2009年11月09日

ぼくらの時代 栗本薫(2009/6/16読了)

 彼女はこの作品で江戸川乱歩賞をとり、ミステリー作家としてデビューした。一方で、中島梓というペンネームで、かなり理論武装した批評家としても作品を発表している。それをまとめたのが「文学の輪郭」(講談社文庫)だ。お弔いの意味を込めて、借りて読んでみた。しかし、そこに書かれていることにどうしても共感できない。いや、共感というものではなく、テーマを共有できないといった方がいいのか。

 どちらかというと、この本で彼女が書きたかったことは、実作者として文章を書くためには「文学とは何か」という普遍的な難問と格闘しなければならず、その答えがでないうちには自分の今書こうとしているものが、果たしてなんなのかを見定めることはできないという、一種の「作家としてのジレンマ」だと感じた。そうである以上、もうこれは作家自身で解決してもらうしかすべはない。しかし彼女は周知のように、自分でその答えを見つけたか、難題を棚上げしたか、いずれにしても書きに書きまくって、ミステリー・SF・エッセイ・評論と、八面六臂の活躍をし、そして亡くなった。

 SF好きにならなかった僕でも、本書ぐらいは読んでいてもよさそうなものだが、実は読んでいない。そもそも乱歩賞にも関心がなかったのだ。だから乱歩賞受賞作を数えるほどしか読んでいないが、本書にしたって「アルキメデスは手を汚さない」とずっと勘違いしていたようだ。

 しかし、新装版の文庫の巻末に付された、赤川次郎と若き日の著者との対談で、やはり僕のようなそこつ者の勘違いをたしなめるかのように、赤川は「アルキメデスは…」が若者(大学生)を主役に据えたミステリーであるにしても書き手の年齢からして若者の言葉で書かれてはいないと分析している。そして、本書は正真正銘「若いジェネレーションが書いた青春文学たりえている」と、著者にエールを送っている。

 赤川次郎の言葉通りだと多少なりとも僕が共感できるのは、70年代当時の〈軽薄なシラケ世代〉の若者の言動や風俗そのものが、まさに文章に封じ込められていたからだ。同時代の若者の一人であった著者が、シラケ世代の言い分を代弁するかのようにクールに書き上げたのが本書だと言える。当時の世相を少しでも知る世代にとっては、戦後に一度は解体した日本社会の開放感と、これからやってこようとする管理社会との狭間で、あえぐように呼吸せざるえなかった若者たちの閉塞感を感受する事はできるかもしれないが、今の若い世代が果たして共感できるかどうか、それは正直わからない。僕も歳をとってしまったからだ。

 しかし、僕の感想を言えば、ちょうど兄の世代、あるいは兄のさらに一つ前の世代にあたる彼らのシラケを批判的な目で見つめ続けたのが、僕らネクストジェネレーションだった。だからこそ、本書をミステリーではなく一つの青春物語として読むと、どことなく郷愁を感じる自分と空疎な思いをする自分とが同居している。

 ミステリーとして読むと、これはもう滑稽なほどに詰まらない。いや、何がどうなっているのか、とっちらかっていて分からない。正直な感想を言えば、当時これが乱歩賞を受賞した理由は、70年代の風俗を生き生きと描いてミステリーというジャンルに封じ込めた事が、かなり好意的に評価されたのではないだろうか。それ以上でもそれ以下でもない、そんな作品だ。
posted by アスラン at 02:28| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。