この本では「佐藤正午」という作家の始まりと、最新の「今」が見えてくるように、
0-28 1955-1984
28-33 1884-1988
33-38 1989-1993
38-43 1994-1998
43-48 1999-2003
48- 2004-
という章立てになっている。
最初の数字が作家としてのキャリアを表わし、次の数字が西暦を示しているのは当然として、なぜ、年数の幅が最初と次とでは揃わないのかが不思議だ。ひょっとして満年齢と数え年との違いのようなものだろうか?
なんてどうでもいいことを書きたいわけではない。各章の冒頭に年譜が置かれており、探してみるとさきほどの「ブルー」は2009年の年譜に記載があった。「正午派」(本書の事だ)のための書き下ろしだとわかる。この本に載せるために特に請われていやいや書いたのか、あるいはあまり考えられないが、作者が書きたくて書いたか、のいずれかだ。
どちらにしても佐藤正午という作家を知るには十分すぎるほど、凄みの利いた短文となっている。彼は「小説の読み書き」という新書で、川端康成や志賀直哉といった数々の文豪の文章を大胆にも添削してしまっている。つまり思慮深さには欠けるが、文章を書くという事の意味も、力も、そして自分の文章の到達点さえも、十分にわきまえている著者が、その並外れた文章力を軽々と見せつけながら、「今の自分には何が書けるか」と腐心しながら書きあげたような、そんな短文なのだ。
それは一つの愛が終わる瞬間を描いたとも言える。終わりは一瞬であるはずなのに、スローモーションのように一コマ一コマが、男の目には女の「ごめんなさい」の言葉の謎と答えがゆっくりとやってくるところを捉えるワンシーンワンカットの映画のシーンのように見えている。
こんなことを、星新一とはまったく違うジャンルの、まったく違う書き方の、ショートショートで書き上げてしまう事に、まず僕ら正午ファンは驚かされる。ファンでない人はもっと驚いていい。いやできれば気に入ってほしい。「こんな意地悪な場面を描かないで」などと思ってほしくない。
「ブルー」で佐藤正午の魅力にとりつかれた人は、年譜に沿ってすべての文章を読みたくなるはずだ。現に僕はそのために「正午派」を手元におく決意をしている。決意はエクストラなお金が入ってくるまでに棚上げされているのだけれど…。



