料理本は世にたくさんあって、どれもこれもが実用的にできているかどうか(僕にもつくれそうか)、作るより何より食べておいしそうか(写真うつりは重要だ)、そして最後に単純に見て読んで楽しいか、がポイントになる。
TVのクッキング番組がいつ見ても楽しいのは、これらのポイントすべてをある程度満たしているからだ。しかしレシピ本となると、そうはいかない。例えば自宅にある「365日作れるおかずの本」みたいな本は「白和えでもつくろうか」「ポテトサラダに入れる玉葱はどうやって水にさらしたらいいんだっけ」などと、その日の思いつきの答えを手に入れるには、とっても役に立つ。でも、そこに書かれてあるレシピを普段読みたいとも思わないし、ましてやおいしい料理を探して、ただ眺める用向きには向いてない。楽しくないからだ。
栗原はるみさんやケンタロウのように、今現在のクッキングを先導している達人の本は、その人の料理だけでなくライフスタイルまでも見せてくれて、そこに一つの望ましい、あるいは好ましいコンセプトが提案されているのを見るのも、もちろん楽しい。しかしそれは、あくまで「隣の家の芝生」であって、いざ自分の身の回りを振り返ってみれば、おのずと栗原はるみ流は行き詰まるし、ケンタロウ流は女性(妻)から異論がでてきそうだ。
そんな中で、一つの料理にはたくさんの記憶が封じ込められていて、その分かちがたい思い出とともに、その場にあったはずの料理が再現できれば、それはその人にとっての「永遠のレシピ」「黄金のレシピ」と言える。きっと、かけがえのない料理本になるはずだ。
この本には、そんな誰しもが思い出として抱えている「なんでもない日」に作られた料理を並べてある。ナポリタンにまつわる70年代のレトロな雰囲気は、確かにお父さんが当時はいたるところにあった喫茶店やスナップで注文していた大人のごちそうというイメージがあるし、運動会で家族(というか母親)と一緒に食べたお弁当には、かならず「鶏の唐揚げ」や厚焼き卵といった定番料理が入っていた。
何かお祝い事があれば、「五目寿司」や赤飯が作られるのも当たり前だった我が家が、確かにそこにはあった。今よりはずっと貧しい生活だったと思えたのだが、今の僕らの食卓が、息子に豊かな記憶を与えているのかどうか、本当に心許ない。せめて時には、僕らの「永遠のレシピ」を息子にもおすそ分けしたいものだ。
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2010年02月04日
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