2009年08月02日

おやすみ、こわい夢を見ないように 角田光代(2009/5/30読了)

 つくづく短編の名手だなぁと感心してしまう。読むたびに味わいもさまざまなだけでなくテーマも違う。おそらくは身の回りで感じた身の丈以上の事を書こうとはしていないにもかかわらず、器用なためになんでも書けてしまうのかもしれない。

 吉本ばななと江國香織も川上弘美も、どこから切っても金太郎飴のように個性的な本人の顔をのぞかせるというのに、まだまだ角田道代は馬脚をあらわしていない。というか素顔を見せていないという感じがする。それが良いことなのか悪いことなのか、僕にはわからない。このまま角田光代という作家は器用貧乏で消費されてしまう可能性もあるからだ。

 冒頭の一篇からガツンとくる。久々に東京にいた頃の友人をたずねて、夫の実家がある田舎暮らしの憂さを晴らしにきた主人公が、バスの後部座席から聞こえてきた「私、これから人を殺しにいくんです」という言葉に惹かれて、ついには自分がどうしてもゆるせなかった小学校の担任をたずねて、老人病院に行き着く。そこには、かつては殺したいほど憎んだ女の面影はすでになく、ただ憐れな老人の姿しかない。怖いのは、あのバスの後部から聞こえた声が自分の心の声ではなかったかというおぞましさと、日々の暮らしに潜む魔のとらえどころのない魅力だ。彼女は傍目には大人げないが、惚けてしまった老女にむかって、かつては言えなかった思いを言い放ち、脅して帰っていく。それは憂さを晴らす事になったのだろうか。そんな事は

 それよりも、東京に送り出して安穏としている夫が、帰りが遅いと心配してかけてきた電話に、出ないで焦らす事の方が、生きるという手応えをはねかえしてくれるのだと、ようやく彼女は気づく。いや気づくというのは僕の勝手な創作だった。角田光代の底意地の悪さは、決して物語を「めでたし、めでたし」と終わらせたり、わかりのいい結末に落ち着ける事をしないところにある。すべて宙づりのままで、ありうる現実の中に読者を放り出す。

 漱石は、自伝的小説「道草」のエンディングで、主人公に「何一つ、片づくことなんかありはしない」と言わせたように、この短編に出てくる主人公たちは、なにひとつ解決しない。ただ受け流すか、あるいは流されるだけなのだ。それこそが「こわい夢」である事は確かだ。それでも、著者は登場人物になぜかエールを送っている。あるいは読者にエールを送っているのかもしれない。「おやすみ、こわい夢を見ないように、ね」と。

 そうだ。「カーボンコピー」のことを言うのを忘れてた。メールで宛先をToで指定するが、メールの内容に関係する人にも同時に送信しておきたいとき、「あなたへのメールではないが、ご参考に送ります」という意図を込めて、Cc:あるいはBcc:で指定する。これは「カーボンコピー(Carbon Copy)」あるいは「ブラインドカーボンコピー(Blind Carbon Copy)」の略号である事は間違いないが、僕ら理系の人間には「Cc(シーシー)」「Bcc(ビーシーシー)」という事はあっても「カーボンコピー」などと言うことはない。

 なぜないかというと、正式名称など誰一人習わないからだ。最初からメールは必須ツールとして存在したし、毎日の業務として、というか技術者のベースとして覚えていくもので、本を読んで覚えたり、講習を受けて学んだりするものではないからだ。この「カーボンコピー」という表現を本書に見かけた瞬間に、あぁ、角田さんは文系の人なんだなぁと、改めて気づかされた。もちろん、だからなんなのだ、という余分なものは何もないのだが、とにかく「カーボンコピー」という表現が僕にあまりに意外で新鮮だった、とだけは言っておこうと思う。
posted by アスラン at 03:27| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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