さて、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」はどんなお話だったっけ?原題どおり、あの「不思議の国のアリス」の少女が〈鏡をすり抜けて〉向こう側の世界に入り込んでしまうストーリーだったことは覚えている。でも「アリス」で覚えているエピソードは、やはり前作の方が圧倒的に多そうだ。正装して時計を見ながら先を急ぐウサギを見かけて、後を追い掛け、入り込んだ穴を転げ落ちると、今度は体が大きくなる(そして小さくなるんだっけ?)。ジャバウォキーが出てくるのも、チェシャ猫も「不思議の国」の方だったはずだ。では王様と王女様がチェスをする話はどうだろう。
もちろんハンプティ・ダンプティは「鏡の国」の住人だ。そうでなくてはいけない。だってタイトルをそっくりいただいた本書でも、ハンプティ・ダンプティらしき人物が出てくるからだ。通常、小説の題名に「鏡の国の○○」のような〈いただき方〉はありがちだが、まったく同じというのはちょっと見かけない。さらに不思議な事に、本書の主人公はアリスとは似ても似つかない、少しくすぶった青年なのだ。このくすぶり加減は、本書が書かれた当時の昭和30〜40年代の若者が学生運動終焉の後に陥った鬱屈に見合ったもののようだ。
当時の風俗がよくわかる銭湯の湯船につかって、日頃のやるせなさをまさに癒している主人公は、突然自分が女風呂の湯船にいる事に気づく。なんとも間抜けな風景だが、笑い事ではすまされない状況であることは同性ならば誰しも理解できよう。当然ながら大騒ぎになる。警察に突き出されるが、そこから彼にドラマチックな展開が待ち受けているわけではない。
保釈された彼は、そこが元いた自分の町とは妙に違っている事に戸惑い、ついに「鏡の国」に入りこんだか、あるいは自分の頭がおかしくなったのかのいずれかだと気づく。そこで彼を救ってくれる作家が現れ、作家の家に居候しながら「鏡の国」でとりあえずなんとか生きていくすべを探す事になる。
その一つ一つの描写が、ドラマチックな展開を持ち込むよりもずっと現実味がある。たしかに「鏡の国」という異世界は、鏡を軸にして左右対称な世界であるだけで、声も同じだし、たいていの生きものの様子も変わらない。変わらないものの方が多いので、鏡文字の読み書きさえクリアすれば、当面はだれにも怪しまれずに生きていける。
しかし、鏡に向かい合わせの世界の日常は、こちらの世界同様に退屈だ。ファンタジックなことは何も起らない。本当に対称であれば、こちらにももう一人の彼がいたり、彼の住むアパートも位置が左右逆になるだけで存在するはずなのに、そうはなっていない。その微妙な食い違いの謎にこだわれば、パラレルワールド物の面白いドラマができあがりそうな気もするのだが、作者にはそのような意図がそもそもない。本当にここが鏡の世界なのかどうかを、作家の口を借りて詳細に科学的に分析してみせる。例えば「左右は逆になるのに、何故上下は逆にならないか」という事を、さながら科学や物理学の授業のように科学的なアプローチで追求していく。
作家が携わった子供向けのTV教育番組で、なんと量子力学のスピンやCP変換のようなきわめて専門的な概念が援用される。作家は「父兄には不評だったが、子供は案外理解してくれた」と語るが、僕に言わせればいくらなんでも「ムリでしょう」と言わざるを得ない。僕自身、文章で書かれた番組風景の描写にはほとんどついていけなかった。これは確かにSFらしいと言えばSFファンを満足させたのかもしれないが、ファンでない僕のような一般読者には、大きなハードルになるだろう。
それ以外は、サックス演奏家でもある主人公が、左右非対称の楽器を演奏できなくなって生活の糧を失いそうになるが、それをどう乗り越えるかという「鏡の国」ならではの展開は面白い。ただ、登場する人物の内面が描けていないせいか、あるいは主人公と同質の鬱屈が作者自身にあって他者の内面はすべてのっぺらぼうと化してしまうのか。いずれにしても主人公以外の登場人物が紋切り型で平板なのは残念だ。
ところでアリスはどうしたのか?どこにいるのか?何故にオリジナルと同じタイトルにしたのか。どうしてもわからないな、と思ったら最後の最後に「なるほどね!」という展開で終わる。そういう趣向だったのか。おみそれしました。
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2010年02月25日
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なぜか同名のタイトルなんですよね。で、読後気になったので古本屋で角川文庫版のアリス2冊を買い求めました。いぜん柳瀬訳(ちくま、かなあ)で読んだ事はあるのですが、なんとなくピンと来ないんですよね、面白さが。
もう一度チャレンジしてみようと思ってます。移り気がなければの話ですが…。
日本語のなかで「遊び」やレトリックを生かす翻訳を見つける。これぞ究極の翻訳でしょうね。だけど面白みを理解するには、読み手の方にそれなりの知的センスが必要になってくるんですよ。そこがちょっと厳しいですね、僕には。