」には、現実の人生そのものがまさに先が読めないということを改めて思い知らされるような、日常に潜む(言ってよければ)悪夢みたいなものを、さらっと描いている。

 もちろん「小説の読み書き」を読んでいれば「さらっと描く」などと言うことはあり得ないのだと、著者からおしかりを受けることだろう。小説とは「十分に書き直された文章」の事なのだから。そして「なるようにしかならない」転げ落ち方を、佐藤正午は最初の一文から最後の句点に至るまでぎっしりと書き詰めていく。もう読み手は「文書の存在感」に圧倒されながらひたすら読んでいくしかない。

 「身の上話」は、男性の語り手から女性の語り手へとシフトした物語だ。いや、違った。語り手は田舎町で普通のOLをしているヒロインのことをよく知っている男で、語り出される当初には物語のどこにも姿を見せていない。その後、彼女は当時不倫していた男を追って東京に出てきてしまうので、東京で出会う事になるのだろう。それは冒頭では明かされていない。

 とにかく男を語り手にすることによって、いつもの正午作品のように登場人物たちに対して一定の距離感を保ち、同情はしつつもクールに彼女の「身の上」を批評できる立場を確保している。「小説の読み書き」で著者が告白しているように、鴎外が「サバの味噌煮」が嫌いだったために二度と再び出会うことのない男女の話を書いた事に触発されて、著者は「傘を電車内に置き忘れた男の話」と「リンゴを買いに行くと言って姿を消した女の話」を書いた。そして、ここにまた新たに「宝くじ売り場に、人から借りた傘を置き忘れたまま姿を消した女の話」が一つ付け加わったわけだ。

 そこから彼女を待ち受けている人生は、ありきたりとはほど遠いにも関わらず、何故か「自分にも無縁ではない人生」だと思わせるほど、多くの読者に強烈な感情移入を強いる事になる。それがどうしてなのかは読めばわかる。ここに書かれた「身の上話」は決して人ごとではない。あなたの「身の上話」でありうるお話なのだ。

 いやはや、これだから佐藤正午という男は侮れない。
posted by アスラン at 13:06| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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