2010年03月01日

1Q84(BOOK1/Book2) 村上春樹(2009/12/22読了)

 明治から始まった日本の近代小説のムーブメントの中で、決して多すぎはしないが少なくもない数の有名無名の作家たちが、「小説」という形式で文章を残してきた。21世紀になって僕らはインターネットという強力なツールを手に入れることで、いつでもどこでも、有名無名に限らず、それらを読むことができる。

  

 「読むことができる」という意義はものすごく大きいが、しかし「読むということ」と「人々の話題にのぼること」の間には大きなギャップがある。当然ながら、そこには忘れ去られた作家とその作品が、大多数の読者に読まれることなく、美術館の絵のように飾られている。

 全集にすれば漱石を圧倒的に上回る量の作品を残した鴎外にせよ、いま手軽に読まれるのは「舞姫」だとか「高瀬舟」といった一連の短編だけだ。口語体で初めて内面を表出する事にこだわった四迷の作品は、文体と内容の不釣り合いから現代人には親しまれず、文章のバランスの良さで漱石の作品に場所を譲った。漱石にしたところで、読書感想文の課題図書に「こころ」を推す頭の固い(「悪い」ではない)お歴々が死に絶えれば、いつまでも読み継がれていくかは予断を許さない。

 いまは、太宰治や芥川の作品の多くが読まれているけれど、その多くは、森見登美彦のような新たな世代の作家が掘り起こしてくれるからこそ、若い読者を惹きつけるにすぎない。芥川賞、直木賞にしたって、エンタメ本やラノベを好んで読んで満足するティーンズには遠い存在だろう。

 唯一、一般人にとっての権威たりえているのはノーベル文学賞をとった作家とその作品ではあるが、それとて政治的かつ社会状況に見合った芸術性が優先されるのだから、どの程度読み継がれるかは正直よくわからない。少なくとも大江健三郎は一冊もよまなくても(なぜか教科書に小説が採り上げられない)、「伊豆の踊子」や冒頭のフレーズがあまりにも有名な「雪国」のような川端作品はまだまだ残りそうだ。

 それでは村上春樹は100年後、200年後に、今同様に読み継がれているだろうか。もちろん古典的な意味でだ。読み継がれているとして、その作品はどれだろう。「ノルウェーの森」だろうか、「羊をめぐる冒険」だろうか。いや村上春樹ファンに聞くと誰もが傑作だと言う「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」だろうか。それとも円熟期に入って〈カフカの不条理な世界〉に、より傾倒して書かれた「海辺のカフカ」だろうか。そして、やはり200万部を売ったという最新作「1Q84」だろうか。

 もちろん答えはない。準古典にしろ、古典にしろ、歴史の不確実性を踏み越えて残るための決まり事などないのだから。「のこるものがのこる」という馬鹿げたトートロジーでしか、その難しさは表現できない。ただひとつ言えるのは、村上春樹の作品ですら〈古びる〉ことはまぬがれえないという事実だ。特に彼の場合、日本の時代状況や風俗を切り離すことができない、シニカルでノスタルジックで軽快な文体が、その時代その時代において新しい読者を獲得していったことを思えば、「羊をめぐる三部作」などを今読むと、明らかに古びたと感じられるのは致し方ない。

 それに比べると、例えば「海辺のカフカ」や本書の方が古びる速度が相対的に緩やかではないかという予想ができる。それは風俗に流されないおびただしい普遍的な隠喩から作品が構成されているからだ。僕は読んでいて最初から言葉に圧倒される。もう、どこをどう切り刻んでも「おびただしい」としか言いようのないほどの引喩の連続であり、その表皮を剥いていったところで、玉葱の皮のように隠喩の皮が続いている。そしてもし万が一剥ききったとすれば、そこに核といったものは見あたらない。いや、核は意図的に作者によってどこかに隠されているのかもしれない。

 その過剰な隠喩に溺れることなく、さっそうと泳ぎわたれる読者は、村上春樹の読み方を知っているファンか、あるいは表層的な物語を楽しめれば十分というライトな読者に違いない。あるいは表層的な面白さは二の次で、作者のモチーフがどこにあるかを深読みしたがる読書家たちにとっては、この過剰な隠喩こそ格好なごちそう(あるいは餌食といってもいいが)だろう。

 僕は…。僕はどちらでもない。散文的な文章に溺れそうになると同時に、摩訶不思議ではあるが、SFでもミステリーでもないエンターテイメントとしては中途半端な文章に、何を推進力に読んでいけばいいのかなどと、ちょっと冷めた感覚で読んでいた。冷めてはいるのにもかかわらず、やはりどこにも誰にも真似できないような正真正銘〈村上春樹印〉の文章が、まるで端正で慎ましいクラシック音楽に聞き耳を立てているかのような時間を楽しんでいる自分に気づいた。もしかしたら、ヤナーチェックという聞き慣れない作曲家の楽曲というのも、そんなロマンティックな郷愁を受け止めてくれるような作品なのだろうか。

 最近になって気づくのも愚かな事かもしれないが、この小説は2巻で終わったわけではなかった。青豆と天吾との満たされない愛は、再生の予感で終わるのが本書の「余韻」なのかと思ったが違ったようだ。この2冊は二人にとってのプレリュードに過ぎない。
posted by アスラン at 13:02| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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