最近、自分の文章がダラダラと長くなってきて、一文一文を行きつ戻りつして推敲しながら書く事が少なくなった。推敲して完成された文章など、ブログには相応しくないという、気持ちの切り替えが働いた事もあるが、それ以上に、推敲してもたかだか僕のようなしろうとが書いた文章だから、これ以上よくなるわけでもないというあきらめでもあるし、ひらきなおりでもある。
そうすると気楽なもので、ダラダラではあるが今さっき書いた文の細部に責任をとる必要がないので、魔法のようにスラスラと書ける。スラスラと書き進めると、もしかしたら自分は文才があるのではないかと「勘違い」してしまう。椎名誠の文章とは、その「勘違い」を才能として飼い慣らした稀有の人の文章という
気がする。
昔、吉本隆明が何かの対談で、椎名誠の事を「自殺することを禁じられた太宰治」ではないかと言っていたのをずっと気に掛けていた。さすがに思いつきで言ったひとことに過ぎないだろうと侮っていたのだが、今、太宰の初期作品集「晩年」をたまたま読んでいて、なるほど、この「前へ前へ」と読書をスルスルと押し進めてくれる快い文体は、性格の「陰と陽」という違いはあるにしても、何か共通したものを素地として持っているのかもしれないと感じさせる。
とにかく結構な厚みがあって、購入してからだいぶ寝かせたにもかかわらず、最初のひとまとまりを読めたら、あとはところてんのようにひとつながりで全部読むまで押し出された。それにしても、さきほど椎名の文章には〈陽〉があると言ったが、実はサラリーマンとしてうまく世渡りしている自分自身にどこか鬱屈しているところを、この作品では繰り返し繰り返し描いている。鬱屈があるのになかなか文筆業一本に思いきったりはしない。これは漱石が、大学を離れて朝日新聞社に飛び込んだ事情にいろいろがあったのとはまた違う「悩ましさ」がある。
本作では、サラリーマン・椎名誠が作家・椎名誠になるところまでを描くのではなく、「本の雑誌」の編集に自らの仕事を絞り込んでいくまでを描いている。いまだに様々な鬱屈から解放されないというところが、著者の書きたい事の中心にある。それは、「片づくことなど何一つない」と自伝的小説「道草」で言い切って自らの生を全うした漱石と、「片づくことのないグダグダ」を心中という形で終わらせた太宰治との間で、言わば〈生き方のコラボレーション〉を果たした椎名誠ならではの処世術と言える。
椎名誠は「片づくことのないグダグダをひたすらグダグダと書き続ける」という道を選んだ。彼の前に道はなく、彼の後ろに続く者はいない。孤高の作家である。
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2009年10月20日
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