2009年06月17日

老人と海 アーネスト・ヘミングウェイ(2009/5/1読了)

 100ページをやや上回る程度の中編だ。中学生の時に一度読んだ覚えがある。理由はもちろん薄い文庫だったからだ。ひとりの老人が出てくる。漁師だ。しかも老いて、かつてのような力量を見せることができなくなっている。ある日、遠出をして、沖で出くわした大きな魚(めかじき)を格闘の末に釣り上げる。ところが陸にもどるまでにサメにあらかた食い尽くされ、老人の数日にわたる激闘は無為に帰してしまう。老人は自らの行為を後悔するだけでなく、心を通わせた大魚にも済まないと思う。老人を心配する少年が、ようやくに帰ってきた老人をやさしくいたわる。ざっと言ってしまえば、それだけの話だ。

 中学生当時の僕は、この作品にいったいどんなことを感じただろうか。たぶん何も感じなかったに違いない。もちろん、老人が「かわいそうだ」とか、「哀れだ」と同情したかもしれない。あるいは、作中の少年の気持ちに同化して、老人を見くびる人々に対してくやしさといらだたしさを滲ませたかもしれない。いずれにしても、中学生の僕はよく読んだものだ。今の僕は感心してしまう。

 今回あらためて読んでみると、たった100ページの作品を読み切るのに予想以上に手こずった。ジャーナリストが本業であったヘミングウェイの、やや硬質な文章は、老人の一週間ほどの日常を淡々と描いていくのではなく、彼の内面のかなり深いところから出た独白を克明に描いていく。たった一言でもないがしろにできない重みがある。そのせいかストーリーを単に追っていくように流し読みすることは叶わない。絶えず行きつ戻りつするように思索をうながす作品とも言える。

 ヘミングウェイの狙いは、自ら選び取ったとしか思えぬような、誰からも理解されぬ老人の「孤独」にある。著者はそこに躊躇なくまっすぐに切り込んでいく。老人の家には寝に帰るベッドのほかには家族の姿も温かな食卓もない。そして、今や寄る辺なき身の上であるだけでなく、行きぬくために身につけてきた漁師の手際さえも失おうとしている。

 老人を理解し手を差し伸べるのは少年ただ一人である事に、老人はやるせないむなしさを感じる一方で、最後の時を迎えつつある孤独な人生の救いと感じている。そんな彼の心象風景をようやく味わう事ができる。所詮、中学生には少年の視線から老人を見ることはできても、老人の視点に立つことなどできやしなかった。

 この作品は、老いることを人一倍恐れた著者の孤高な理想を描いた文章ではなかっただろうか。そして著者はついに、この老人のようには老いることができなかった。彼は自らの人生に自分で結末をつけてしまった事を、本の扉に書かれた著者紹介で気づいた。「老人と海」こそは、著者ヘミングウェイが、やがては自らにも訪れる〈老い〉というものを正確に捉まえようとしていた時期に、自らのあらぶる魂を鎮めようとした鎮魂の歌だったのだろう。

 テレビもない時代の港町の出来事のようになんとなく読んでしまったが、野球の話題だけは時代の新しさを象徴するかように漁師たちの戯れ言のなかに混じってくる。老人はヤンキースの事に触れたり「大ディマジオ」を懐かしんだりする。「シスラー」の名前がでてきて意表をつかれた。これは、あのイチローが最近達成するまで長きにわたって破られることのなかった最多安打の大記録をもつジョージ・シスラーの息子だった。大シスラーの息子は2人とも大リーガーになった。そんな小さな驚きが、著者の死とともに過去に置き去りにされつつある「老人と海」という作品に新たな光を当ててくれる気がした。

[追記]
 中学一年生の頃に読んだ僕の読後感想は、こうだ。
 ぼくにはちょっとむずかしい感じがした。老人が海を愛し、魚たちをともとみているところで老人は、やさしさがあって、さびしがりやだなと思った。

 なんと、あまりに素直な感想だろう。自分で当時の自分にびっくりさせられた。
posted by アスラン at 12:22| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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