2009年12月14日

鉄鼠の檻 京極夏彦(2009/6/28読了,再読)

 これも再読(三読)だ。再読してブログの読了リストに加え、感想をまとめて記事にして掲載するたびに、困ることがある。それは京極堂シリーズのタイトルだ。漢字が書けないのだ。今や、たいていの難読漢字でもATOKなどのIME(かな漢字変換機能)が変換してくれるのだが、このシリーズのタイトルだけはムリだ。

 「ウブメの夏」「モウリョウのハコ」などと書いておいて、あとで正しい漢字を埋める。PCで入力するならば、図書館や書店の検索サイトで出てきたタイトルをコピペすればいいが、携帯だとカタカナしておいて放置する。それでも後々の事を考えて、「モウリョウ」は「チミモウリョウ」と入力すれば「魑魅魍魎」と変換するので、後ろ2文字を残して「魍魎」となることは学習した。「魑魅」の方を消し忘れさえしなければOKだ。ただし、「ハコ」の方は困る。携帯だけでなくPCのIMEでも「匣」は出てこない。万人が思い浮かべる「箱」あるいは「函」は候補にあるが、「匣」はない。結局はさきほどのコピペ方式に頼るしかない。

 それでも「匣」はどんな漢字かを思い出せるから、まだましだ。なんとでもやりようがある。「ジョロウグモの理(ことわり)」は、通常使われる「女郎蜘蛛」とは似ても似つかない表記だったし、「オンモラキの瑕」に至っては全く思い出せない。

 そこへいくと、本書のタイトルのなんと安心することか。「テッソ」も「オリ」も普通に想像した通りの漢字が当てられている。「テッソ」は要するに「テツネズミ」だ。「オリ」も「匣」と違って間違えようがない。しかも文庫版の表紙にデザインされている妖怪「鉄鼠」は、なんと滑稽で愛敬のあることだろう。妖怪といってもねずみにすぎない。「ネズミ男」の例を引くまでもなく、間が抜けている事この上ない。

 そして妖怪の容貌同様に、ここで起る事件の様相も、結末も、端から見ればバカバカしいものだ。例えば今、終盤の展開をざっと斜め読みして犯人の動機の告白だけを取り出してみると、「そんな馬鹿な事があるか」という警察側の言葉だけが空回りしている。しかし、毎度の事ではあるが、その「バカバカしい動機」の一言から遡って、1300頁を越える〈不条理の大伽藍〉を作り上げる著者の筆力に素直に圧倒されるべきだ。なんと言っても、最近の分冊版では味わえない箱本の迫力は、本作で頂点を極めるからだ。

 この馬鹿馬鹿しさ、荒唐無稽さは、もちろん「禅」という究極の思想を題材にしたからこそ現れる必然だ。「禅」は西洋人が生かじりで東洋思想や理念を理解しようとして分かるものではない。いや、そもそも「分かる」ものではない。禅は言葉で考えたり理解したりするものではないからだ。と、そこまでは東洋人の端くれである、そして腐っても日本人である僕もわかる。でも、それ以上の深入りは出来ないのが「禅」の難しさなのだ。

 しかし、この思想的なデッドエンドの風景を僕は最近どこかで見てきたはずだ。それは「表層」だとか「外部」だとか言う言葉で、まことしやかに「禅」の理念だけを言葉で回収しようとしたかのような、ポストモダン思想においてだ。だから、禅を理解しようと努める言葉は空しい。空しくならざるをえない事を80年代の思想的ムーブメントは体現したと言ってもいいかもしれない。

 そこでどうすればいいかと言えば、このような形で最上のエンタテイメントとして「禅の風景」を概括してくれる作品に出会えた事を、僕ら本好きは素直に喜ぶべきなのだ。前にも言ったが、記号論の大家でもあるエンベルト・エーコが書いた大作「薔薇の名前」も、禅同様にキリスト教にかつて出現した究極のニヒリズムがテーマだった。あれも、おそらくは犯人の動機を斜め読みすれば「そんな馬鹿な事が…」と言いかねない「馬鹿馬鹿しさ」が感じられたはずだ。

 しかし、「薔薇の名前」が、最初から最後まで徹底的に「荒唐無稽」と笑い飛ばす事のできないニヒリズムを描いたのに対して、「鉄鼠の檻」では「禅」の難しさにただ畏まるのではなく、「滑稽」と並置することで禅の面白さを際だたせてくれた。これに宗教論の学者の解説を付けるのは無粋と言うものだろう。
posted by アスラン at 19:56| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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