「本の雑誌」最新号を書店でパラパラと立ち読みしたら、キムラ弁護士がコラムを書いていた。それはいつものことなのだけれど、なんとミステリーの書評だった。確かこの人は本を読まない人じゃなかったっけ?と思ったら、有名なミステリーに噛みついている文章だった。弁護士という専門家が、そんな身も蓋もない事をしてどうするんだとは思ったが、未読のミステリーに関する毒舌だったので、興味なくさっさととばした。
次に、いわゆる〈本の本〉の棚を眺めていたら、まさにシンクロニシティではないか。本書が目にとまった。すでに一冊の本になるまでにミステリーに噛みつき続けてきたようだ。目次を読むと、あるわあるわ、本当に名作と言われる作品を多数とりあげている。クリスティは「そして誰もいなくなった」「オリエント急行殺人事件」に噛みつき、なんとクイーンの「Xの悲劇」にまで噛みついている。
さすがにちょっと惹かれてクイーンのページを読むと、クイーンに噛みつく事がミステリーファンにとってはどんなにおおごとなのかを知らぬ顔で「どうやらたいへんなことらしい」と半ば呆れてみせる。肝心の推理については、本に書かれた事だけで犯人を特定するのは、「専門家(警察や司法関係者)と言えどもムリ」と、名探偵の推理を一蹴し、さらには犯人のメイントリック(ネタバレになるので、詳しくは書かない)を警察は何故見破れないのか、そんなことはあり得ないと切り捨てる。
べつに僕の好きなクイーン作品や、クリスティの中で僕のお気に入りの「そして誰もいなくなった」に噛みついたところで、人それぞれの意見なのだから気にするまでもない。ただ、はじめから「ケンカを売る」ために書いている姿勢には感心しない。本に愛情がない以上は、最初から読まねばいいし、読んだところで書かねばいいのだ。
僕がかなり違和感を感じたのは、ミステリーの世界と現実の捜査とを比較して、あれはおかしい、これはだめだと貶めているところだ。専門家の目から見れば、ミステリーのストーリー展開はありえない事だらけだろう。しかし、そもそもが現実ではありえない事件を扱う点にミステリーファンの関心があるわけだから、「解決があり得ない」などと作品の一部分を拡大してあら探しする事に意味があるとは思えない。
「事実は小説より奇なり」という事も世間にはあるだろうが、たいていの事件では、あり得ることがおこり、あり得る捜査が行われ、あり得る犯人、あり得る動機、あり得る犯行が見出されるだけだ。そこを基準にして専門家(弁護士)が「(ミステリーは)あり得ない」と噛みつくことに、僕は「(そんなケンカの売り方は)あり得ない」と噛みつくことになる。
社会派と言われた松本清張や、その系譜に連なる作家(たとえば高村薫など)の作品にしたところで、どんなに「あり得る事件」を緻密に書き込んでいたとしても、最後まで「あり得る」で通したらミステリーとしては詰まらない。どこかで読者があっと驚くような「あり得ない」が隠されていてこそ、ミステリーを読む甲斐があるというものだ。
とは言え、本書のように専門家から理路整然とミステリーの欠点をあげつらわれると、こちらの分が悪い。なんとか気持ちが落ち着ける言い分はないものかとずっと考えていたら、まさにそれにふさわしい文章を見つけてしまった。「赤い館の秘密」のA.A.ミルンの冒頭の一節だ。ミルンは専門(児童文学)外のミステリーを書くにあたって、自分の好みを開陳している。
探偵そのものについていえば、まず第一に、探偵はしろうと探偵であって貰いたい。…(中略)…科学的な探偵と称するあの顕微鏡を持った男などさっさと消えうせてしまえ!世の有名な先生が殺人犯の残して行ったこまかいゴミを検査して、犯人は醸造所と製粉所との間に住んでいるという判断をくだしたにしても、いったいなにほどのことがあるというのか?…それがどれだけ面白いというのか?(A.A.ミルン「赤い館の秘密」(創元推理文庫))
そうです。名探偵ポアロやドルリー・レーンが、あなたのようになって、あなたのように事件に噛みついていたら、どれほど面白いと言うのでしょうか、キムラさん。あー、すっきりした。
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