2008年06月20日

光文社古典新訳文庫「赤と黒」誤訳論争に大迷惑!

 光文社の古典文庫が〈古典新訳文庫〉だと最近になって気づいた。すべて新訳というところに光文社の並々ならぬ意気込みが感じられるし、そもそもポルノまがいの官能小説やサスペンスを得意としていた出版社のしたたかな戦略がありそうだ。「売れる」という判断がなければ、あえて「文化事業だ」などと岩波書店の二番手を走るような酔狂が選択できる出版社がそうそうあるはずがない。

 出版社の意気込みや戦略にのるかのらないかは読者次第だ。正しくて格調の高い翻訳で古典を読みたければ、岩波文庫を読めばいい。不思議な事に、日本の古典やらなにやらが、旧かなを改めたり活字を大きくしたりして、今の読者に読みやすいお膳立てを様々にこらすために、〈原作に忠実〉という点に目をつぶってきた歴史があるのに、翻訳となると、誰それの訳が間違っていると目くじらたてて糾弾するのはなぜだろう。

 何のことかわからんという人がいるならば、あの夏目漱石の「坊ちゃん」を漱石の自筆原稿で読める本が最近出版されたのでチャレンジしてみるといい。あるいは源氏物語を紫式部の原文で読むのではなく、与謝野晶子の文章で読むことで事は足りると著書「読書の方法」でさらりと言い放つ吉本隆明の潔さを見習ってみてもいい。

 「そんな事を言って、おまえもこのブログでたびたび翻訳の良し悪しをあげつらうではないか」という声が聞こえてきそうだ。それについてはこう答えたい。僕は一読者として翻訳を読んで、その良し悪しに言及してきた。要は、読んでみて読みにくいかどうかが本好きにとっての最優先事項なのだ。

 たとえば読みにくさが原作者によるものなのか、あるいは翻訳によるものなのかは、本当のところ素人には判然としない。だからいずれにしても読みにくければ作品にいちゃもんをつける。その責任が原作者にあるのか翻訳者にあるのかなど、一読者には知ったことではないのだ。それを「素人にはわからないだろうが、ここもあそこも間違いだらけだ」と暴きたてて世間の関心を誘う〈玄人〉は、いったい何がしたいのだろう。そういう内輪のもめ事めいた事は同業者どうし、強いては玄人どうしでやってもらえばいい。素人を巻き込まないでほしい。

 ついでに言っておこう。「素人をなめんなよ」。本当にまずい翻訳ならば、玄人に口出ししてもらわなくてもわかる。原文はフランス語だろうが、ロシア語であろうが、わかりにくい・つじつまがあわない・日本語が変だ、などは玄人に教えを請わなくても「そのくらいわからいでか!」

 その国の文化や歴史に通じていなければ気づかないような間違いは指摘してもらわずとも結構。僕らは文学者でも学者でもない。お勉強したいから読むのではない。スタンダールだ、「赤と黒」だ、とありがたがって読むのでもない。今さらながらに「赤と黒」を、いや古典を読むという事の中には、石田衣良や重松清や江國香織らの小説と一緒に並べて、手軽に手にとり気軽に読みたいという以外になんの楽しみ方があるだろうか。

 こう書くと出版社側を擁護しているのかと思う人があるかもしれないが、そうではない。光文社の編集部責任者は「瑣末な誤訳論争には与しない」と言いながら、返す刀で「自分で訳して出版したらどうか」と相手を罵倒した。こういう痴話喧嘩は勝手にやってもらって構わないが、僕らの目の触れないところでやってほしい。

 こんなアホな言葉を聞かされると光文社も「読者をなめてんのか」と腹立たしくなる。「『赤と黒』は読者に好評を持って迎えられている」なんて〈手前味噌〉な発言は正直みっともない。光文社の「意気込みあるいは戦略」にのった僕の方が馬鹿を見たよう気分になる。

 言い放った言葉は自らに返っていく。取り返しはつかない。今の一番の問題は、いずれは手を出すであろう「赤と黒」を光文社古典新訳文庫で読むか、岩波文庫で読むか、あるいはあいだをとって新潮文庫で読むか、だ。ややこしい事を言うやつらのせいで悩ましい事になる。大迷惑だ。

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posted by アスラン at 10:06| 東京 ☀| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記(電車でカフェ気分) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
カンガルーは荒野を夢見る 様

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Posted by アドバタフライ事務局 at 2008年06月20日 15:17
他の出版社と読み比べてみるという手もありますよね。
時間があったら試してみたいと思います。
今の内に光文社版を買っておこうかしら。
(一番早く入手困難になりそうだし)
Posted by rago at 2008年06月20日 20:07
らごさん、まいどどうも。

読み比べしてみたいですねぇ、気力と暇があれば。
でもとりあえずは読んでみないことにはなんとも言えません。
今日(と言ってもすでに昨日ですが)、最寄りの図書館に行ったら、
新潮文庫が置いてありました。1988年小林正訳です。
それと中央公論社から出ている「世界の文学セレクション36」に
1993年冨永昭夫訳というのもありました。こちらは19cmの
小型版で2段組。一冊で「赤と黒」が読めるというところが手軽です。
実はこの全集で古典を読み切る事も夢見ているのですが、「嵐が丘」の時は読み切れず、つい古本屋で100円で入手した新潮文庫版(2003年鴻巣訳友季子訳)で読んでしまいました。
Posted by アスラン at 2008年06月23日 02:25
>読んでみて読みにくいかどうかが本好きにとっての最優先事項なのだ。


同感です。「誤訳論争」など学界の「権威主義」の表れでしかない。黒岩涙香による『巌窟王』や『 噫無情』も厳密な意味での「翻訳」ではありませんが、「翻訳臭」を排した講談調の文体であったからこそ、当時の大衆は歓迎しました。それ無くしては、『モンテ・クリスト』も『レ・ミゼラブル』も、日本の読者の間で普及することは無かったでしょう。
Posted by 通行人 at 2014年08月31日 12:15
通行人さん、コメントありがとう。

一月近くタイムラグが開いた遅すぎる返事ですが、お許しを。

 誤訳論争の多くが、些末主義に陥りがちですよね。僕らは完全な訳を期待する一方で、完全とは何かという事をもっと考えるべきです。本当の完全な翻訳であるならば、翻訳かどうかを意識しないですむ完全さ、つまりは日本語同然を望むべきです。

 黒岩涙香の講談調は、さぞかし当時の大衆のニーズにダイレクトに訴えかけた事でしょうね。今や、厳密な翻訳であることが、達意の日本語よりも優先される世の中になってしまった事は、不幸な時代なのかもしれません。
Posted by アスラン at 2014年09月25日 15:19
アスラン様

拙文にレスをいただき、誠にありがとうございます。

>本当の完全な翻訳であるならば、翻訳かどうかを意識しないですむ完全さ、つまりは日本語同然を望むべきです。


御説にまったく同感であります。どうも「玄人」を名乗る人々の思考原理はあくまで書斎中心で、「大衆不在」に尽きると愚考致します。
シェークスピアであれ、トルストイであれ、本当に彼らの作品の素晴らしさに惚れ込み、その魅力を世に広く伝えたいのであれば、空疎な知的虚栄心からくる「専門家主義」に陥ってはならないと思います。大衆に理解され、支持されてこそ、文学等、芸術は「生命を得る」ものであると言えましょう。『カルメン』や『リゴレット』等のオペラ作品も、浅草オペラでの奔放かつ生き生きとした「自由訳」による歌詞があればこそ、わが国でもなじみ深いものになったのではないのでしょうか。
Posted by 通行人 at 2014年09月30日 21:57
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