2008年06月23日

誤訳論争再び!

 と書いたが、特に光文社古典新訳文庫のドタバタを蒸し返そうというわけではない。ちょうど志賀直哉を読んでいて、おもしろい文章に行き当たったので誤訳論争にかこつけて書き残しておこうと思った。

 志賀直哉を読んでいるのは、先日書評を書いた佐藤正午「小説の読み書き」で、志賀直哉が「書き直すことなく文章がかける天才の持ち主だったのではないか」という興味深い指摘があったからだった。志賀直哉については改めて詳しく書いてみたいが、「白い線」という短編で志賀は自らの批評家嫌いに触れている。短編自体は、74才の著者が33才の頃に書いて好評を得た「母の死と新しい母」という短編を読み返して、「本統の事がよく分からずに小説にしている」と感じたことから改めて母の思い出を語っている。

 本題とは関係ないのに志賀ののんびりとした文章はちょいと脱線して、批評家が「母の死と新しい母」のように若い頃に書いた作品を評価して、今書くものを「枯渇した」といって評価しない事に不平を言う。そうではない、若い頃に書いたものにはすでに興味を失っていて、若い頃に書けなかった「見えない裏側」が書けるようになったという作家の事情があるのに、批評家にはそれが分かってないと言う。

 「見えない裏側」というのは、志賀直哉の友人の一人が言った「大家と言われる絵描きの絵はみんなうまいが、見えない裏側が描けていない」という言葉を受けて、志賀が自らの作品を自戒している。作家としての関心の移り変わり・作風の推移には作家なりの事情があるということまでは理解できるとして、志賀はさらにこんな事まで言っている。批評家の多くは作家に寄生して生きていると言い切り、

作家が批評家を無用の長物だと云ったからとて、その連中の方から作家を無用の長物とは云えない気の毒な存在なのだ。

と書く。志賀にして見れば、書いたものに責任を取りもしない癖に自分勝手な事を書く批評家を断罪したいのだろう。気持ちは分からないでもないが、言いすぎだろう。この言葉に、誤訳論争で口を滑らした光文社古典新訳文庫の編集責任者のことばが重なって見えた。「(誤訳論争を仕掛けた学者に)自分で訳して出版したらいいじゃないか」と罵ったわけだが、志賀の言葉にもまったく同じ〈思い込みと思い上がり〉がある。

 思い込みは批評家が志賀作品の読者の一人であり、時として誰よりも熱心な読者である事にまったく気づかない点だ。思い上がりは、おまえら批評家は自分で書けもしない小説の良し悪しを語るな、と言っている点だ。批評家が熱心な読者であるならば、一読者が一批評家であるとも言える。まさか読者にむかって文学のなんたるかも分かってないのに、自作の良し悪しを語るなとでも言いたいわけではあるまい。

 面白いのは、批評家嫌いを自認しているにも関わらず、自らは様々な書画骨董のたぐいを目利きしたり、絵画の良し悪しを小説の中で語っている。人一倍自分の批評眼を頼りにして、たとえば広重が鳴門の渦潮を描いた3枚の連作を「最高傑作だろう」などと書いている。広重が生きていて「おまえに何がわかる」と言われたら、志賀はどう答えるつもりだろう。

 哲学が神の死を宣言し人間の死も宣言した上は、作家も作品も読者さえも一度は死を通過してきた。もはや「作品は作家が責任を負うものだ」という囲い込みは成立しなくなった。誤訳が多かろうと作家の事情で書かれた内容であろうと、読者が解釈や批評を加えることのできないような高みに作品を持ち上げておくことなどできない。

 志賀は友人の言葉を自分なりに解釈して、作家は若い頃には見えなくて関心もなかった事を表現していくものであり、そのために世間の評価とずれた作風に変わる事には作家なりの事情があるのだと主張する。そう著者が主張する事の正当性は当然あるけれども、同じように観る側・読む側にも自由に解釈する権利があるという事も意味している。「見えない裏側」は作家の内面に隠されているばかりでない。読者一人一人の内面にもあるのだ。そしてその内面には、作家は一読者にならない限り到達することはできない。

 しかし、果たして志賀は自作を一読者として読む事ができただろうか。光文社の「赤と黒」の訳者と編集責任者は自らの翻訳を一読者として読む機会があっただろうか。

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posted by アスラン at 03:08| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(電車でカフェ気分) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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