2010年01月19日

街の灯 北村薫(2009/8/28読了,再読)

 「円紫師匠と私」シリーズの新作が書かれなくなって何年たっただろう。なにか面白いミステリーはないだろうかと、自分にしては珍しく冒険したつもりで東京創元社の「鮎川哲也と十三の謎」という新人ミステリー作家発掘の企画本のなかから「空飛ぶ馬」を選んだのが 1989年。あれから20年か。そして今のところの最新作「朝霧」が1998年出版。これにしても12年か。いまだに僕はヒロインの「私」の成長する姿と出会うことを夢見ている。もちろん、高野文子が描く表紙の中のすまし顔にも出会えることを。


 当時流行していた新本格ミステリーと言われるジャンルの気鋭の作家たちに混ざって独自の路線を歩む著者は、当時から作風はほぼ完成されていた。大学のミステリー研究会出身であっても、実際の職業を反映してか、同じ出自を持つミス研出身の他の作家たちの青臭く未熟な文章と比べると、かなり落ち着いた文章だった。少々古風な道徳観が作品につきまとうところに難があるかもしれないが、情感をたたえた登場人物たちに、僕ら読者は十分すぎるほど感情移入する事ができた。

 あの当時から大化けすることは考えにくい作家だったが、このまま作風が広がっていけば、様々な小説の楽しみ方を教えてくれそうな可能性を秘めていた。その期待に密やかに、あるいは淡々と応えてくれた作者は、「スキップ」「ターン」「リセット」で時を戻ることの郷愁に浸らせてくれたり、「水に眠る」のような極上の夢を見せてくれたりした。そうかと思えば、「盤上の敵」や「クイーン最後の事件」のように、本格ミステリーファンをうならせたり、楽しませてたり、まさに万年ミステリー青年としてのこだわりを見せつけてくれた。

 なによりも文学に関する博覧強記は、他のミステリー作家だけでなく数多くの作家の中でも図抜けていて、様々なエッセイで文学に対する多面的な興味をかきたててくれもした。そんな博識ぶりを作品へと昇華したのが、この「街の灯」から始まる連作だ。このタイトルは映画ファンならおなじみの、チャーリー・チャップリンの1931年の代表作と同名だ。チャップリンの初来日は1932年(昭和7年)だから、ちょうどこの時期に合わせた短編で連作を締めくくっている。

 3作通してチャップリンの映画がなんども取り沙汰され、最後の「街の灯」では、映画のワンシーンが詳細に描写され、語り手(作中のヒロイン「わたし」)独自の映画評が示される。チャップリンの「街の灯」が、大甘なヒューマニズム溢れる作品だとは誰でも知るところだが、チャップリンの演出のすごさは、盲目の少女が視力を取り戻して、自分をこれまで励ましてくれた人の正体を知ったときの失望を、ほんの一瞬だが鮮やかにかいま見せたところだ。

 チャップリンは単に性善説を信じているのではない。人間の醜さ、人生の残酷さを知りながら。さらにその上を行く愛する事への信念を描いてみせたのだ。

 だから「街の灯」は、そこはかとなく悲しくて切ないと同時に、力強さが感じられる。そのモチーフに、本書の著者・北村薫は、ヒロインの令嬢「わたし」のかよわくも自立していこうとする前向きな姿をオーバーラップさせる。

 1931年前後から物語が始まるのは、もちろん歴史的に意味がある。あの「二二六事件」が連作のクライマックスに待ち受けているからだ。ただしそれは、昨年直木賞を受賞した「鷺と雪」まで待たねばならない。まだ、この本では時代の不穏な雰囲気はそれほど感じられない。そう、テレビドラマだと暗黒の時代として描かれやすい昭和初期だが、世相は暗くなかった。人々は銀座の夜店の賑やかさに、これから来るであろう暗い時代を予感することなく、豊かな日本を享受する余裕があった。

 「わたし」に付き従うもう一人のヒロイン、凜とした立ち姿を見せる謎の女性運転手ベッキーさんとともに、僕らは、三部作の結末に向かって一歩を踏み出す。
posted by アスラン at 12:59| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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