2009年12月07日

魍魎の匣 京極夏彦(2008/10/20読了,再読)

 村上春樹の「1Q84」がようやく借りられて何をおいても読んだりして、次々と図書館の本を優先しているうちに、また〈京極堂シリーズ〉読破の計画が停滞している。「邪魅の雫」に到達するには、すでに長編は全部すませてあり、あとはスピンオフのオムニバス作品をたったの3冊ほど読むだけだ。ついでに書きそびれていた書評を書き上げてしまいたい。

 「魍魎」から書かねばならないと気づいて前回の再読日を調べたら、なんと丸一年たっていた。本当だろうか。いやどうも本当らしい。その1冊前に「姑獲鳥の夏」を読了しているから確かだ。「姑獲鳥」の書評で、テレビアニメ版「魍魎」が放送されている話をしている。そう言えば秋の番組だった。では、一年前に読んだ本の話をこれからすることになるわけだ。

 せっかく、最新作「邪魅の雫」までひとつながりとなる、京極堂シリーズが築き上げる曼陀羅図を実感しようと始めた固め読みのはずだったのに、こんなに時間がかかっては元も子もないではないか。再び眠りかけていた箱本の一冊を鞄に放り込んで、電車の中で、まさにこの書評を書き出している。あの長さの本だから、もういちど中身をあらためていると、最初から読み直しになりそうで怖い。

 さて、以前読んだときに即座に思ったのは、この作品は乱歩の「押絵と旅する男」からインスピレーションを与えられているということだった。そもそも乱歩の作品では「押絵」が、絵でありながら生身の女性の生々しさを持ち合わせている。それを嬉々として大切に抱き抱えている男の狂気が語られる作品だ。

 ただし、あの作品のもっとも印象深いところは、男の「狂気」そのものではない。たしか、浅草にかつてあったという〈十二階〉というタワーから地上を覗き見てみると、その怪しげな男と押し絵がはっきりと見えたという語り手の場面があったはずだ。そのときに僕が感じた、妙に遠近感が崩れた乱歩特有の筆致が怖かった。

 つまり、「はっきりと見えている」と書かれていながら、周辺は遠近が狂ったかのようにあいまいではっきりとしない。マージナルな妖怪〈魍魎〉が徘徊しているかのようだ。ところで、この話はあくまで僕のうろおぼえの回想なので、こんなシーンが「押し絵」にはないかもしれない。ひょっとしたら「パノラマ島奇談」に描かれたジオラマの方と混同しているかもしれない。それはさしたる問題ではない。つまりは乱歩の書き方にそういう境界が不分明になる妖しいところが存在するのだ。「虚覚え」とはよく言ったものだ。まさに「虚(うろ)」こそが、魍魎が跋扈する証しだ。

 そして、近代的な遠近法(パースペクティブ)を用いて「魍魎」という妖怪に分かりやすい形を与えたのが、この作品であり、著者の京極夏彦である。だからこそ、曖昧な存在である「魍魎」に対しては、主人公の京極堂の歯切れがいたって悪い。言葉を尽くして策を弄する事で憑き物を落とす、いわばカウンセリングを手法とする京極堂の手口というのは、安倍晴明から連なる陰陽道などを基本とする日本古来の手法でありながら、近代的な知の体系と折り合いをつけた、きわめて明解な論理と倫理にのっとったものだからだ。そこに「曖昧さ」は許されない。あれば、逆に自らの言葉の「魔」に取り込まれてしまうだろう。

 そのために、おそらくは乱歩が描写を手控えた「人体を機械に見立てる」あるいは「箱の中の機械を人体に見立てる」という、グロテスクでありながら滑稽なモチーフに、著者は徹底的にこだわり、克明に描き出す。しかし、それ自体がいかにリアルに描かれようと、実もフタもないモチーフであることは否めない。

 だからだろう。乱歩の〈男〉が、結局は「魍魎」という作品でも勝利することを、著者は忘れる事なく最後にきちんと描いている。「人であることをやめたとき」、乱歩の〈旅する男〉は出現する。きわめて浅ましい感情でありながら、人間の根源にまで遡る原初的な意識の余韻が感じられるラストとなった。
posted by アスラン at 12:53| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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