2009年12月17日

悼む人 天童荒太(2009/7/31読了)

 僕の本棚にだいぶ以前から、この著者の文庫が一冊だけ入っている。たぶん何の気なしに、古本屋の105円コーナーから買い求めたものだろう。以来、何年間も「積ん読」状態で、読めるあてもなくたたずんでいる。気の迷いというよりも、ずっと前から話題にのぼる作家で、特に数年前に渡部篤郎を主役にすえた天童荒太原作のドラマが放映された頃に、ミーハー心をくすぐらされたのだと思う。

 著者の作品を初めて読む事になる本書は、再び僕のミーハー心に火が付いて、図書館に予約して借りたものだ。前回の直木賞で、山本兼一「利休にたずねよ」とダブル受賞となった作品がこれだった。「利休」は受賞記事が載った当日に予約して、ほぼすぐに借りられた。「悼む人」は、そうはいかない。

 世の中には〈流行作家〉と呼ばれる人々がいて、数ある現役の作家の中でも特権的な地位を保ち、作品は出すと必ず売れ、出すと必ず図書館の予約システムに行列ができる。人気のラーメン屋と違って、行列は検索して確かめないと目に見えないので、注意が必要だ。「悼む人」にはそれなりの人数が待ちわびていて、その最後尾におずおずと僕も並んだわけだ。しかも「決してファンというわけではないんですよ」みたいなてらいを持ちつつ、だ。

 不思議なことだが、芥川賞の許容範囲はきわめて狭く、直木賞のそれはきわめて広い。例えば今、一部のアニメファンを喜ばせている「空中ブランコ」の原作のように純度100%のエンターテイメントもあれば、「利休にたずねよ」のような完成度の高い時代小説もある。そして、ひょっとすると芥川賞でもよかったのではないか?と思わせるような本書のような作品もある。

 こういうときに僕としては非常に困る事になる。この回の芥川賞受賞作「ポトストラムの舟」の感想はなんとか書き上げたし、ずいぶん前の「アサッテの人」も作風に感心したのでなんとか書けた。それ以外では、受賞作を読んでいながら何度も書きそびれている。読後になんのきわだった感想も形づくれない場合が多いのだ。それはおそらくは、現実的な具体性の伴う問題や事件を、題材として取り扱っているわけでもなく、ただただストーリーが面白いという理由で受賞しているわけでもないからだ。「だから、何なの?」という感想になってしまうと、やはり受賞作だからといってありがたがって読むなんてばからしいという、実もフタもない事になってしまう。

 では今回の作品はどうだろう。

 「興味深く読めた」というところだろうか。僕としては大変控えめで慎ましい感想だ。おそらくはミステリー作家の肩書きをもつ著者の、おそらくはミステリーと分類されてしかるべき本作は、「ミステリーとしてはおもしろくない」。いや、まったく面白くない。死者が亡くなった場所を〈勝手に〉訪れ、勝手に〈悼む〉。主人公の行為の謎が解けたとき、ミステリー好きの読者が快哉を叫ぶかといえば、そんなことにはならない。

 ではミステリーとして読むべきものではなかったのか?主人公の「悼む」という行為に、人間の死者への視線の本質を問うべきだったのか?それとも作者が巻末で明かしているように、現実に存在したという「悼む人」にインスピレーションを与えられた作者が、「そういう人間が行う行為」に宗教的な理念の祖型をたどりたいと願ったのか。または「悼む人」の行為に、新たな宗教的理念の可能性を見たのか?おそらくは僕も作者も他の人々も同感だろうが、そんな馬鹿な話はない。

 一番あり得べき回答としては、現実の問題として「そういう人間がこの世には存在する」という事の不思議を作者が表現したかった。それがすべてではないだろうか。

 この小説を読んで、最初のうちは「悼む人」の行為の圧倒的なうさんくささに動揺させられながらも、読み進めていくうちに「悼む人」と同行する女性の視点に感情移入するようになり、最後におとずれる静謐な死とともに、自らの心の底に誰しもが持っているであろう〈祈り〉の心が姿を現す。その稀有な時間を過ごせた人は結末で心を揺すぶられるのではないだろうか。「ないだろうか」と人ごとのように言うのは、僕は揺すぶられなかったからだ。

 正直に告白すれば、エンディングのどこかで、死に行く人を目の前にして(もちろん、そういう場面に感情移入して)、涙があふれてきた事は言っておこう。そこが大事なところで、人は、いや日本人はと言い換えてもいいが、目の前で亡くなった人の面影にふれる事で涙を流す。当たり前のことだ。しかし、それを探し求めて泣く人の事は「許す許さない」の問題ではないにしても、許しがたいものを感じてしまう。

 それは、死者から特権的な人々を収奪することだ。死者から奪うものは本来何もない。しかし残された人々は、死者にとって特別な存在であったと信じたい。死者から特権性を付与された人々が「悼む」のだ。ところが、無差別に死者を「悼む人」の存在は、残された人々の特権性を無意識に奪い去ってしまう。特定の死者を特別な思いで〈悼みつづける人たち〉にとっては、これほど痛ましい事はないのではないだろうか。
posted by アスラン at 19:34| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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