2010年02月09日

玻璃の天/鷺と雪 北村薫(2009/9/21読了)

 (粗雑な事で申し訳ないが、すでにどの短編がどの本で書かれたのか区別がつかない。だからまとめて2冊の書評とする。)


 「街の灯」から始まる連作は「鷺と雪」をもって三部作の完結をみた。なにやら惜しい気がする。戦争という、いや戦後という足かせに囚われていない日本のおだやかで屈託のない時代に、昭和という風俗の中に描かれる主人公達の行く末を、もう少し追ってみたい気にかられる。それくらい、「私」にも「ベッキーさん」にも愛着が感じられるように、著者・北村薫は大切にキャラクターを育て上げてきた。

 「円紫と私」シリーズのコンビにしても、「覆面作家」シリーズのコンビにしても、そして今回のベッキーさんと私にしても、ミステリーを描くという観点からみれば、互換可能な存在だと言える。特に北村作品の一つ一つには、とりたてて主人公たちの日常に大きな影響を及ぼすような大事件が起ることはまれだ。日常に埋もれかねない謎を紡いでいくだけだから、ミステリー好きにとっては、いくらでも連作をつづけていって欲しいと、簡単に願ってしまうところがある。

 しかしその実、それぞれのキャラクターは決して取り替えがきかない時の流れを歩み、かけがえのない人生を生きていく。例えば「円紫と私」シリーズでは、もう私も正ちゃんも江美ちゃんも、あの素晴らしき屈託のない学生時代には戻れない。時の流れをとめることはできても、後戻りすることはできない。そういう生の残酷さを北村薫という作家は、何気ない日常の中にさりげなく忍び込ませる。だからこそ「かけがえのない人生」の意味が僕ら読者の心にとどく。決して、とりかえが利くような主人公たちではないのだ。

 特に、本シリーズの仕掛けは、昭和11年に起きる二二六事件にいたるまでに、古き良き日本の最後の輝きとともに生きた人々を描こうと作者が決めたときから、時限装置付きのキャラクターが動き出す。「騒擾ゆき」というなんでもない童謡の一節に不穏な予告をかぎ取ってしまう主人公の運命は、その後の日本の命運とともに大きく変わってゆくであろう。しかし、作者はそれをあえて描かずに時をとめる。それ以上は言わずもがな、語らずもがなの話だからだ。

 あの「街の灯」で描かれた〈友人宅で催された花見の宴〉も、銀座八丁をびっしりと埋め尽くす露店の風景も、すべては夢の中へ、セピア色した写真の中へと封じこめられていく。残るは服部時計店の時計台だけだ。しかし、空を埋めつくす高層ビル群が増えて、見上げる意味さえ見失いがちな時代に、時計台を見上げて感慨にふける人がどれほどの数いるだろうか。

 すべては過ぎ去り、愛する人も物も逝く。当たり前なことなのに、なにか置き去りにしてきたものがあるような気がしてならない。僕らはほんのつかの間、作者の作りだした魔法の時間の中で限りないいとおしさに包まれる。
posted by アスラン at 19:41| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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