2009年07月30日

恋文の技術 森見登美彦(2009/5/23読了)

 なんて古風な小説だろう。恋文という題材が古風なだけではない。〈恋文の技術〉を身につけようと時代錯誤かつ自虐的な行為を繰り返していく主人公の男そのものが、なんとも古風だ。彼はゆえあって慣れ親しんだ京都の地を離れ、能登の僻地に追いやられ、厳しい先輩に叱られながら悶々としたやるせない日々を過ごす。人恋しさのあまり、京都にいる知り合いにかたぱっしから手紙を出し、文通三昧の日々に明け暮れる。


 こういう心情は、夏目漱石、森鴎外の例を引くまでもなく、近代文学の主要なテーマであったが、それが最も花開いたのは明治・大正の頃だったのではないか。ところが太平洋戦争を経ることによって戦後から現在に至るまで、人間の軟弱さや自虐さの中に押し殺されてしまったと言っていい。軽薄な風俗が、古風な習慣や古風な心情をも置き去りにして、あっと言う間に追い抜いて言ってしまった。

 今また、著者という逸材がそれを甦らせてくれたわけだ。著者が描く京都は、ありのままの京都ではなく、ワンダーランドとしての「京都」に違いない。そこには「夜は短し歩けよ乙女」で描かれた個性的な登場人物たちも闊歩しているだろう。

 天狗もいるだろうし、バンカラを気取った学生もいるだろう、恋にこがれて人生の意味を見失う思索人もいるだろう。平安の昔から明治・大正そして昭和の時空をやすやすと超えるかのように、森見ワンダーランドの人々は生き生きと京都を闊歩し、怪しげな魔物に怪しむことなく出逢う。そんな魅力的な磁場に包まれる事を約束された「京都」を離れる事を潔しとしない主人公は、古風な手段である恋文を出す事でジタバタする。それは「京都」そのものへの恋文でもあるのだ。

 著者が、太宰や安吾や中島敦などの文章を好む理由がなんとなくわかるような気がした。
posted by アスラン at 12:29| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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