2009年12月15日

ハリー・ポッターと賢者の石 J.K.ローリング(2009/6/30読了,再々々読)


 最終巻を読み終わった直後の生々しさが残っている時期に読み直したせいか、通して最初から読むことの意味がこれまでとは決定的に変わってしまったように感じた。もう、初めて第一巻を読んだときのように、とびきり愉快で掛け値なしに楽しいファンタジーだとは言えなくなってしまった。なぜならば、ハリーポッターは、一つの大きな物語あるいは、大げさに言えば伝説になってしまったからだ。

 そうなるとすべては、結末を迎えたドラマの中を駆けめぐった数多の登場人物たちに訪れる哀しさ、そして安らぎとが表裏一体となって、僕の胸に迫ってくる。それをなんとか押さえ込みながら読んでいくと、今度は著者が最終刊のドラマをいつから用意していたかが透けて見えてきて、その周到さにあらためて感心してしまう。

 たとえば、ダイアゴン横丁で杖職人のオリバンダーに杖を作ってもらう場面。もちろんこの場面はあからさまな伏線に満ちているが、僕の気になるところは、ハリーと「例のあの人」との不思議な共通点をいたずらに「偉大」だともちあげるオリバンダー老人を、ハリー自身が「あまり好きになれない気がした」と的確に表現している点だ。

 この心理描写は、今から思えば、その後のオリバンダーの果たす役割をほのめかす伏線というだけでなく、ハリーを含めた敵味方すべての登場人物たちの運命を封じ込めた言葉に思えてくる。

 さらに同様な場面に気づかされる。自らの父母の姿をかいま見せる「みぞの鏡」に通いつめて、ダンブルドア校長にたしなめられるところで、ハリーは「先生には何がみえるんですか?」と問い返す。ダンブルドアは「厚手の靴下がみえる」と答える。このちぐはぐな回答は、ダンブルドアの風変わりなユーモア精神を象徴する言葉だったはずだが、最終刊「死の秘宝」でハリー自身が謎解きしたように、今ではダンブルドアの抱えこんだ複雑な人生を示唆する、きわめて含蓄のある言葉と変貌する。

 ことほどさように、あの爽快だった物語は最初から悲劇という名の運命に隈取られていた事を、読者は改めて知ることになるのだ。当然ながら僕らは次作で、今ではあの騒々しさが懐かしい屋敷しもべ妖怪と再会する事になるだろう。
posted by アスラン at 19:35| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/135714606
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。