2008年06月25日

ヴェニスの商人 シェイクスピア(2008/6/23読了、再読)

 かなり前に読んだ記憶がある。僕のつたない読書歴では、シェイクスピアで読んだのは本作とハムレットぐらいではないだろうか。もちろん舞台は一度も観たことがない。ハムレットを読んだのは、ケネス・ブラナー監督・主演の長編映画「ハムレット」を観て、こういうストーリーだったのかと改めて自分の無知を思い知らされたからだ。ロビーでおばちゃんたちが「ケネス・ブラナーだとちょっとハムレットには薹がたってるわね」と聞いて、聞き捨てならないなぁ、そんなにハムレットは若い殿下だったのかと俄然興味が涌いた。デンマークの王子という設定も面白いし、あの「ボーイ・ミーツ・ガール」の3人の〈ボーイ〉の一人ルーファス・シーウェルのフォーテンブラも印象に残った。では果たして原作はどんなだろうと読んでみたわけだ。

 「ヴェニスの商人」の方は、結末の言わば〈大岡さばき〉が読まずとも有名で、そこがみどころに違いないが、前回読んだときにはおそらくその筋立てだけに魅せられていたような気がする。真の面白さを読み損ねていたとも言える。

 奇しくも近頃亡くなられた安西徹雄さんが翻訳し、彼が主催する演劇集団が実際に上演した戯曲でもあった。安西訳の特徴はなんといってもくだけた現代口語調だろう。シェイクスピアというと時代劇を思わせるかたくるしい決まり文句が思い浮かぶ。「尼寺に行け」という言葉をハムレットがオフィーリアに向かって投げつけるシーンを映画で観て、戯曲の言葉から抱き続けた古くさいイメージとはあまりにかけ離れた見事なシーンが描かれていたので驚いた。

 今回の安西訳は、どちらかといえば明治文学に出てきそうな若々しさとしゃっちょこばった生真面目さとが感じられた。アントニオとバサーニオたちは文学青年の趣があり、ポーシャにしてもネリッサにしても、漱石の「三四郎」や「虞美人草」に出てくる、時代の束縛と西洋的な快活さを同時に体現した女性に見える。そして脇を固めるランスロットやグラティアーノたちは江戸下町のべらんめえ調をさりげなく使っている。格調は高くないが、さりとて今風に媚びてもいない。正調を崩さないで読みやすい翻訳を心掛ける〈安西流〉が活かされている。

 訳者が解題で詳しく書いているように〈ヴェニスの商人〉とはユダヤ人の高利貸しシャイロックの事ではない。高利貸しは商人ではないのは自明だ、と言う。うかつにも僕はシャイロックの事だとずっと思ってきた。僕のような粗忽者は結構多いのではないだろうか。つまりは商人とはシャイロックの敵役であるアントニオの事であり、もしくは当時、自由取引で栄えたヴェニスで富を気づいた貿易商一般を指している。

 あまりにユダヤ人のシャイロックという人物が個性的な人間に描かれるために、彼を中心に据えて懲らしめる物語だと勘違いされやすいが、どちらかと言うとシャイロックは主要な人物というよりも物語の起承転結を支える脇役に過ぎない。

 なるほど現代人の目から見ると、ユダヤ人は露骨な差別にあっているし、ポーシャのもとを訪れるモロッコの王子は、その肌の黒さ故に不当に貶められるのをポーシャだけでなく王子当人でさえも当然と思っている。この醜い時代意識に躓くと、今あえてシェイクスピアを読む意味を読者は見失うだろう。

 ユダヤ人は当時のヨーロッパでは荷厄介な民族だった。「ユダヤ人の歴史」で得た浅学な知識によると、エジプトに奴隷としてとらわれ、後にバビロンに再び囚われたイスラエルの民(ユダヤ人)は、捕囚終了の後に一部は聖地に戻ったが、大部分はヨーロッパのあらゆる地域に拡散した。しかし聖書にも書かれているように「かたくな民」である彼らは土地のものとなじむことを拒み、独特な文化・風習や宗教的儀式を持ち込んで現地の人々から疎まれることになる。

 ユダヤ人シャイロックが非道な高利貸しに描かれるのは、実際に利益を求めて金貸しを生業にするユダヤ人が多かったからだろう。ただしシャイロックの極悪さは人々に噂されることはあっても、作品ではほとんど描かれていない。かろうじてアントニオの口から、シャイロックの取り立てにあった人々を何人か助けたと語られるくらいだ。

 だからユダヤ人シャイロックが人々に蔑まれるのは、シェイクスピアが当時の世評を狂言まわしに利用したかったからであり、決してユダヤ人を揶揄することが主眼だったのではない。解題でも指摘されているが、当時は同業者マーロウの「ユダヤ人」を主人公にした戯曲が評判で、シェイクスピアはそれに対抗してユダヤ人を登場させている気配がある。そしてマーロウの作品では、まさしくユダヤ人をおとしめるべく様々な悪逆非道が描かれているそうだ。

 では「ヴェニスの商人」には何が描かれるかと言えば、アントニオの血肉を一ポンド切り分けるという残酷が、血一滴たりとも取れず、一ポンド以下でも以上でも切り誤ってはまかりならんという学者の滑稽に取ってかわられるという、まさに滑稽な喜劇にほかならない。

 そしてアントニオのもとに駆けつけるバサーニオには、明らかに「走れメロス」の執筆動機を太宰治に与えたのではないかと思わせるような青臭い男の友情があり、対して、殿方の無鉄砲と思慮のなさをたしなめる賢い女性の大らかさが描かれる。この快活な喜劇に〈ユダヤ人〉や〈モロッコ人〉などへの差別意識は無用だと言い立てる事も可能だが、シェイクスピアの作品の快活さには多分に著者自身の快活な性格があったのではないだろうか。

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posted by アスラン at 12:41| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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