(補足2009/9/21)
ずっとタイトルを「アンネの日記(完全版)」と掲げてきましたが、増補新訂版の方を読んで読後感想を書きました。タイトルを直しましたが、特に本文で辻褄が合わなくなるところはないと思います。
このあまりに有名な日記を僕はこれまでに一度も読んでいない。映画やドキュメンタリーなども数多く作られただろうに、僕は真正面からとりあげたものを見たおぼえがない。だが、第二次世界大戦を世界史の観点から見るのではなく、その時代を生きた一生活者の立場から追体験する素材として、これ以上ない文章であることは確かだ。特にナチス・ドイツの残酷さを描くとき、あるいは人間の本質を見定めようとするとき、避けては通れない事実がこの日記の中に封じ込められているからこそ、現在にいたるまでの無数の文章や映像で「アンネの日記」は引用され続けてきた。読まずともすでに知っているのが「アンネの日記」という存在だ。
ちょっと前に「アンネの日記(増補新訂版)」が出たと思ったら、すぐに「完全版」が出て、当初の版と比べるとかなり厚い一冊になった。これらのヴァリアントの成立事情が本書の冒頭に書かれているが、そもそも最初に世に流通した版を読んでいないので、冒頭の解説はちんぷんかんぷんだった。
もっとも判りにくかったのは、今回新たに発見されて追加された日記の一部(ほんの一部だ)が、日付順に挿入されていない点だ。冒頭でもくどくどと書かれていることだが、そもそも発端を知らない僕には解読不能だったが、本書の終盤に到達する頃にようやく理解がいった。それだけ、この本については世界中で注目されつづけ、今なお物議を醸し続けているという事だろう。
簡単に僕の理解した事をまとめておくとこうなる。
まずアンネは、ナチス・ドイツ統治下のオランダで暮らすユダヤ人一家の次女で、彼らは1941〜1945年までの数年を〈隠れ家〉で秘密の生活を続ける。そのときに書かれたアンネ自身の日記が第一史料であることは言うまでもないが、戦後唯一人生き残ったアンネの父は、日記をそのまま公表せず、一部編集して世に送り出した。それだけならば、まだ話は分かりやすいが、実はアンネ自身が書いた日記そのものが二通りあるという特異な事情が、その後の研究家の頭を悩ませてきた。
アンネは戦争が終わったら自らの日記を公にするつもりだったので、過去の日記を清書を兼ねてリライトしていた。つまり、残されたアンネの2冊目の日記は、明らかに日記小説という言うべきものになった。これはフィクションだという意味ではない。松尾芭蕉の「奥の細道」が東北を旅した事実から創作されている事が確かなように、アンネも隠れ家で息を潜めるように暮らしていた事実は疑いようがない。しかしその暮らしの中で起こった事を、いったん自分の中で消化したのちに、自らの日記を再編集する工程をたどった。そのために、新たに見つかった手つかずの日記と、書き直した日記とは日付や内容に不整合が生じるのは致し方のない事だ。
以前からの流通版では割愛された「性に対する関心」を素直に露わにした箇所から、アンネの早熟が指摘されてきたようだが、全体的には隠れ家に身を寄せる前のアンネがあまりにも幼稚であったので、後年に日記の中の自分を繰り返し客観的に捉え直しては清書していく、もう一人のディレクターとしてのアンネがいて、そこから奇しくも成熟していく一人の早熟な少女という神話ができあがっていったような気がする。
そうでなければ、あまりにも急速に、しかもおあつらえ向きに、予期せぬ死を目前にした少女が〈ある人間としての到達〉を示すなどという事が、果たして本当に可能だろうか、という疑いが頭をもたげてしまうからだ。
この日記はあと数ヶ月で終戦を迎えるという時期に、突然終わりを告げる。密告によりアンネたちは当局によって収容所へと移送されてしまうからだ。彼女が毒ガスで殺害されたわけではなく、収容所生活に馴染まぬうちにチフスにかかって死んでしまったという事実にも、僕は衝撃を受けた。彼女は作家とディレクターという才能を開花する機会を持つ事なく、市井の一女性として〈戦時下の死〉をまっとうしたのだ。




自分の個人的な主張を通したいと思ったら、名前ぐらい名乗ったらどうですか?
まさか、あなたが世の中の「歴史的価値」を決めているわけではないですよね。こちらは、たかが個人的な感想を書いているブロガーに過ぎないのに、何をつまらない戯言をコメントしてくるんですか。