2009年01月15日

樽 F・W・クロフツ(2008/11/12読了)

 クロフツの作品をこの歳になるまで一つも読んでこなかった。いや、正確に言うと列車を舞台にした短編をオムニバスの短編集で読んだ事があるらしいが、内容は記憶していない。とにかくそれだけだ。本格ミステリーの古典に位置づけられる本作ですら、ずっと避けてきた。どうしても触手が伸びなかったのだ。

 その理由ははっきりしている。時刻表のトリックやアリバイ崩しの本格ミステリーに魅力を感じなかったのだ。おそらくクロフツは退屈だという定評も手伝っていたのかもしれない。なにより「樽」だとか「製材所の秘密」「ポンスン事件」といったタイトルの地味さはどうしたことだろう。これでは読むなと言っているようなものではないか。

 今回本作を読む気になったきっかけは、やはり新訳がでたからだ。と言っても「樽」の新訳(ハヤカワ文庫)が出たのが2005年、続く「クロイドン発12時30分」(同文庫)が出版されたのが2006年だ。「樽」は店頭に出てすぐに買ったはずだから、思い切り寝かせてしまった事になる。

 その後、やはり遅ればせながら本作の影響の元に書かれた鮎川哲也の「黒いトランク」を読んだ。面白い事は面白かったが、この時刻表トリックというジャンルは、よほどのパズル好きでないと最後までつきあうのは大変だという感想をもった。当分はこの手の本はいいかなぁと思うと、引き続いて時刻表トリックの本家であるクロフツの作品を読む気にはならなかった。

 長く〈食わず嫌い〉の時を経てようやく本作を読んだ。やはり食わず嫌いは良くないと改めて実感した次第だ。なにより「クロフツ作品はタイトル同様に内容が地味、時刻表トリック・アリバイ崩しのストーリーが退屈」という前評判はあてにならなかった。面白いのだ。

 クロフツの作品の醍醐味は、まず文体にあるように思う。一般に同時期にジャンルが確立した近代的探偵主役の本格ミステリーと、暴力とセックスでリアルな人間の内面を浮き彫りにしたハードボイルドとの一番の違いは文体だ。この2つを比べた時に、文体のシャープさでハードボイルドに一日の長がある。しかしクロフツの文章には、本格ミステリーの黄金期を支えたカー・クイーン・クリスティなどにはないクールさが感じられる。文体だけをとってみればハードボイルドの作家たちに近いとさえ言える。

 その一方で、本作はその後のミステリーが探偵小説から警察小説へと移行していく先駆け的作品だとも言える。本作でも、前半で活躍する探偵は警察の刑事たちである。それも樽の移動に伴い、イギリスとフランスの刑事が合同で捜査を進める。そしてある人物を逮捕するのだが、当然ながら真犯人は別にいて、後半でそれを探し出すのは被告の弁護士に雇われた私立探偵という展開になる。ここで事件関係者たちに匹敵するくらいに警察関係者が入れ替わり立ち替わり描かれていて、ストーリーに深みがでている。これは現代で言えば、ジェフリー・ディーバーのリンカーン・ライムシリーズや、高村薫の一連の警察小説と変わりない。典型的な人間群像劇なのだ。

 群像劇のなにが面白いかと言えば、こんなところだ。二カ国合同で捜査に当たる担当刑事二人は捜査の合間にお気に入りの川のほとりで昼食をとり、夜は夜で鋭気を養うために美味しいと評判の店でディナーを楽しむ。殺人犯を追う刑事にしては悠長すぎるとも言えなくもないが、超然的な探偵とは違って捜査をする側の人間味が出ていて、一本調子になりがちな捜査に彩りを添えている。これを一歩も二歩も進めると日本で興隆を極めたご当地タイアップのグルメ・温泉・名所巡りがそろったサスペンスドラマになるだろう。

 一番の急所である〈樽の移動〉は、列車と船とトラックを組み合わせた、いわゆる時刻表トリックの典型だ。しかし、鮎川の「黒いトランク」や松本清張の「点と線」が詳細な地図と時刻表を掲載して読者の探偵趣味を煽ったのと比べると、本作の趣向はまことにそっけない。本国の読者にはおなじみの駅や港や路線なのかもしれないが、遠い異国に暮らす僕ら読者には、あるいは現代の読者には今一つ樽の移動経路とそれに付随する時間の感覚が実感しにくい。おそらく著者も出版社も本作が国際的な名声を勝ち取るとは予想してなかったに違いない。

 僕などは樽の移動トリックをまじめに追っていく事を断念した。その点が残念と言えば残念だが、それゆえに本作が本格ミステリーの古典的地位を獲得したのは時刻表トリックやアリバイ崩しの妙味だけではない事を証明しているように思う。ここには現代のミステリーの一つの流れに至る源流としての輝きがあるのだ。

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posted by アスラン at 19:32| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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