日本のクイーンファンなら誰もが知っている有名な話だ。しかし、当然ではあるが、僕を含めて今の読者にとっては「Xの悲劇」で始まる4部作は最初からクイーンの作品だった。書店を覗けば、初期の国名シリーズと並んでドルリー・レーン物4冊がクイーン作として棚に並んでいる。だから作品冒頭の「読者への公開状」は、今の読者には無意味に等しい。僕自身、最初に読んだときには「へー」と感心したが、それ以上の感慨はなかった。
ところが、有栖川の解説には次のような一節がある。
「ちなみに、本の売れ行きは格段にクイーン名義の方がよかったらしい」
「ちなみに」と書いてそれ以上突っ込んだ説明がないのは残念だが、一クイーンファンにしてみれば、あの一連の傑作が、同時期のクイーン作品をしのぐベストセラーにならなかった事の方が驚きだ。いったい、どのような事情があったのだろう。興味がある。
別の出版社から出たので宣伝が足りなかったのか。それとも精緻な推理を売り物とするところが、先行するクイーンの二番煎じととられたのか。また、あるいは探偵の人気に差があったのか?想像するに、この一番最後ではなかっただろうか。僕が有栖川の一節にひっかったのもこの点だったからだ。
探偵エラリー・クイーンは、大都市ニューヨークを象徴するスポット(病院・デパート・スタジアムなど)で起きる殺人を解決する、理知的で都会的なスマートさを身につけた存在だ。一方、ドルリー・レーンは、かつてはシェークスピアの戯曲の数々を演じてきた名優で、いまはマンハッタンの閑静な邸宅ハムレット荘に隠棲している。耳が聴こえない探偵という設定を、作者はなぜ取り入れたのか。4部作の構想を見越した上で採用したのか、あるいは単なる個性的なキャラクター造りの結果に過ぎないのか。少なくとも〈悲劇〉に寄り添い、ときに事件に介入する特異な探偵役を演出するには、それなりの意義はあったのかもしれない。
しかし探偵の過剰な重々しさは、ニューヨークの至るところで起きる殺人に立ち会わせるには致命的なハードルとなった。本作の殺人現場は、市電や通勤電車、連絡船などの乗り物づくしだが、大都市の猥雑さをもっとも活写する市電に探偵の姿はない。今の日本にも通用する都会の喧噪は、残念ながらドルリー・レーンには似つかわしくない。
しかも、きわめて難解な事件であると毎回謳っておきながら、数日あるいは1、2週間のうちに解決してしまう都会派探偵エラリーの軽やかさと比べると、事件の合間に自らの舞台の用意にうつつを抜かして警察関係者をイライラさせる探偵など、はなから都会の探偵には向いていない。『エラリー・クイーン・パーフェクトガイド』で「レーンはリストラされたか?」という魅力的なコラムが載っていたが、うなずける推測だ。
たとえ4部作で終わらせなくても、ハムレット荘に落ち着いているうちは、いずれ出番がなくなる。その証拠に「Xの悲劇」で盛んに舞台俳優らしい大仰なセリフを吐き、メーキャップを駆使して変装し、普段からケープやつば付きの大きな帽子という劇の登場人物さながらの風貌だったのが、次作「Yの悲劇」では、そのほとんどの意匠をそぎ落としてしまった。
もちろん、シェークスピア俳優でもある老いた探偵というキャラクターを丸飲みしなくても、本作の推理の醍醐味は折り紙付きだ。クイーンらしい推理を味わうだけならば、必然性が感じられない馬鹿げた変装につきあう必要などないではないか。
クイーンの愛好家たちが集うエラリークイーンファンクラブの会員投票によるランキングでは「Xの悲劇」が堂々の一位だそうだ。なぜ「Yの悲劇」ではないのか?などとは、僕も長くクイーンファンをやってきているので問わない。でも、なぜ「X」なのか、と問うことはできるだろう。「X」の探偵が、ルパンか二十面相のように変装するケレンに、かつての僕は減点をつけた。今回の新訳でそこらへんの印象が薄まるかと思ったのだが、やはり何とも古めかしく感じた。
一方で、終盤に延々と続く謎解きは全盛期のクイーンらしいと言えば確かにそうなのだが、今読むと少々くどい。論理的な演繹だけでなく、心理的な補足まで加えて説明しつくすレーンの手際は、まさに老獪な名優の重厚な演技そのものだ。圧倒されると同時に退屈でもある。だとすると、「Yの悲劇」のクライマックスの簡潔さは、まさに僕の不満に対する答えになっていると言えないだろうか。
もうひとつ言っておきたい事がある。あまり言及する人がいないようだが、「1932年の奇跡」についてだ。この年に、クイーンはバーナビー・ロス名義の「Xの悲劇」「Yの悲劇」を含めて「ギリシア棺の謎」「エジプト十字架の謎」の4作品を書き上げている。いずれも初期の傑作であると同時に、クイーンの長いキャリアのうちでも代表作ばかりと言っていい。その事にクイーンのファンは驚かされる。また、ファンになって日の浅い新しい読者にも「驚くべきことなんだよ」と半ば教え諭すような素振りが、有栖川を初めとする心酔者たちの口吻に表れている。
「エジプト」と「X」を並べてみると、メインのトリックに共通点がある事に気づく。ああ、そうか。この2作は「シャム双子」の関係にあるのか。おそらく4作が同じ年に誕生した土壌としては、アイディアの使い回しがあったのではないだろうか。舞台背景や人間関係は後回しにしても、トリックをどのように構成するか、どのように手がかりを与えて、探偵にどう解決させるか。同じトリックでもいくつものバリエーションが著者の頭脳に浮かんだに違いない。そして捨てがたい組み合わせがいくつか残ったはずだ。それが名義違いの〈双子〉を生んだのかもしれない。
また「Yの悲劇」について言うと、先行するヴァンダインの代表作「グリーン家殺人事件」の存在がなければ、あれほどの完璧な作品はできなかったに違いない。クイーンと言えども書けなかったと、あえて指摘しておこう。
僕は「1932年の奇跡」を貶めるつもりはない。一愛好家としては感嘆せざるを得ない。と同時に「奇跡」という言葉で終わらせたくない。何故クイーンは、あんな傑作ばかりを一年のうちに4作も生み出すことができたのか。その真実の生々しいドキュメントを知りたいのだ。



