2009年12月08日

狂骨の夢 京極夏彦(2009/6/22読了,再読)

 三読あるいは四読か。前に読んだ感想でも書いたが、この作品からミステリーらしい体裁が整うことになる。それ以前は、例えば「姑獲鳥の夏」のトリックは通常のミステリーの範疇では認めがたい。ただし、よくよく読み込むと、何故事件はおきたかという状況のパズルは、ぴったりと最後のピースがはまるところで全体像が浮き上がるように仕組まれている。こでは見事だ。そこにこそ「姑獲鳥」の良さがあると再読して分かった。

 次作「魍魎の匣」は、当然ながら乱歩の「押絵と旅する男」を念頭に置かねば読めない作品である。ただ、これほどの読者の支持を集めたのは、少女(=女子高生)のアンビバレントな内面を、曖昧な境界に棲む〈魍魎〉の存在と重ね合わせて描いた、作家の力量が前面に現れたゆえの事だろう。「みっしり」というキーワードも、オカルトとしての雰囲気を十分に読者に託していて、それこそ乱歩と同質の狂気三昧が堪能できる作品だった。

 さて、では三作目ではどのような展開が待ち受けているか。

 神奈川の逗子海岸沿いで暮らす、孤独な女の独白から物語は始まる。海鳴りがする。イヤだ、イヤだ。海鳴りなど嫌いだという心の声がする。目が覚める。そして夢に見た記憶が自分のものではない誰かの記憶であると気づかされる。だが、一体何故?

 サイコスリラーとしても非常に見通しのいい演出がなされると同時に、きちんとエンディングにミステリーらしいトリックと謎解きが用意されている。それでいて、本質的な妖怪の物語の部分も、いつものように荒唐無稽な展開(骸骨から次第に肉がついて復顔していく死体」を折り込んでいく。シリーズ中、もっともバランスがとれている作品と言える。

 そのバランスの良さを決定づけているのは、終盤で京極堂が関係者全員を集めて謎解きする〈グランドホテル形式〉を、著者が踏襲しているからに違いない。本人は探偵ではない、憑き物落としだと、自らの役回りを説明するのが、このシリーズでのお約束だが、こと、この作品では間違いなく京極堂が探偵としての役割を果たしている。

 その上、毎回救いようのない物語と、救われない人物たちを描きながら、本作のエンディングには明らかに救いがある。その後、たびたび犯人たちから京極堂の弱点として「ヒューマニズム」があげつらわれるが、京極堂本人がなんと強弁しようとも、京極堂には昔ながらの探偵が抱えるヒューマニストの一面が感じられる。ヒューマニズムとニヒリズムとの境界で、そしらぬ顔で本に没頭する際に、僕ら読者は京極堂の隠しようのない素顔を読み取る。

 ひょっとして、関口を〈友人〉ではなく〈知人〉と言い続ける京極堂のこだわりには、このヒューマニズムが関係しているのかもしれない。

 関口は、言ってみればニヒリズムの権化のような存在だ。もし、友情の名の下に優しく手をさしのべれば、本人だけでなく周囲の者までもが、ニヒリズムの深淵に呑み込まれる。それを十分に理解している京極は、自らの一つのありうべき姿を関口に見る。そして無関心を装っているのだ。

 そこには、いつでも境界にたたずんで、書物という護符に守られながら世間と関わることなく超然と生きようとする(あるいは死んでいこうとする)、彼の処世術が見える。だが、しかし、周囲では一向に彼を安んじておこうとはしないのだ。
posted by アスラン at 12:57| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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