2010年02月04日

陰摩羅鬼の瑕 京極夏彦(2009/9/15読了)

 「和歌山毒入りカレー事件」というのがあった。犯人は捕まり、裁判が長きにわたって続き、判決が降りた。前々から噂の絶えない一家の妻だった。機会はあった。犯行に必要なヒ素も所有していた(正確には自宅に置かれていた)。しかし、それ以外に直接犯人だと示す証拠はない。自白もない。本来ならば「疑わしきは罰せず」の原則が適用されるところじゃないかと思うのだが、そうはならなかった。ならなかったことに当時の世論は喝采した。「おかしい」「あいつが犯人に違いない」。人の口に戸は立てられない、というわけだ。

 「ロス疑惑」の三浦一義のときもそうであったし、ずっと前に遡ってトリカブトを使った保険金殺人のときもそうだった。そして、また、つい最近になって一人の女の周辺で「多すぎる死」が注目されている。親しくつきあった挙げ句、多額の保険金が相手の男達にかけられ、そしてある日突然、不自然な死に至る。睡眠導入剤が死体から検出され、それと同じ物を女が所有している。またしても直接的な物的証拠はない。自白ももちろんない。しかし「どこかおかしい。あの女がやったに決まっている」、そういう世間の声がいたるところから聞こえてくる。まるで安っぽいサスペンスドラマのようだが、嘘っぽいと笑うことは今の世の中では不可能になった。最近のあれやこれやを思い浮かべると、「何でもアリ!」の世の中に暮らす難しさを実感せざるを得ない。

 そこで、この「陰摩羅鬼の瑕」だ。ここでも信じがたいほどの「多すぎる死」に取り憑かれた男が登場する。〈伯爵〉を名乗り、白樺湖近くの洋館「鳥の城」に住む。その名の通り、館の中には剥製にされた鳥たちがいたるところに飾られている。言わば、「多すぎる死」を自ら身にまとっている人物だ。そして極めつけは、過去四回の結婚で、初夜が明けた朝に必ず4人ともに花嫁が殺されてしまう。23年前を皮切りに、8年前を最後に、忌まわしい呪いは封じ込まれてきた。しかし、今また忌まわしき記憶を呼び覚ますように、5度目の婚礼を迎える。

 これは、なにがどうなろうが「あの男(伯爵)が怪しい」とならずにはいられない。TVが同時代に普及していたならば、必ずやワイドショーが毎日のように消費せずにはいられない大事件になっていたはずだ。しかし「犬神家」の連続殺人が日本はおろか地元・信州でも知られる事がなかったように、この不連続な殺人は人々の話題にのぼることはなかった。「知る人ぞ知る」おぞましい噂の一つに過ぎない。

 そして小説の冒頭で、この殺人の真相にたどり着いてしまった男が出てくる。僕らシリーズ愛読者にはおなじみの関口巽である。いちばん探偵には向いてなさそうな男が「何故に?」といぶかる人も多いだろうが、そこには重大な理由が隠されている。いや、隠されてはいないか。なんと、あろうことか1200ページを越える本書では、冒頭から犯人も、その動機さえも隠されてはいない。つまり、犯人を知りつつも知らないふりをしながら、僕らは1200ページの大部の小説を読む事になるのだ。

 「絡新婦の理」においても、著者はトリックにも犯人当てにも関心がないように見えると書評で書いた事があるが、本作ではますますその傾向に拍車がかかっている。つまりは探偵小説とは一線を画した読み物を書きたいという、著者のストーリーテリングの指向が一段と強まったと言えばいいだろう。確かに分かり切った結末にたどり着くまでに、僕らは1200ページも迂回させられる事になるのだが、退屈かと言えばそんな事はない。目の前に、あるいは手の届くところに、おぞましい真実はあると言うのに、あえて存在しないかのように振る舞う。それがクライマックスにいたるまでに、少しずつ知らぬふりができなくなっていく。その緩やかで呪わしい時間の流れが退屈なわけがない。

 ただし、今回はいつものような妖怪譚というわけでもなく、肝心の「陰摩羅鬼」という妖怪の影が薄い点が物足りない。今回、妖怪よりもおぞましいのは、〈非存在〉こそが死ととらえるハイデッガーの悪夢のような思想そのものだ。本来は、存在者自体の存在を生き生きと把握するためのオントロジーであったはずが、そこから「死に憑かれる」事が「存在」することの本質だと把握される。この相矛盾するかのような哲学上の難問に付き合えれば、最後まで面白さは尽きない。分かり良さという点では「絡新婦の理」に一歩譲るのは致し方ないか。
posted by アスラン at 02:33| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。