2010年01月07日

チャイナ橙の謎 エラリー・クイーン(2007年9月25日読了,再々…読)

 「アメリカ銃の謎」を読んだあとに「エラリー・クイーン パーフェクトガイド」(以下「ガイド」と略す)で狙いをつけて本書を読んだ。古本屋で購入した190円の文庫にたくさん書き込みをして、書評とネタバレ解読を書き上げたら捨てるつもりでいた。ところが当時はよんどころない事情で多忙を極めて書く余裕がなくなり、そのままになっていた。今回、かなりとばし読みではあるが、ひととおり読み直して前の読書の書き込みも頭に入った。

 さらには今回の読書で気づいた事がある。それはトリビアルなことではあるが、ひょっとしたら誰も触れたことがない指摘になるかもしれない。これについては最後に書く。

 まずは、「なぜ『アメリカ銃』の次に読もうと思ったか」から始めよう。「ガイド」で再読のポイントとして、次のように対照的な事が書かれている。
「推理はトリックを乗り越える」(アメリカ銃)
「推理はトリックを乗り越えられない」(チャイナ橙)

 「アメリカ銃」を読んで、推理しないとトリックが見えてこないという理由が十分すぎるほど理解できた。今度は「チャイナ橙」の方だと思って読んだのだ。そして再読ポイントの意味は十分に理解できたのだが、「アメリカ銃」が再評価できたのに対して、本書は再評価どころか以前読んだときよりもマイナス評価になるか、もしくは何ら再評価につながらないという点が、面白いと言えば面白い。この点については、「ネタバレ解読」であらためて詳しくみていくので、とりあえずここでは保留しておこう。

 舞台設定は「(1934年当時の)ニューヨーク市中心部のりっぱなホテルの22階」。22階以上の高層ビルに部屋を抱えるホテルだから、かなりの高級ホテルであることは予想できる。しかも、22階という立地に事務所を構えるのだから、若き経営者ドナルド・カークの一家がさらに裕福な一族である事も想像がつく。彼の事務所で事件は起きる。

 エレベーター前には受付係が常駐し、問題の事務所はエレベーターのすぐ隣りにある。ほぼ衆人環視の中、犯人が特定されない理由は、殺人が起きた事務所の控え室には事務所側からのドアとは別に、受付係からは死角となるもう一つのドアがあり、それが廊下と繋がっているからだ。廊下の奥には非常階段があるので、犯人は他の階からそっと忍び込む事もできただろうし、すばやく人目を気にせずに逃げ去る事も可能だ。

 だから、ホテルに宿泊する人々や従業員、あるいは外部からの侵入者に至るまで様々な可能性が考えられ、容疑者を特定するのはかぎりなく困難になる。これまでの国名シリーズであれば、そういう大都市における不特定多数の容疑者の存在を読者に印象づける事に、作者は意識的であったはずだ。ところがこの作品に関する限り、作者は非常に無頓着だ。

 「アメリカ銃」でさえ、2万人にものぼるロデオの観客をいったんは容疑者に入れ、エラリーの空前の推理で一挙に除外している。だが、そもそもこの作品では、外部の犯人を想定しない。もちろん、クイーン警視率いる警察は、外部の犯行も念頭において捜査するのは当然だが、本腰をいれて現場周辺の聞き込みをした雰囲気が感じられない。ましてや、探偵であるエラリーからして外部の犯行を自らの「論理の見取り図」に入れようともしない。

 つまり、本作の殺人の見通しは非常にスケールが小さい。これまでの国名シリーズの華々しさはなく、きわめて閉鎖的な空間と限られて人々の中でこぢんまりとおさまる殺人事件でしかない。だから魅力に乏しいかと言えば、実はそうではない。ここで繰り広げられる犯行と、そこに仕組まれた謎はクイーンならではと言える。一度読めば忘れる事はできない。まえがきで「うしろむきの犯罪」と名付けられているように、きわめて奇妙な犯行だからだ。

 控え室では被害者の男の様子も含め、あらゆる家具がひっくり返されていて、〈あべこべ〉状態になっていた。
部屋はまるで、巨大な手が、建物からひとつかみにもぎとって、さいころつぼのように振りまわしたあげく、元の場所にほうり出したかのようだった。ひと目みただけで、まったく、てんやわんやの状態だった。家具という家具が、みんなところをかえていた。壁の絵も、なんだか様子が変だった。絨毯もへんてこだ。椅子も、テーブルも、なにもかも…。(P.48)

 あらゆるものがあべこべで、被害者の服までもが後ろ前に着せられている。これが犯罪の大きな特徴であり、あべこべが徹底しているが故に、作者お得意の精緻な論理にもとづいた推理がもたらすカタルシスは、シリーズ最大級と言ってもいいかもしれない。

 ただし、すべてがあべこべだと読者に思わせたがる素振りを作者は見せているが、実は被害者の様子には、あべこべというには似つかわしくない奇妙な痕跡が残されている。

 顔を下にして倒れており、短いふとった両腕はからだの下にねじまげられていた。角(つの)のような妙な形をした鉄製のものが二本、首のうしろの個所に上着の下から突き出ていた。(P.49)

 この2本のヤリをつかった何かの見立てにも見える被害者の様子は、あきらかに〈あべこべ〉とは違った何物かだ。だから、ここには別の解釈あるいはトリックがあるにちがいない。そして、総じて論じればナンセンスな犯罪だと言える。以上の2つの謎を解き明かせば、被害者は何者(あえて「誰」とは言わない)であり、犯人は誰であるかが見えてくる。

 しかし、「ガイド」で指摘されているように、メインの謎が「犯人は誰か?」ではなくて「被害者は誰か?」になっている点こそが、本作の評価を貶めている理由であることは否めない。なぜなら、被害者を解き明かす論理の過程だけとれば第一級の本格ミステリーなのに対して、犯人の謎を解き明かす過程も結論も、およそ本格ミステリーファンやクイーンファンを満足させる事はできそうにない。ましてや普通のミステリー好きを納得させることは、かなり難しい。このギャップが作品の完成度を大きく損ねているわけだ。

 さて、謎解きの分析はおくとして、〈あべこべの犯罪〉を飾り立てるために、作者はお得意の意匠をたっぷりと作品にばらまいているようだ。「ガイド」には「『不思議な国のアリス』からの引用が何度も出てくる」と書かれているが、具体的にどの部分を指しているのだろう。ざっと一読した印象では、ナンセンス性は十分に強調されているが、そこに「アリス」のそれは見あたらない。しいて言うと、「登場人物」のリストに附された解説が、通常の人物紹介ではなく芝居がかっている点に、何か元ネタの存在が感じられる。

 「アリス」のナンセンス以上に、一見して大きな比重を占めるのは、犯行現場にあったタンジールみかん(通称チャイナ橙)に象徴されるように、中国の生活習慣に見られる「あべこべ」に関する言及だ。日本を含めたアジア通のフレデリック・ダネイの趣味が生かされているのか、さかんに中国と西洋との違い(あべこべ)を印象づけようとしている。しかし、アジアの片隅に住む僕ら日本人読者からみると、かなり怪しげなものが多い。

 まっさきに僕らの目に触れるのは、まえがきに続く一章の直前に挿入された架空の著者による架空の著作からの引用だ。そこには「西欧についての著名な日本の権威マツォユマ・タユキ」などと書かれている。日本びいきの作家にしても、この程度の理解でしかない。マイケル・クライトンが「ジュラシック・パーク」で、日本人研究者にハマチという名前をつけていたのが思い出される。

友人と会ったとき、友人とは握手しないで、自分自身の手を握手する(P.136)
中国の農民は、わらぶきの小屋を建てるのに、上から下に向かって建ててゆく
中国人はじょうぶでいるあいだは、医者にお金を払い、病気になると払うのを止める(P.137)
涼しくしたいと思うと、熱い飲みものをとる(P.138)
よそのうちで食事をするときには、できるだけ大きな音をたてて食べ、食事が終わると、さかんにげっぷをする(P.138)
中国のひとはからだを冷やすのに、熱いタオルを使う。汗をかわかすのにぬれた手ぬぐいを使う(P.138)
悪魔を防ぐために入口の前に低いへいを造る
女がズボンをはいて、男はスカートのようにみえる服を着る
中国の学生は教室で、声を張りあげて解説する(P.139)
中国のひとは生まれたときが一歳

日本人にも当てはまる慣習も見あたるけれども、おおむね古くさい習慣が多く、もしこれを読んだ出版当時の読者が中国をイメージしたとするならば、かなりの後進国(未開の国)と思われても仕方ない。

 きわめつけが、
敵に恨みをはらす最大の復讐のしかたは、敵の家の入口で自殺する(P.140)

というもので、自分の死と引き替えに「敵をはずかしめる」事になるからだと言う。これに対してエラリーは「日本のハラキリの変形みたいなものですね」と受け止めているが、ハラキリ(腹切り)は自らの恥をそそぐために行う行為で、敵をはずかしめる行為ではない。西洋人の前では、ハラキリも家の前での自殺も等しく理解不能な行為として一括されている。

 しかし、こんなことのいちいちは、エラリー自身も「事件にかかわりがある」とは信じていない。つまりは、ここで語られる事自体に意味はない。あえて言えば、作品全体を貫く「無意味(ナンセンス)」のモチーフを強化するためだけに、長々と無駄な問答を繰り返しているに過ぎない。

 フレデリック・ダネイは「チャイナ橙の謎」を自身のベスト3に入れている。それにはいろいろな理由が想像できる。「あべこべ」の趣向以外に、切手の話、アジアの異国情緒や風俗の話などが取り込まれていて、かなりダネイの趣味に走った作品である。そのうえ、ナンセンスな設定に乗っかって、かなり芝居がかった演出がいくつも用意されている。思うに、本作品は盟友ディクスン・カーが得意としたファース(ドタバタ喜劇)をクイーンなりに書いた作品なのかもしれない。ただし、思ったほどには「ドタバタ」がメインの謎解きに活かされていないのは残念だ。

 最後に、冒頭でふれた「ある指摘」をしておこう。

 エラリーは犯行現場にくだものの鉢が、他の家具同様にさかさにひっくりかえしてあるのを見つける。

はちのそばには、タンジールみかんの皮のくずと、乾いた種がいくつかころがっていた。エラリーはなんだかそれを前に見たような気がした。(P.76)

 この作品の欠点のひとつに、書いたら書きっぱなしでなんの解釈も回答もあたえていない記述が何カ所も見つかる点が挙げられる。このなにげない一文もそうだ。一体、エラリーのデジャブ(既視感)はどこから来ているのか?この思わせぶりな一文に関する答えは何一つ書かれていない。その後、エラリーはタンジールみかんと「あべこべの犯罪」との関連をあれこれ推理していくが、結局ここで考えたことはすべて徒労に終わる。

 僕ら読者にとって重要なのは、鉢を見た際のエラリーのデジャブだけだ。「チャイナ橙」に至るまでに探偵エラリー・クイーンは、長編だけで7つもの事件を解決してきたが、くだものの鉢が出てくる場面はひとつとしてない(あったらごめんなさい。僕の記憶では存在しません)。

 「チャイナ橙の謎」の出版が1934年。ところが、似た設定でくだものの鉢が出てくる作品が2年前の1932年に書かれている。そう、バーナビー・ロス名義の「Yの悲劇」だ。当然ながら、この時点で「Yの悲劇」はエラリー・クイーンが書いたものとは公表されていなかったはずだから、本作でのエラリーのデジャブは、誰ひとり気づくことなく見過ごされてきた。

 ハッター家の女主人の寝室にあったくだものの鉢には、何があっただろう。タンジールみかんがなかったことは確かだ。「なし」は明らかにあった。当たり前だ。「いたんだ西洋なし」に注射器で毒物が注入されていたのだから。
 (さかさになったはちから)出てきたくだものをじっとながめた。なしと、りんごと、ぶどうと…。(P.76)

 りんごとぶどう。ハッター家の鉢にもあっただろうか?

 エラリーがデジャブの中に見たものは、前年(1933年)に出版された「最後の事件」で文字通り舞台から退場した人物が、かつて見た光景ではなかっただろうか?

 それとも僕の思いすごしだろうか?
posted by アスラン at 21:19| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。