2008年10月20日

姑獲鳥の夏 京極夏彦(2008/10/14読了、再読)

 「魍魎の匣」がアニメ化されて放送中だ。あんな内容がアニメになるんだろうかとちょっと驚いたが、深夜枠なのでかまわないのだろう。では、なぜシリーズ第一作の本作から順番にアニメ化しないのだろう。それはおのずとアニメの方でシリーズ化する予定がないと言っているに等しいように思う。ただ、それ以外にも、もしかしたら本作がアニメにしづらく、いやテレビで放映しづらい題材を扱っているからかもしれない。

 すでに読んでいる人には自明だが、本作は雑司ヶ谷で戦前から続いている産院に伝わるよくない噂から物語が始まる。扱う題材はおのずと禁忌にふれるようなえげつないものが多い。さらには、人格異常もテーマの一つだ。こちらは「狂人」とか「狂う」などの放送禁止用語を使わず、ハリウッド映画のように「サイコ」「シリアルキラー」などという口当たりの良い言葉で表現すれば、意外とテレビではお構いなしのテーマのようだ。しかし、そこに「淫らな」という性的異常が組み合わされると、テレビには、というよりアニメにはふさわしくない。今時深夜に放映するということが、子供の目に触れさせない事を保証するわけではないからだ。

 というはなはだうがった思いつきではあるが、「姑獲鳥の夏」からアニメが作られない理由を書いてみた。ほかにも「姑獲鳥…」が夏で、「魍魎…」が秋の話だという事がやや荷担しているかもしれない。なにより「魍魎…」の方がテレビ向き・アニメ向きの派手なケレン味に満ちているというのが素直な考え方だろう。

 もう三読になるのだが、読む度に味わい方が変わってくる。当初、僕の会社の友人が京極ファンから薦められて読んで、「こんなのはミステリーじゃない」と発言して絶交を言い渡されてしまったという、はなはだ魅力的なエピソードに惹かれて読んだせいで、結末が許せるかどうかが本作や以降の京極作品を読めるかどうかの〈踏み絵〉になると思った。僕は「許してしまった」わけだが、「ミステリーじゃない」という友人の主張もよくわかった。

ただし僕は正確に言うと結末を「許して」しまったわけではない。あの作品をミステリーとして読むのではなく、人の心に巣くう妖怪の物語として読むべきだと思ったのだ。その意味では、妖怪が現代では読み解く事が不可能になったコードであり、それを圧倒的な知識で読み解く〈憑き物落とし〉の手管に乗せられるのが心地良かった。

 二度目に読んだのは「塗仏の宴 宴の始末」を読了した後だ。まだノベルスしか出版されていない「陰摩羅鬼の瑕」を前にして、もう一度「姑獲鳥…」に戻って最初から読み直そうと思ったのだ。キッカケは2つある。ひとつは「鉄鼠の檻」で「姑獲鳥…」の産院の院長が出てきたり、短編集「百鬼夜行―陰」では、端役に過ぎないと思っていた人物を主役に据えた物語が語られたりして、個々の作品がシリーズとして互いに関連しているのに気づいたからだ。先に進む前に人物関係をもう一度再構築したかった。

 と同時に、〈妖怪の物語〉の面白さもさることながら、それ以上に常連たちの群像劇の面白さが時に勝っていることに思い至ったからだ。まるで水戸黄門を見ているかのように、役割分担された常連たちのお決まりの役どころが楽しい。ワトソン・探偵・刑事・憑物落とし、それぞれが互いにかぶることなく自らの役どころを演じきっている。そんな感じがする。

 そのまま第3作「狂骨の夢」まで読んで、再び忙しさにかまけて読書を中断してしまった。この秋のアニメがキッカケになってもう一度「魍魎…」を読み直そうと思い、それならば「姑獲鳥…」から読みなおしてしまえと思い切った。幸い「姑獲鳥…」はたかだか500ページだ。シリーズ作品としてはもっとも短い。さすがに三読だと読み飛ばす速度も速い。

 で、今回の再読で気になったのは序盤の京極堂の妖怪話の強引さだ。初読時こそ、読者を「呪(しゅ)」に掛けるような圧倒的な知識と理屈で、茫洋とした関口だけでなく僕ら読者さえも言いくるめられてしまったが、今回はさすがに粗が見えてきた。何度読んでも迂闊で後ろ向きの姿勢を恐れ入る関口はともかく、僕は京極堂の手口を知っている。いわば一度見たマジックを演じるマジシャンのタネを見つけようとやっきになっている観客のようなものだ。

 すると、序盤の言いくるめは出だしこそ納得しやすいが、その後は京極堂の思いつきで、本人ですら確証がない口振りである事に気がつく。でも、最初に手品のような手際を見せられると、京極堂の言う事は最後まで反論の余地がなく正しいと思わされてしまう。それが積み重なったあげくに終盤までくると、〈あり得ない結末〉が京極堂の手に掛かるとありえるかのように思わされてしまうのだ。これはしかし二度、三度読まないと、そう思えない。それだけ見事な言葉のペテンがあるわけだ。もちろん、これはけなしているわけではなく、本書あるいは本シリーズはそもそもが「言葉のペテン」を楽しむ本なのだ。

 もうひとつわかったのは、「言葉のペテン」も「結末の荒唐無稽さ」も許した上で、結末に至るまでに京極堂が曼陀羅絵のように作り上げたパズルは、最後の1ピースがピタリとはまりこむと〈隠された絵〉が浮かび上がるようにできている点だ。何故、1年半もの間、産むことなく妊娠し続ける妊婦がいるのか、そのキッカケと産まない理由のパズルはちょっとうならされる。これは間違いなくミステリーだ。

 三読して迷走し続けた結果、僕はようやく「姑獲鳥…」をミステリーとして楽しむ事ができたわけだ。

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posted by アスラン at 12:42| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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