2021年05月17日

歌詞を変える意味とは…その2(南こうせつ「愛する人へ」)

 さだまさしの「檸檬」の歌詞変更の事を記事に書いてるときにずっと考えていたのは、その前にも経験があるよなぁということだった。それは南こうせつの「愛する人へ」だ。その前にも、と書いて、あれ、本当に「檸檬」の前なのかあやしくなったので発表年を調べた。「檸檬」が収録されたアルバム「私花集」の発売が1978年3月。新アレンジでシングルカットされたのが1978年8月だ。南こうせつのシングル「愛する人へ」が発売されたのが 1977年1月、同じアレンジで収録されたアルバム「今こころのままに」の発売が1977年6月だ。やはり、「愛する人へ」の方が先だったが、たったの一年しか違わなかったとは驚いた。

 「愛する人へ」は作詞・岡本おさみ、作曲が南こうせつなので、作詞自身を自ら担当するさださんの場合とは事情が異なるだろうし、そもそも「愛する人へ」の歌詞が変更された事を知らない人も多いと思う。まずは地ならしから始めよう。僕は中学で知り合った友人の影響でフォークギターで弾き語りをするようになった。最初によくコピーしたのが「かぐや姫」の曲だった。その頃はテレビでは歌謡曲しか流れないし、そもそもフォークやその後のニューミュージック系の歌手はテレビに出演する事を拒否したりしていたので、当時の子供がフォークの曲を知る機会はラジオかレコードだけということになる。僕はと言えば、小学校までは歌謡曲オンリーだったので、中学生になって洋楽を聞いてる女子やロックにかぶれている男子の話はちんぷんかんぷんだった。

 フォーク好き、ギター好きの数人が寄り集まってあれこれ話したり練習するうちに、各自購入したレコードを持ち寄ったりして音源を共有した。友人がリードをとれる腕前だったので、僕がサイドギターを担当し、中学の文化祭では「加茂の流れに」と「置手紙」を体育館でみんなの前で披露した。かぐや姫がフォーク好きの原点だったことは確かだけれど、ギターのフレーズに惹かれていた友人は、かぐや姫解散後のしょーやんが作った「風」に注目して、僕らはそちらの虜になっていった。当時まだめずらしかったコピー譜を友人が手に入れたので、それをなんとかコピーして「海岸通」「あいつ」などを熱心に練習した。風の強みは、なんといってもしょーやん、こと伊勢正三が作詞・作曲ができるアーティストだった事だ。その強みはかぐや姫時代に鍛えられたものであり、才能を開花させたのが南こうせつだと言えそうだ。

 こうせつはリーダーとして、あるいは作曲家として、かぐや姫をデザインしていった。同じアパートに同居して「風呂に入ってる間に詞を3曲書いといて」と言われたと、しょーやんが当時を振り返っていた。ビートルズのポールとレノンではないが、伊勢正三作詞・南こうせつ作曲の歌が非常にバランスがとれていた。山田パンダさんは後年エッセイストとしても文才を振るったように、どちらかというと詩人のような佳作が多かった。こうせつ自身には「突然さよなら」「加茂の流れに」などの名曲の作詞もあるが、多くは故郷を歌った素朴な詞だった。ただ、作曲と歌唱の点では抜きん出ていたので、どんな詞でも曲と歌でまとめてしまう力強さがあった。そもそもグループがブレイクした「神田川」だって、喜多条忠ができたてほやほやの歌詞を電話で伝えると、書きとめながらメロディも同時に出来上がったと、こうせつ本人が語っている。「妹」「赤ちょうちん」のいわゆる四畳半フォークの三部作もすべて喜多条忠の詞だ。これがうけた事が、皮肉にもかぐや姫の解散を早めた原因になったようだが、それはともかくとして、こうせつには良い歌詞を提供してくれる協力者が不可欠だった。

 こうせつのソロ1作め「かえり道」の色を決めている「旅するあなた」「花いちもんめ」「昨日にさようなら」「荻窪二丁目」などは、いずれも喜多条忠の作詞。こうしてあらためて振り返ってみると、喜多条さんの詞はすばらしい。喜多条・こうせつコンビのフィット感が半端ないので、2作めのアルバム「ねがい」でも「帰っておいでよ」「名物せんべい」「恋唄」「今日は雨」などの作詞を喜多条さんが担当、主要な位置を占めている。しかし表題作「ねがい」は岡本おさみの詞だ。この他に「私の詩」も彼の作詞だ。この後、南こうせつは日本武道館で日本人ソロアーティスト初となるワンマンコンサートを実現する事になるが、その際に、この2曲と「思い出にしてしまえるさ」の都合三曲がコンサートで歌われた。さも、その場にいたかのような物言いをしたが、当時FM東京で「マクセル・ユアポップス」という番組があり、こうせつのコンサートを「南こうせつ・イン・武道館」というタイトルで、ほぼ全編を放送したからわかっている。「ほぼ全編」だと推測するのは、MCのパートも結構収録されていたからだ。「新婚白書」という曲を余興で歌う場面もあった。今回調べて初めて知ったのだが、バンド「猫」に提供した曲だったのか。また、最後にナレーションの伊武雅刀さんがセットリストを読み上げるので、曲についてもカットなしの全曲を放送した事がわかった。

 話を岡本おさみに戻すと、2作めの表題作が象徴するように、これを境に岡本おさみの歌詞を採用する事が多くなっていく。こうせつというと自然や故郷、家族などが大きな背景となっているので、喜多条さんの生活感があって情景が浮かびやすい歌詞が非常にフィットしていたように思う。ただ、少し間違うと演歌になってしまうのではというきらいはあった。それに比べると岡本おさみの詞は、情景から観念的な心象風景へと言葉がするりと移動していく。「私の詩」では次のように歌われる。
雨が降っていますね
君の暮らしを癒やして
くり返すだけが人生よと
想いめぐらせば

なんてしょっぱいしょっぱいこの雨
ああ 私の詩よ
あなたの日々の慰めとなれ

 また「ねがい」はジェリー藤尾が歌ってヒットした「遠くへ行きたい」をモチーフにした歌い出しだが、たどり着く先は具体的な場所ではなく、どこにもない心の中の拠り所だ。
どこか遠くへ行きたいと
懐かしい人が歌っている
机の上の小さなラジオで
行きたい いつか行ってみたい
はるかな土地にねそべると
そこから空の蒼さが始まるところに

 そもそも岡本おさみとはどんな作詞家だろう。あらためて考えたことがなかったが、まっさきに思いつくのは「襟裳岬」を作詞した人物だということだ。もちろん森進一の「襟裳岬」であり、レコード大賞受賞曲だというのが子供の頃の認識だ。後年、吉田拓郎が岡本おさみとタッグを組んで作った曲だと知った。吉田拓郎に関しては「となりの町のお嬢さん」や「明日に向って走れ」あたりからようやく遡って過去の曲を聞くようになった。岡本おさみ作詞の曲を調べてみると、「リンゴ」「落陽」「祭りのあと」「旅の宿」を含む多数の歌詞を書いている。観念的と形容したが、「リンゴ」や「落陽」には心象だけではなく作者の思想を込めたような歌詞が感じられる。
ひとつのリンゴを君がふたつに切る
僕の方が少し大きく切ってある
そしてふたりで仲良くかじる
こんなことはなかった少し前までは
薄汚れた喫茶店のバネの壊れた椅子で
長い話に相槌うって
そしていつも右と左に別れて
(リンゴ)

女や酒よりサイコロ好きで すってんてんのあのじいさん
あんたこそが正直ものさ
この国ときたら 賭けるものなどないさ
だからこうして漂うだけ
(落陽)

 フォークソングの原点には反戦があり、60年安保闘争後には一転して「戦争を知らない世代」が何気ない日常を謳歌する歌が多数作られたが、岡本おさみの詞には、新しい時代・新しい世代への期待と幻滅がないまぜになっているように感じられる。そして、こうせつへの次の提供曲が「愛する人へ」だ。この時期、僕はラジカセでカセットテープに録音した武道館コンサートの音源を何度も何度も繰り返し聞いていた。風が生み出すセンスのいい楽曲も好きだが、こうせつの少々泥臭いが感情を揺さぶられるような楽曲も同じように好きだった。特に、この当時はスタジオライブという形で生演奏を聞ける機会が多かった。そんな中で新曲として「愛する人へ」も紹介された。シングルで発売された際のアレンジとは違って、こうせつがギターの弾き語りで歌っていた。アルペジオで始まるイントロは非常にわかりやすく、コードさえわかってしまえば当時の僕の腕前でもコピーは簡単にできた。

 シングルで発表され、アルバム「今こころのままに」にも収録された「愛する人へ」の最終的な歌詞はこうなっている。
君のきれいな胸 とてもあったかい
暮れ残った 日だまりみたいさ
窓の外は冬 雪さえ降ってきた

過去をふりかえると 恥ずかしいことでいっぱいさ
長い眠りからさめると 生まれかわってた
なんて言うのがいいね

愛する人よ眠ろう 言葉は愛想なしさ
愛する人よ眠ろう だまって眠りなさい

 この曲でも岡本の歌詞は、「愛する君」と暮らす日常の風景から語り手の心象風景にするりと移動していく。「過去をふりかえると恥ずかしいことでいっぱい」という内省は、当時の僕には思いもよらない言葉だった。単なるラブソングではない歌詞の難しさを、僕だけでなく他の人たちも感じていただろうか。ひょっとしたらこうせつ自身さえも。そして、この歌詞のもっともひっかかる部分は、なんといってもサビの「言葉は愛想なしさ」というフレーズだ。愛の言葉をどれほど尽くしてもなかなか届かないという、愛する人への想いを表現していながら、同時に「恥ずかしいことでいっぱい」だと顧みた過去から手に入れた思想の手触りが感じられる言葉でもある。傍らにまどろむ「君」に直接語りかけているのではなく、内省する心が「君」に伝えようとしているフレーズだ。

 発売前のライブバージョンで聴いた「愛する人へ」の歌詞は少しだけだが、違っていた。音源がどうやら残ってないようなので、僕の拙い記憶をたどってみると、次のようになっていたはずだ。
君のきれいな胸 そっと耳をあてると
暮れ残った 日だまりみたいさ
窓の外は冬 雪さえ降ってきた

 「そっと耳をあてると」を「とてもあったかい」に変えた理由はいまならよくわかる。2連目の「日だまりみたいさ」という比喩につなげるためには「耳をあてる」という言葉は説明しすぎだという事だろう。トレバトの俳句の夏井いつき先生がよく言っているように、言わなくても伝わる事は書かないという推敲の結果だ。何よりも「とてもあったかい」の方が「日だまり」の比喩に自然とつながる工夫になっている。この「日だまりみたいさ」という部分も、ライブヴァージョンでは「春の日だまり」になっていたような記憶があるのだが、僕自身の記憶の改ざんかもしれないので変えていない。

 もう一カ所、2番の歌詞で変更があった。
なんにもできないから 愛の唄をうたっていくよ
ことばのままに生きてゆけたらそいつはむずかしいな
そいつは苦しすぎるよ

 この部分の最後の「そいつは苦しすぎるよ」は、元は「僕には苦しすぎるよ」だった。語り手である「僕」の心情を唄っているので変更前と後ではなにも変わらないのではないか。一見するとそう思えるが、「僕には」と言ってしまうと「とりわけ僕には苦しい」と強調しているように感じられる。ここは「言葉は愛想なし」という思想と呼応していて、「ことばのままに生きることは難しい」という普遍的な事を「僕」が嘆いているのだと聞き手に伝わるように、変更したのだと考えられる。

 作詞・岡本おさみが行った歌詞のささやかな変更の意図を考えるだけでも、この歌詞に込められた思想の難しさに改めて気づかされるが、それと反比例するかのように歌詞そのものは「あったかい」「日だまり」「ことば」のようにひらがなが多用されていて、聞き手(読み手)に優しい。それだけでなく、変更の意図には歌い手であるこうせつや聞き手である僕らへの配慮もあったかもしれない。「そっと耳を当てると」よりも「とてもあったかい」の方が譜割りが自然だし、「そいつはむずかしい…そいつは苦しすぎる」のように「そいつ」を繰り返す方が耳触りがいい。

 もちろん、今回も僕個人の勝手な推測でしかない。でも、今どきの歌のようにきちんと完成させて、さらにはMVまで作るという事が当たり前ではなかった時代ならではのおおらかさがあったことは言っておきたい。また、フォークソング歌手特有の弾き語りのライブ感が詰まった楽曲がレコードで化ける際の落差が大きかったことも確かだった。ことに南こうせつの「武道館コンサート」を死ぬほど聴き込んで味わい尽くした僕にとって、その後に発表された「今こころのままに」に収録された「九州に帰る友へ」や「思い出にしてしまえるさ」があまりにもライブとは違った整い方をしているのにかなりとまどった事をよく覚えている。そのことについてはまた別の機会に書くとしよう。
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2021年05月05日

歌詞を変える意味とは…(さだまさし「檸檬」)

 4/18の関ジャムは「さだまさしの『今』に迫る」をテーマに、さだまさし本人を迎えて今関心のある若手アーティストなどを聞いたり、作詞や作曲の方法論を聞き出したりしていた。長年、さだまさしのファンを続けてきた自分としてはさださんの近況は確かに気になるのだが、昨今はレジェンドの一人としてこうした番組で若い世代からも支持を受けているさださんの姿を見ると、「時代が変わったなぁ」と改めて感じてしまう。

 さだまさしと言えば「『関白宣言』で女性蔑視と非難され、『防人の詩』で右翼だ、『しあわせについて』で左翼だと、事あるごとに批判されてきた」と、本人が自虐的に自らを語る事が多かった。確かにある時期の作品群では、今で言うところの「炎上」を繰り返してきたさださんだが、これはある種のイデオロギーに染まった一部の人達の心情を逆なでするようなテーマをあえて作品に盛り込み、言わずもがなの一言を言ってしまう「さだまさし」という個性ゆえの必然にほかならない。かつてはどこの町にも一人くらいはいた小言を言うおじさんのように「見て見ぬふりはできない、言わずにはいられない」事に口出しするのは、さださんの律儀さゆえの性分であって決して使命感などというつまらぬ自意識ではない。さだファンには自明な事でも、いわゆる世間の人にはなかなかに伝わらない。風向きが変わるのに数十年を要した。

 僕自身、「かぐや姫」「風」と言った叙情派フォークの洗礼を受けて、いち早くたどり着いたのがフォークデュオ「グレープ」の存在で、「無縁坂」のスマッシュヒットの頃から、その後ソロになったさださんの初期の作品群に魅せられてきた一人だ。もちろん、当時はどっぷりと浸かりすぎたおかげで、「夢供養」で一段落がついたアルバムの完成度の高さゆえに、「印象派」以降のアルバムに今ひとつ満足ができず、次第にオールドファンの立ち位置に身を置くようになった。特に「印象派」の1曲め「距離(ディスタンス)」の歌詞の一節に引っかかった。故郷に住む君は「夢」や」希望」を語る青臭さを笑いはしないだろうが、都会で暮らす僕は「コップ一杯の水と引換えに『嘘』なんて言葉を飲み込める様になった」という歌の中の主人公は、
都会はけっして 人を変えてはゆかない
人が街を変えてゆくんだ
「人」と「人」との距離が  心に垣根を
静かに刻みはじめる

と語り、「もうそろそろ帰ろう 帰らなくちゃいけない」と、君の住む故郷への郷愁をつのらせる。このとき、僕はがっかりしたのだ。東京生まれ東京育ちの僕にとって「街」も「人」も同じ意味に聞こえた。「街」が人を変えてゆくのでなければ、都会に住む人には残された道はないではないか。学生の頃に大病をして、アルバム「夢供養」の「ひき潮」に心の中のふるさとのイメージをふくらませては救われてきた自分には、「距離」の歌詞は冷たくひびいた。今から思えば若さゆえの「つまらぬ自意識」だったかもしれない。引っかかる癖に「距離」は今でも好きな作品だ。

 同じように引っかかると言えば、今やさだまさしを代表する曲に成長した「風に立つライオン」の一節。
やはり僕たちの国は残念だけれど
何か大切な処で道を間違えたようですね

 これも僕を含めて多くの日本人の心情を逆なでしたに違いない。「距離」の一節と同じように、日本で暮らす「人」には冷たくひびいただろう。「僕は『現在(いま)』を生きることに思い上がりたくないのです」という主人公の決意に、日本で生きる僕らの思い上がりを窘められたような気がした。当時、同じようなテーマを抱えた脚本家・山田太一は「早春スケッチブック」で、「おまえらみんなありきたりだ」と罵る男の言葉に対抗して市井の人々の暮らしの力強さを描いた。今から思えば、バブルに踊らされた日本を離れてアフリカでの僻地医療の道を選んだ若き医師の生き方に触れたさださんが、彼の人生をモチーフに作り上げた作品であったとわかる。さだまさし自身も、彼の人生、彼の決意に心に波風をかきたてられ、そしてアンサーソングを書いた。さださん自身にとっても、「いまを生きることに思い上がりたくない」という医師の決意は戒めであろう。さださん自身が高みから「おまえらみんなありきたりだ」と罵ってるわけではないのだ。そして、やはり引っかかる一節があるにもかかわらず、いや、あるからこそ、「風に立つライオン」も僕の好きな作品だ。

 さだまさしの初期の作品の中でもひときわ重要な位置を占める「檸檬」は、もちろん梶井基次郎の短編「檸檬」をモチーフにして青春の一時期に思い悩む少女を描いた作品だ。ソロ3枚めのアルバム「私花集」の中の一曲で、さだまさしの代表曲と言っていい。もっとも「私花集」には、「主人公」を始め、「案山子」「秋桜」「フェリー埠頭」なども含まれるので、同じさだファンでも何を持って代表曲とするかには異論が出てくるかもしれない。少なくとも僕にとっては青春時代に歩き回った御茶ノ水が舞台の「檸檬」は、特に思い入れの強い作品だ。
或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて
君は陽溜まりの中へ盗んだ檸檬細い手でかざす
  (中略)
食べかけの檸檬聖橋から放る
快速電車の赤い色がそれとすれ違う
川面に波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
捨て去る時には こうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ

 カラオケがない時代にフォークギターの弾き語りで、この曲を何度も歌ったが、驚いたのは後にシングルカットされた「檸檬」がアルバムのギターとオーケストラの落ち着いたアレンジではなく、少しミディアムロックのテイストを入れ込んだ派手めのアレンジに変わったことと、あるフレーズの歌詞が変わったことだった。変えられたのは、2番のサビの部分のほんの一節だ。一番では「食べかけの檸檬」の黄色と中央線の「快速電車の赤い色」が聖橋で交差し、二番では「食べかけの夢」と総武線の黄色(檸檬色)が交差するという色彩のイメージをまとめた見事な歌詞の直後に、一番の歌詞と呼応するように
二人の波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
消え去る時には こうして出来るだけ
静かに堕ちてゆくものよ

と歌われる。この部分の「こうして出来るだけ」が、シングルバージョンでは「こうしてあっけなく」に変わっている。

 なにかにつけ文章を書いたり、コンサートでも歌唱よりも長いトークが有名なので、コアなファンには事情は伝わっているのかもしれないが、いまだに何故変えたのかは知らないままだった。番組ではおもしろエピソードとして取り上げられていて、しかも今は歌詞についてはアルバムバージョンに戻して歌っていると言う。「あっけなく」の小さな「っ」が歌いにくいというのが理由だ。いかにもさださんらしいユーモアだが、変えた理由については「よくわからないけど、変えたくなっちゃったんだろうね」と茶化していた。

 僕なりに考えると、「食べかけの檸檬(夢)」「快速電車の赤い色(各駅停車の檸檬色)」「川面に波紋の拡がり(二人の波紋の拡がり)」「捨て去る時には(消え去る時には)」と、一番と二番の歌詞を呼応させていくならば「こうして出来るだけ」で統一するのは、係り結びのならいのように必然であって、これ以外にないという選択に見える。つまり詩歌の技巧として完成度の高いのはアルバムバージョンである。ただし、一番の「こうして出来るだけ」が「遠くに投げ上げる」という部分の情景としては自然なのに比べると、二番の「こうして出来るだけ」は、「静かに堕ちてゆく」を形容するには違和感が残る。「堕ちる」という行為は自覚的に、しかも「出来るだけ」のように意識的に行うものではなく、「あっけなく堕ちる(堕ちてしまう)」ものだと感じられる。そこにこだわり始めると、アルバムバージョンの歌詞は技巧に走りすぎたのではないかと、さださん自身が感じたのかもしれない。あくまで僕の推測だが…。

 僕自身、カラオケで「檸檬」を歌う際には、一時期はシングルバージョンで歌っていた。というのも、アルバム・シングルの順で発売されているので、さださんの望んだ歌詞は「こうしてあっけなく」だと思いこんでいたからである。でも、思い入れのあるのはどちらかと言われればアルバムバージョンなので、今は「こうして出来るだけ」で統一して歌っている。それに、確かに「あっけなく」を歌う前にちょっと身構える感じがある。小さな「っ」で跳ねないといけないので、やっぱり歌いにくいのだ。今後は気兼ねなくアルバムバージョンで歌える。
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2021年04月24日

英国一家、日本を食べる マイケル・ブース(角川文庫)

 ちょっとずるいなぁ、いや、かなりずるい。読み終わってそう思った。なにしろ、読み出した印象は最悪、こんな外国人にとやかく言われたくないというのが正直なところだったが、最後まで読むと印象ががらっと変わるような終わり方になっているからだ。

 そもそもなんで本書を読もうと思ったか、今となっては思い出せないのだが、日本の食文化に関心をもった著者が家族を引き連れて日本を旅して、日本全国の和食を食べまくるというルポルタージュの存在を知って、その趣向に興味をもったのだろう。NHKの番組「クール・ジャパン」のように新たな日本を外国人目線で発見したという話だと思って、読んで見る気になった。著者はイギリスのフードライターであり、料理の修行もしてフランス料理のシェフの経験もある。現在の世界的な和食ブームが到来する前に和食に関心があったようで、特に和食文化を世界に発信した先駆けとも言える料理人・辻静雄の著書を読んで感銘を受けた。その一方で、辻が「日本国内では和食文化が失われようとしている」と危惧を抱いていた事を知り、そうなる前に和食を食べ尽くす必要を感じて日本への旅行を計画した。家族を連れてきたことには、育ち盛りで好奇心旺盛な二人の息子に広い視野を持って世界を知ってほしいという親としての教育の側面もあったようだが、なにより父だけが「おいしい思い」をする事の非難を逃れるための口実だったかのように書かれている。

 事ほどさように著者ならではのユーモアを交えて、行く先々で体験したエピソードを面白おかしく自国(イギリス)の人々に伝えているのだが、日本人が読むとカチンとくる振る舞いや言動が頻繁に見られる。たとえば、初めて行った築地で競りの慌ただしい現場を人目も気にせず歩き回ったり、町の食堂の厨房の様子を「バカな外国人」の体でズケズケとのぞき込んだりする。挙げ句の果てに、自国でも人気だった「料理の鉄人」のような料理ショーを見たいがために、某アイドルグループが二手に分かれてゲストのオーダーを満たすオリジナル料理を作るというTV番組を見学した際に、お決まりのように「バカな外国人」気取りでスタジオを見て回って満足する。それだけならまだしも、某アイドルも、アイドルが料理する番組の趣向も、揶揄するのは忘れない。上下二巻で刊行された文庫の上巻では、江戸時代から続く戦前の情緒が感じられる日本の食文化が紹介されるエピソードがあるが、その際に「原爆投下を免れたために、こうした文化が残った」事の幸いを喜ぶかのような言葉が紛れ込んでいた。著者の無邪気さが反映していると言えばそれまでだし、確かにアメリカが計画していた原爆計画には、皇居周辺や京都など日本全国の拠点が何カ所も含まれていたのは事実だが、少なくとも一部の日本人の感情を逆なでする言動であるという自覚ぐらいはもってほしいと感じた。

 しかし、僕が本当に気になっていたのは、辻静雄に代表される日本の和食料理の専門家たちだけが日本料理(和食)の将来を憂いているかのような視点に著者が同調して、さらには自分がなにかできるのではないかという他国への干渉めいた物言いだ。確かに、かつては各家庭の隅々にまで行き渡っていた和食を生み出す環境もプロセスも失われようとしてるのが、現代日本の現実だろう。子どもの頃に僕が暮らしていた長屋には、玄関の引き戸をガラガラと開けると上り框があり、ふすまの向こうに居間があった。ちゃぶ台を家族全員が囲み、祖母が座る脇には火鉢がおいてあった。奥の部屋には床の間もあったし、短い廊下の脇に中庭があって小さな縁側がついていた。床がかしげた台所から家の裏に出られて、勝手口である裏木戸から出入りする事ができた。内風呂はなかったので、夏場は裏のちょっとしたスペースで行水をした記憶もある。

 そんなささやかな下町の暮らしで、母は子供二人と夫と、少々口のうるさい義母のために毎日毎日の献立に頭を悩ませながら僕らに様々な和食を提供してくれた。もちろんコロッケやカツのような惣菜がメインのときがあったり、子供が喜ぶカレーやハンバーグが頻繁に作られたりしたけれど、下町生まれの祖母がいたこともあって、煮物やおひたし、胡麻和え、白あえ、漬物などが食卓に上った。台所の床下に置かれたぬか床は毎日かき回していたし、春先ともなればちらし寿司の具を煮しめるところから作っていたし、忙しい大晦日は朝から正月用のおせちの準備をしていた。特に、黒豆の出来具合について毎年のように聞かされたように思う。そんな和食の文化が今の僕の暮らしに引き継がれているかというと心もとない。ちらし寿司は具とすし酢が一体になったお手軽品で間に合わせているし、おせちも食材の宅配業者が用意したうん千円のセットを並べるだけになってしまった。そもそも、家族全員でおせちを囲み、お神酒を注いだ金杯を回しながら「あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。」と言い合った習わしも、過去のものとなった。

 過去を懐かしんで「昔はよかった」と言いたいわけではない。生活様式が変わり、家族のかたちが変わり、仕事を含め社会の構造が変わり、なにより時代とともに日本人の意識が変わった以上、昔ながらの暮らしを維持することはできない。本書の著者の問題意識は、内政干渉というよりアナクロニズムなのではないだろうか。ちょっと前に「品格」という言葉が流行した。前の総理大臣は「美しい日本」と言った。一部の文学者や識者は今でも「美しい日本語をとりもどせ」というスローガンをかかげている。それらすべてに僕は抵抗を感じる。だから、著者が、辻静雄や、彼の後継者と目される東西の大手料理学校の経営者たちの言葉に耳を傾ける事に抵抗を感じた。彼らは日本固有の「和食」というスタイルを世界に発信しているという自負はあるだろうが、日本の庶民の食文化をリードしているのは彼らではない。日本の食文化は日本人ひとりひとりの意識の中にしかない。僕だってマクドナルドやケンタッキーでファストフードを楽しむけれど、母から譲り受けたレシピで白あえや胡麻和えを作って食べている。失われていったものは確かに多いが、残っていくものが決して少ないわけではない。

 正直、上巻を読んだ時点で下巻は読まなくていいかなと思ったが、せっかくなので最後まで読みとおした。下巻の冒頭に「流しそうめん」を一家全員で体験するエピソードが出てくるが、これにも著者特有の揶揄がふんだんに入る。流しそうめんというエキサイティングなイベントがあると聞きかじって、そのメニュー(?)を扱っているレストランをようやく見つけて予約する。新潟だったか場所は忘れたが、すでにシーズンが過ぎていて、予約した日が最終日だった。そのせいか、店員の対応も今ひとつで、子どもたちの盛り上がりとのギャップとして描かれる。当然のことだが、著者の妻、子供たち、最後に著者の順で竹製のといに並んだせいで、育ち盛りの子供たちのおこぼれがなかなか著者には届かず、ようやくありついたそうめんにふくまれた水で、つけ汁はどんどん薄まっていく。こんな怪しげな食作法が日本にはあるんだよ、という自国向けの情報発信ではあるが、せっかく予約に応じてくれたレストランに対してちょっと失礼なんじゃないかなぁと思った。その反面、そもそも流しそうめんって、楽しいんだか楽しくないんだかよくわからない側面があることも確かで、著者の気持ちもわからないではない。あれは、そもそもは風流をたしなむ大人たちの遊びだったのかもしれないが、今や幼い子供たちを喜ばせるためのイベントでしかない。

 しかし、流しそうめんで始まる下巻からは、上巻でめだった「バカで不躾な外国人」という体はなりをひそめてきた。確かに「味の素」に取材に行って、やれ「人体に影響がある成分が味の素には含まれていますよね」だとか「それを消費者に隠していますよね」などと広報に詰め寄り、逆に不確かな情報(デマ)に惑わされている事に気づかされて帰るところは、遠慮のない不躾なクレーマーを気どってはいるが、揶揄しようという意図は感じられない。キッコーマンの醤油造りのこだわりに関心しながらも、それ以上に小豆島には江戸時代からの製法で唯一無二の醤油を作り続けている会社があると知って取材にでかけたりする。醤油だけでなく味噌や豆腐など、今もなお日本人にとっておなじみの調味料を昔ながらに守り続けている人たちがいる事に感銘を受けている著者の文章に、僕らもなるほどとうなづかされる。

 日本の中でもとりわけ長寿を誇る沖縄に取材して、老人たちの長生きの秘訣は「健康食としての日本食」だけにあるのではなく、固有の気候や風土に裏打ちされた日々の暮らしにある事を著者は知る事になる。これは何も沖縄だけでなく、日本のいたるところで見ようと思えば見られることだろう。だからこそ、エピローグで「辻静雄が恐れていた『日本料理の伝統の消滅』はない。和食の未来は情熱と能力のある人々の手にゆだねられている」と語り、さらには「伝統的な和食の本当の将来性は、日本人がもつ揺るぎない価値観の中にあるはずだ」とまで語っている。正直、日本の魅力に取り付かれて宗旨がえしすぎじゃないの?と思わないでもない。本国向けに書いた旅行記の翻訳が、これほどまでに日本人に受け入れられるとは、著者自身思っていなかったに違いない。だから「かなりずるいなぁ」という感想を持ったのだが、どんな形でも日本を少しでも理解しようと思ってくれる外国人が増えるのなら、大歓迎だ。





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2021年04月01日

テレビドラマオールタイムベスト100(TVガイドアーカイブチーム・編) 番外編

 前の書評で解説したように本書では2019年12月時点で「テレビドラマオールタイムベスト」を決める目的で、ドラマ作りの玄人とも言えるシナリオライターたちにアンケートをとり、回答結果に基づいてランキングが作成された。作成元はTVガイドアーカイブチームだ。実は28年前の1991年にも、同様の趣旨で、やはり同様のアンケートをシナリオライターたちに依頼して作ったランキングが、本書にも再掲されていた。題して「1991年版オールタイムドラマベスト100」。僕としては、こちらのランキングと2021年版とを比較する方が楽しい。さっそくベスト10を見てみよう。末尾の数字と矢印は、2021年版ランキングとの比較だ。

1.岸辺のアルバム(1977年TBS) 山田太一 (↓7)
2.北の国から(1981年フジテレビ) 倉本聰 (↑1)
3.夢千代日記(1981年NHK) 早坂暁 (↓10)
4.私は貝になりたい(1958年TBS) (↓38)
5.傷だらけの天使(1974年日本テレビ) 市川森一・鎌田敏夫ほか (↑3)
6.おしん(1983年NHK) 橋田壽賀子 (↓11)
 時間ですよ(1970年TBS) 橋田壽賀子・向田邦子ほか (↓12)
 男たちの旅路(1976年NHK) 山田太一 (↓14)
7.あ・うん(1980年NHK) 向田邦子 (↓44)
 七人の刑事 (1961年TBS) 早坂暁ほか (↓圏外)
 淋しいのはお前だけじゃない(1981年TBS) 市川森一 (↓15)
 ふぞろいの林檎たち(1983年TBS) 山田太一 (↑2)


 約30年前は「岸辺のアルバム」がダントツでベスト1だったようだ。そこから28年たって7位にランクダウンしたのには、もちろん同じ山田太一作品「ふぞろいの林檎たち」に取って代わられたという事が一つの要因になっているだろう。だが、それ以上に日本人の家族関係や暮らしが変化した事が大きいように思う。少々こじつけになるが、このベスト10に入った作品で暮らし方の推移をたどってみよう。

 「おしん」では、明治の終わり頃の貧しい農村で生まれた少女が、親元を離れてつらい奉公時代を経て大正・昭和をたくましく生き、社会的にも人間的にも大きく成長していく姿が描かれた。いわば近代日本を形作ったのが男ばかりではないのだと、声高ではなくつつましやかに宣言したドラマだ。戦後にようやく落ち着いた老後が訪れるかに見えたが、高度成長期を経て子供たちが惑う時代が待ち受けていた。

 「時間ですよ」では、おしんよりもやや若い世代の親が高度成長期に突入していた東京での暮らしを支えようと悪戦苦闘する姿が描かれる。当時はまだ活気があって人間交流の場であった銭湯が舞台だ。ふぬけで遊びたがる夫を叱りながらも大所帯を切り盛りするおかみの気がかりは、優しいだけで覇気がない息子に嫁いできてくれた嫁の事。体が弱くて何もお手伝いできないと申し訳なく思う嫁を、あんな息子の妻になってくれただけで感謝していると気遣うおかみ。まさに目の前で失われていこうとする大所帯の家族によるホームドラマだった。

 「時間ですよ」の脚本にも携わった向田邦子が描いたのは「あ・うん」や「阿修羅のごとく」における戦前・戦後の庶民の暮らしだ。「時間ですよ」で言えば、さらに嫁の世代と合致する向田邦子が自らの父母兄弟、あるいは親族のあれやこれやをモチーフにしながら、見た目以上に濃密な人間関係を独特な人間観察で描いていた。映画で小津安二郎が繰り返し笠智衆に演じさせたクラスと同じか、やや下の、決して悪くない生活をする家が精一杯品格を保とうとして、だがしかし既にそんなものは過去のものだという事を向田邦子の目線はとうに気づいている。家族に対する憎しみと愛おしさがないまぜになったユーモアが作品に込められていた。

 そして「岸辺のアルバム」だ。日本はどこかで道を間違えたのだという問いかけは、今も必ずどこからか聞こえてくる。それは「文学は終わった」という80年代に批評家に流行したスローガンとどこか同じ響きが感じられる。それは煎じ詰めれば「昔は良かった」という戯言ではないだろうか。たとえ昔は良かったにしても、それは選びなおせない過去にすぎない。そして、僕たちは、親は、祖父母は、いつでも現実を生きていくために何かを選び取ってきたし、これからも選び取るだろう。戦争があり、戦後があり、高度成長期があり、その度に選び取ってきた現実が、田舎から都会への集中であり、親と別に暮らす核家族化だ。都会でのマイホームは、そんな世代が切り捨ててきたものを再構築するための選択だ。それが間違っているなどと誰が言えよう。山田太一は、多摩川の岸辺に建てられた一戸建てが災害で流されて呆然としている家族の姿にうたれて、物語を書いた。それは流された家が象徴するように、一戸建ての中に住む家族がすでに家族というにはバラバラになりかけているという物語だった。しかし、家が流された家族が命の次に救い出したものが、一冊のアルバムだったことに僕らは希望を見出すのだ。壊れたのは箱であり、社会であり、時代だ。家族はいつでもなんどでも再生するのだと、山田太一は僕らに教えてくれた。

 次に来るのは地方の復権と、新たな世代の新たな奮闘だ。28年の間に「北の国から」では、都会の生活に疲れた男が都会出の妻と別れて、幼い息子と娘をつれて、故郷・富良野に戻る。あるいは「思い出づくり。」では、男女雇用機会均等法など夢にも思わなかった女性たちが、結婚式場に籠城することで社会にNOを突きつけ、「ふぞろいの林檎たち」に出てくる四流大学の男たちは、高度成長期のあとに訪れる学歴による格差や、バブル経済の波に飲み込まれていく。「もはや戦後ではない」というどこぞの政治家が吐いた一言は、逆説として高度成長期がまだ戦後であった証と捉えるべきだろう。そして、この28年の時は、だれも言わないからこそ「もはや戦後ではな」く、「震災後」が取って代わることになった。ランキングの動きはそれを如実に表していて、「私は貝になりたい」も「おしん」も「あ・うん」も「男たちの旅路」も、ベストテンから退場した。きっとそういうことだろう。

 つぎの30年があるならば、もちろん社会に進出しだした女性たちの悪戦苦闘と、エンターテインメントによるドラマの可能性みたいなものが主流を占めるのかもしれない。「逃げ恥」は30年後も同業者たちから評価されているのか、それとも再び「ドラマは、TVは終わった」のような停滞をくさす戯言が蔓延する時代がやってくるのか、いずれにしても興味は尽きない。あくまでこの企画が続いたらの話、いや僕がまだ退場していなかったらの話か。

 今回も11~100位で印象に残っている作品をリストアップしよう。ただし、2021年版ランキングの方でリストアップした作品は除いてある。

四季・ユートピアノ(1980年NHK)
 佐々木昭一郎・作演出の詩的な映像と音が印象的なドキュメンタリーのようなドラマ。特に好きだったわけではないが、映画ではなくテレビでやった事の意味は大きい。
雲のじゅうたん(1976年NHK)
 へばちゃん。と言ってもなんのことかわかるまい。浅茅陽子が日本初の女性パイロットの人生を演じた。彼女の個性が光った作品。
ありがとう(1970年TBS)
 高度成長期らしい、人情と明るさが際立つドラマ。水前寺清子は、いまから思えば和製ジュリー・アンドリュースだった。
必殺シリーズ(1972年TBS)
 仕事人シリーズが長すぎてマンネリ化してしまったのかもしれない。「必殺仕掛人」「必殺仕置人」はぜひ再評価を期待したい。
だいこんの花(1970年NET)
 僕にとって向田作品と言えばこれだ。森繁久彌と竹脇無我の父子の掛け合いが懐かしい。
となりの芝生(1976年NHK)
てなもんや三度笠(1962年ABC)
 あたり前田のクラッカー。意味もわからず言ってたなぁ。関西人でないとわからないセリフだった。
青春とはなんだ(1965年NTV)
 夏木陽介主演の学園ドラマ。再放送で見た記憶しかないが、布施明が歌う「若い明日」「貴様と俺」は、どちらも作曲いずみたくだったのか。
ウルトラマン(1966年TBS)
 28年前の特撮ドラマ1位はウルトラマンだったか。もちろん、どこか高度成長期とシンクロして明るくのびやかな感じがする特撮ドラマだった。後年の「Ultraman」のようなダークファンタジー感はなかったのだけど。
2丁目3番地(1971年NTV)
 ドラマの内容は覚えてないけれど、大人の世界のファンタジーを感じさせてくれた作品。石坂浩二、浅丘ルリ子、森光子の取り合わせがとてもよかった。あと、ビリー・バンバンの歌もよかったなぁ。
Gメン'75(1975年TBS)
 「太陽にほえろ!」は再評価されたが、こちらはどうか。「キイハンター」から「アイフル大作戦」と続いて、それの後をうけてハードボイルド路線に変わったのが「Gメン」だ。エンディングに流れるしまざき由理の「面影」もよかった。
ゆうひが丘の総理大臣(1978年NTV)
 中村雅俊演じる教師・総理のはちゃめちゃ感と、「俺たちの旅」同様に最後はグッと来る青春ドラマ感がよかった。斉藤とも子や藤谷美和子も出ていた。あっ、調べたら小川菜摘も出てた、出てた。
ザ・ガードマン(1965年TBS)
 こちらも「キイハンター」同様、事件ものとして長く続いていた。宇津井健がキャップで、どちらかというと渋めの俳優たちが配役されていた。どんでん返しに次ぐどんでん返しという筋立てが多かった記憶がある。
仮面の忍者・赤影(1967年KTV)
 「マグマ大使」「ジャイアントロボ」など、ウルトラマンや仮面ライダー以外にも当時は特撮ドラマが多数あったが、中でも異色だったのが赤影だ。戦国時代に暗躍した忍者同士の争い。最初は飛騨vs.甲賀だった。甲賀幻妖斎が影で操る金目教を飛騨の忍者・赤影たちが倒すのだが、第二部のまんじ党の党首がやはり幻妖斎だったり、風魔編では忍者が操る怪獣との戦いになったりと、楽しませてくれた。原作は横山光輝だ。
サインはV(1969年TBS)
 スポーツ根性ものというジャンルがあった。略してスポ根。1964年の東京オリンピックで活躍した東洋の魔女・バレーボール女子をモチーフに、いなずま落としやX攻撃などの魔球・秘技が登場する。范文雀扮するジュン・サンダースが志半ばで死んでしまうのも衝撃だった。
プレイガール(1969年東京12)
 「キイハンター」の向こうを張った日本版チャーリーズ・エンジェル。お色気(もはや死語か)満載のドラマ。
水戸黄門(1969年TBS)
子連れ狼(1973年NTV)
 「しとしとぴっちゃん…」の出だしの主題歌がヒット。でも原作は公議介錯人の座を追われた拝一刀と柳生との死闘を描くハードボイルド時代劇。萬屋錦之介が原作の物語を忠実に演じた。
横溝正史シリーズ(1977年MBS)
 市川崑・石坂浩二コンビによる映画版金田一耕助よりも、当時はこちらのTV版金田一耕助を毎週欠かさず見ていた。古谷一行の人間味あふれる金田一が魅力。「三つ首塔」「悪魔が来りて笛を吹く」「真珠郎」など横溝正史らしいストーリーに当時は驚かされた。
ちょっとマイウェイ(1979年NTV)
マー姉ちゃん(1979年NHK)
川の流れはバイオリンの音(1981年NHK)
青が散る(1983年TBS)
 二谷友里恵や石黒賢、佐藤浩市といった二世タレントをキャスティングした青春の影を描いたドラマ。主題歌「蒼いフォトグラフ」を松田聖子が歌った。
家族ゲーム(1983年TBS)
 映画では松田優作が演じた家庭教師を長渕剛が演じた。高校生役は後に「もののけ姫」のアシタカの声を演じた松田洋治。映画では最後に松田優作が大暴れするが、TV版の長渕は破天荒家庭教師で、いじめられっ子の松田洋治をさらにいじめる。というか奮起させるわけだが。
金曜日の妻たちへ(1983年TBS)
 当時、人気の高かった二子玉川を舞台にした不倫ドラマ。と書くと、今のコンプラ全盛の時代では評価しにくいかもしれないが、非常に意表を突くように、都会で生きる夫婦たちの生きづらさ、空虚感などをうまくすくい上げて描いたドラマ。主題歌にピーター、ポール&マリーのメッセージフォークの名曲「風に吹かれて」が使われた。
武田信玄(1988年NHK)
 あまりに平板化した筋立て、すべてに光が当たるハリウッド的ライティング。そんな大河ドラマのマンネリを打破するかのように描かれた、中井貴一版「武田信玄」は、時代劇のもつ本来の面白さや躍動感を取り戻した作品。

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2021年03月24日

テレビドラマオールタイムベスト100(TVガイドアーカイブチーム・編)

 「TVガイド」は1962年に創刊されたテレビ番組に関する情報誌だ。普段は買わないくせに年末年始の番組、特にNHK紅白歌合戦の出場歌手について知るために、買いそびれないように大掃除の合間をぬって本屋に買いに行くのが、子供の頃の年末の恒例だった。その頃は「週刊TVガイド」という雑誌名だった。いまや、番組表も情報もTVで手に入るし、ネットでもたやすく調べられる時代になって、情報誌の役割も終えようとしているのではないだろうか。それとも、地デジ、BS、CSと選択肢が増える一方だから、今後もニーズはあるのだろうか。そもそも、TV自体がますます必要とされない時代になりつつある。「お茶の間」という言葉もそう遠くないうちに消えてしまうかもしれない。でも、かつてはどの家庭でも「お茶の間」でちゃぶ台を囲みながら、みんなで同じテレビ番組を見るという時代があった。それと呼応するかのように、ちゃぶ台の周辺で家族の人生が見渡せる”ホームドラマ”がたくさん作られた。当たり前の事だが、TVドラマは時代を映す鏡の役割を果たしていた。

 そんなTVドラマが初めて放送されてから、2020年で80年になるそうだ。それを記念してTVドラマのオールタイムベストランキングを作るというのが、この本の企画だ。ランキングと言っても視聴率ランキングではない。この本の中にも掲載されているが、視聴率ランキングにすると、NHKの朝のテレビ小説や大河ドラマが上位を占めてしまうため、偏りすぎておもしろみがまったくない。視聴者へのアンケートという方法もあるが、あらゆる地域・あらゆる世代から均等に回答を入手しない限り、公平なランキングを作ることは難しい。そこで、TVガイドでは、日本放送作家協会・協会員のシナリオライター・放送作家にアンケートを実施(2019/12〜2020/1)、150名の回答結果を集計してランキングを決定した。
「記憶に残っているドラマ10本を挙げて下さい。」

 正直、150名の回答結果で公平性が保てるのかはわからない。150名の年齢構成によっては、やはり偏りが出てくる恐れは否めない。それでも、たんなる不特定多数の視聴者による投票よりも同業者による投票の方が、「いい仕事をしたな」と思われるようなテレビドラマがひととおりランキングに入ってくるだろう。ベスト10は以下のとおりだ。
1.北の国から(1981年フジテレビ) 37票 倉本聰
2.ふぞろいの林檎たち(1983年TBS) 36票 山田太一
3.傷だらけの天使(1974年日本テレビ) 32票 市川森一・鎌田敏夫ほか
4.阿修羅のごとく(1974年NHK) 29票 向田邦子
5.前略おふくろ様(1975年日本テレビ) 28票 倉本聰
6.太陽にほえろ!(1972年日本テレビ) 27票 小川英ほか
7.岸辺のアルバム(1977年TBS) 24票 山田太一
8.3年B組金八先生(1979年TBS) 23票 小山内美江子
9.あまちゃん(2013年NHK) 22票 宮藤官九郎
10.夢千代日記(1981年NHK) 21票 早坂暁

 どれも、名だたる名作ドラマがランキングされている。1970年代の作品が圧倒的に多いのは、年齢差を越えて幅広い世代の同業者たちから支持された作品が上位に来ているということだろうか。好奇心ややる気に満ちている20代、30代の若いライターたちが、昭和のドラマを再評価している事がランキングに反映しているとも言えそうだ。逆に、年齢が上がるにつれ、最近のドラマを評価しない傾向があるかもしれない。その意味では2013年のドラマ「あまちゃん」がベスト10に入ってる事は特筆すべき事だろう。昭和と平成との2世代・3世代を描いた事と、震災の問題から目を背けずに描ききった脚本の見事さが評価されたのだと思う。また、単に70年代〜80年代のドラマが目立つというだけでなく、ビッグネームの脚本家による作品が選ばれているという点も、玄人(同業者)ならではのランキングの特徴になっている。山田太一、倉本聰、向田邦子、そして早坂暁、鎌田敏夫、市川森一など、昭和を代表するドラマをそれぞれ何本も作ってきた作家たちだ。

 この中では「北の国から」「ふぞろいの林檎たち」「傷だらけの天使」「太陽にほえろ!」「岸辺のアルバム」「3年B組金八先生」の6作品は、よく見ていた。特に山田太一脚本の作品は、「男たちの旅路」以降、ドラマの持つ力を実感させてくれる作品ばかりで、熱心に見てきた。多摩川決壊で一戸建てのマイホームが流された実際の災害映像で始まる「岸辺のアルバム」は、とりわけ衝撃的だった。市井に生きる僕たちの暮らしは、いともたやすく瓦解する事を山田太一作品はなんどもなんども描き、同時にそういう平凡で普通の生活を生きる人々はなんどもなんども立ち上がって再生できる事をドラマの中で見せてくれた。

 「傷だらけの天使」は違う意味で衝撃だった。今なら、高度成長期の日本から落ちこぼれていくチンピラの若者二人の悲哀を描いた作品だと言えるが、当時はまだ子供だったので、よく理解せずに見ていた。よくはわからないし、単なる勧善懲悪の物語でもないし、主人公のちっぽけな正義がまかりとおるわけでもない。そんな理不尽な日常を生きるチンピラ二人の「カッコ悪い人生」がたまらなく愛おしかった。

 「3年B組金八先生」は、それまでにあった学園ドラマとは一線を画していた。「青春とはなんだ」「飛び出せ青春」「われら青春」などのような日テレ系の青春ドラマが当たり前だった僕らの前に、中学校を舞台にした非常にリアルなドラマが現れた。もちろんNHKに「中学生日記」という先駆け的番組はすでにあったが、実際の中学校を取材した再現ドラマのような非常にまじめな内容で、どちらかというと問題提起で終わってしまうのが、ドラマとしては歯がゆかった。「金八先生」の第一シリーズは、その後のお約束になっていくジャニーズの若手の登竜門的なキャスティングとか、ミュージシャンでありながら演技もできる武田鉄矢を筆頭とした個性的な先生たちのキャスティングに寄りかかった演出が見られたが、実際に中学生の息子を育てながら書いていた小山内美江子の脚本は、カウンターブローのようにじわじわと観る者の心に効いてきた。第二シーズンともなると、様々なタイプの中学生ひとりひとりに目配せしたきめ細やかなドラマ作りがなされて、「金八先生」の魅力となった。

 「北の国から」「ふぞろいの林檎たち」についてはいまさら僕が語る事はないように思うが、「太陽にほえろ!」が6位に入ったのは、他のドラマと比べてちょっと意外だった。日活が生んだ最大のスター俳優・石原裕次郎が新宿・七曲署の刑事課のボスを演じた意味を、当時の僕は知るよしもなかったが、個性的な刑事が集まって事件を解決していく刑事ドラマの、今に続くいわば原点の姿が、この「太陽にほえろ!」にあるのは言うまでもない。その後、あまりにも多くの人に語り尽くされてきたために、いかにこのドラマのお約束に従わないで刑事ものを作れるかが、後発の番組の課題になった。その最たるものがフジテレビの「踊る大捜査線」だっただろう。取り調べ室といえば「カツ丼」というフォーマットをテレビの見過ぎだと揶揄したり、裏事情に精通している人物にポケットマネーを渡して情報を引き出す事も、コンプライアンスとの葛藤という新たな見せ場にしたりした。

 「太陽にほえろ!」と言えば、ショーケンの演じたマカロニに始まる新人刑事の殉職が売りのドラマのように言われる事が多いが、新宿の街なかを犯人と刑事たちとが走り回るシーンをおそらく許可なしに撮影した臨場感が圧倒的だった。高度成長期の日本の達成と歪みがあふれだした東京の悲鳴のような風景を切り取ってドラマにしたのが、「太陽にほえろ!」だ。70年代にテレビっ子だった自分は、そんなドラマを当たり前のように見て育ったので、これまであまりに褒めそびれてきたようだ。改めて正当に評価されて嬉しい。蛇足ながら、このドラマの持ち味は、その後「大都会」に引き継がれて、「大都会パート2」でピークに至る、と僕は思っている。

さて、11〜100位を足早にたどろう。正直、票数がばらけているので、ここからは順位は問題ではない。でも、それでも「何故この順位?」とか「何故これがランクイン?」という疑問は尽きないが…。ベストテンの10本を合わせると、100作中54本は、僕の記憶に、というか印象に残っていた。

おしん(1983年NHK)
時間ですよ(1970年TBS)
 演出家・久世光彦のエンターテイメントに満ちた人間ドラマはここに始まる。銭湯が主役のドラマだった。
警部補・古畑任三郎(1994年フジ)
男たちの旅路(1976年NHK)
 特攻で死にそびれた男に「俺は君たち若い者が嫌いなんだ」と言わせる事から生まれる人間ドラマ。
木枯し紋次郎(1972年フジ)
 「あっしにはかかわりのないことで」と言いながらも他人の人生に関わってしまうアウトサイダーを描いた。
王様のレストラン(1995年フジ)
天下御免(1971年NHK)
 本当は僕にとっての永遠のベストかもしれない幻のドラマ。山口崇扮する平賀源内と取り巻きたちの活きる江戸は素晴らしい!
JIN-仁~(2009年TBS)
半沢直樹(2013年TBS)
俺たちの旅(1975年日テレ)
 学園ものの先生役でデビューした中村雅俊が、青春と人生のはざまで迷う。人生の輝きとほろ苦さを教えてくれた作品。
相棒(2002年テレ朝)
帰ってきたウルトラマン(1971年TBS)
 特撮ものでの1位。なぜ「ウルトラセブン」ではないのだろう。おそらくだが、戦争の影から開放された世代にとってのベストか。
逃げるは恥だが役に立つ(2016年TBS)
 長らくドラマを見なくなってからの僕にとっての、恋愛ドラマの金字塔。サブキャラの一人ひとりが愛おしい。
ウルトラセブン(1967年TBS)
 何故?なぜ「帰ってきた」の次。シューマンのピアノ協奏曲のエンディングで泣ける最終回。
西遊記(1978年日テレ)
探偵物語(1979年日テレ)
キイハンター(1968年TBS)
 野際陽子にドキドキした小学生がかつてはいたんだよ。それに、今や関根勤のモノマネの中でしか登場しないアクションスター千葉真一の躍動感!
熱中時代(1978年日テレ)
 今や杉下右京と呼ばれる水谷豊は、長らく「熱中時代の北野先生」と呼ばれていたんだよ。小学校の熱血先生だった。
池中玄太80キロ(1980年日テレ)
 何をやっても器用な演技派・西田敏行の出世作。亡き妻の連れ子3人に嫌われながら、参観日で娘たちの良さを泣きながら熱弁するシーンは、今書きながらも泣けてくる。
早春スケッチブック(1983年フジ)
 「おまえら骨の髄までありきたりだ」。そう突きつけられた生活者・山田太一が出したアンサードラマ。
独眼竜政宗(1987年NHK)
 何故「武田信玄」じゃない!
細うで繁盛期(1970年よみうり)
タイムトラベラー(1972年NHK)
飛び出せ!青春(1972年日テレ)
スクール★ウォーズ(1984年TBS)
鬼平犯科帳(1989年フジ)
結婚できない男(2006年関西テレビ)
 偏屈でやりたいように生きる男。でも小市民的で愛すべき一面があるところを見逃さないドラマ作りの勝利。
カルテット(2017年TBS)
 坂元裕二という脚本家を意識して見たことがなかったので本当に驚いた。「ラストクリスマス」「それでも、生きてゆく」も、か。納得。
ウルトラQ(1966年TBS)
思い出づくり。(1981年TBS)
 本当は「ふぞろい…」よりも、もっともっと評価されてしかるべき作品。
ながらえば(1982年NHK)
 山田太一作品の到達点。あの笠智衆をさいごに泣かせた。
101回目のプロポーズ(1991年フジ)
 何故、66位?と言いたくなる。西村由紀江アレンジの「ショパンの別れの曲」、チャゲアスの主題歌「SAY YES」、音楽もドラマも、もうこれ以上ないくらいのベストマッチ。
踊る大捜査線(1997年フジ)
 仕事で疲れて帰って何気なくテレビをつけたら、刑事が撃たれて織田裕二たち仲間が雨の中這いつくばって薬莢を探していた。伝説のドラマにラス前で遭遇して、目が離せなくなった。
HERO(2001年フジ)
愛していると言ってくれ(1995年TBS)
TRICK(2000年テレ朝)
ガリレオ(2007年フジ)
孤独のグルメ(2012年テレ東)
気になる嫁さん(1971年日テレ)
 男兄弟ばかりの大所帯の末っ子がかわいい嫁さんを連れてきた。その後の少女漫画の定番の設定をもりこんだドラマ。
雑居時代(1973年日テレ)
 もじゃもじゃ頭の石立鉄男が、女兄弟ばかりの大所帯と同居する。「パパと呼ばないで」に続く人気ドラマ。
新八犬伝(1973年NHK)
 今はなき坂本九が闊達に語り継ぐ八犬伝にしびれた!
われら青春!(1974年日テレ)
 熱血で泣き虫の中村雅俊先生を応援したくなる。主題歌「帰らざる日のために」、弾き語りの挿入歌「ふれあい」は、いずみたく作曲の名曲だ。
ショムニ(1998年フジ)
ゆとりですがなにか(2016年日テレ)

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2021年03月14日

日本語から「い」がなくなる?

「あつっ!」「やばっ!」「さむっ!」

 確かに「い」が消えている。「熱い」「やばい」「寒い」のように日本語の形容詞はほとんどが「い」で終わるので、一見すると「い」がなくなってしまうのではないか、と思う人がいるのかもしれないなぁ。ってそんなことあるかっ!

 筒井康隆の小説「残像に口紅を」では、文字が一つ、また一つと消えていって、文字の消失と共に世界が消えていく。まさに世界とは文字によって、あるいは名付けによって生まれているというハイデガーのような世界観を体現した作品だった。しかし、「い」が消えていくときは同時的にいっせいに消えるのであって、たかだか形容詞の活用語尾だけが消えていくわけではない。

 しかも、よくよく考えてみると、形容詞の語尾の「い」であってもなんでもかんでも省略できるわけではなさそうだ。「やさしい」「美しい」などの「〜しい」で終わる形容詞は、あいかわらず「やさしっ!」「美しっ!」とは言わなそうだ。「きれい」や「大きい」も「きれっ!」「大きっ!」と言えるかどうかも微妙だ。いや、すでに僕の口語感覚が古くなって、最近のティーンエイジャーは言っている可能性はあるが、あまりテレビでも街中でも聞いたことはない。そもそも「なんの話なの?」って事だが、一昨日の夕方のフジテレビのニュースで採りあげられた話題だった。扇情的な見出しだったが、別に国語学者が言い出した話ではなく、口呼吸を改善する「あいうべ体操」なるものを推奨するお医者さんの主張に安易に乗っかっただけのニュースだったわけだ。CM明けまで待たされた身としては、かなりがっかりさせられた話題だった。

 とはいえ、こうして話題に乗っかった記事を書けるきっかけにはなったので、無駄という事ではない。もうちょっと考えてみよう。形容詞の末尾の「い」、つまり終止形の「い」が消える事はあっても、連体形の「い」が消える事はないだろう。「あの店のパンケーキ、やばっ!」とは言えても「やばっパンケーキの店ができたって」とは言えない。ああ、でも「超やばなパンケーキの店ができたんだって」とかは言うのかな。でも、その場合に「やば」は形容詞ではなくて形容動詞と化しているわけで、しかも「やば」が単独で使えるのではなくて、「超」を付けて形容詞化したわけだから、ちょっと違うな。やはり、連体形の「い」は消えていない。

 アプローチを間違えているかもしれない。さっきから「やばっ!」「あつっ!」のように必ず文末に!を付けているように、強調表現、というか強勢として形容詞を使う際に、最近の若い世代は「やばいっ!」「あついっ!」とは言わずに「い」を省略する傾向があるというのが正しいアプローチだ。でも、そんな事は今さら取り立てて言うほどのことではない。この数十年で、言葉を省略したり圧縮したりする事が想像以上に進んだのは明らかだ。僕が社会人になった頃には「ら抜き言葉」は、美しい日本語論者にとっては悪そのものだったけれど、すでに「着れる」「見れる」については決着が付いていた。「食べれる」あたりにはまだまだ抵抗感があったけれど、注意しないと自分でも「ら抜き言葉」は口をついて出るような感じだった。

 その後、それまでは「リモコン」「パソコン」などの、主に長い外来語を省略するための用法が、長い日本語のフレーズを省略するのに使われ出した。その初期にあたるのが「セカチュウ」ではないかと思う。「世界の中心で愛を叫ぶ」というとてつもなく話題になった純愛ドラマもしくは小説を、いつしか「セカチュウ」と呼ぶようになった。「セカチュウ」はすべてカタカナにして、まだ意識としては従来の外来語の省略技法にのっとっているけれど、いまや「逃げ恥」「つづ恋」のように表記をそのまま圧縮して、正式タイトルと略称が併存するのが当たり前になった。最初から「リモラブ」のように略称をタイトルにするドラマまで現れた。

 そこへ来て「い」がなくなる、いや正しくは終止形の「い」がなくなる。まったく問題ありません。そもそも口語表現としては文末に様々な工夫をしてきたわけで、「熱いな」「熱いね」「熱いよ」などの終助詞をつけて主観や同意を表現したり、「熱いぃぃぃ」のように文末を伸ばしたり、「熱いっっ」のよう詰まるように発音したりして、自らの気持ちを周囲に伝えようとしてきた。その一端が「い」の省略として現れたに過ぎない。「熱い!」というより「あつっ!」って言った方がリズミカルだし、気持ちにフィットしてる。いいんじゃないですか。
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2021年02月25日

ヴェジタリアン?それともヴィーガン?

 嫁さんから「今さらだけど英語を勉強しなおす意味あるかな?」と、食事中にボツリと言われた。確かに今さらだけど、「原書でミステリーを読む」事を最近の楽しみにしている僕としては「もちろん、あるよ」と言いたいところだけれど、それは個人的な趣味なわけで、人にオススメする理由にはならない。そもそも仕事と絡めて、やれヒアリングだ英会話だと気負うと、せっかくの楽しみが失われてしまう。日本語同様、英語を言語として楽しみたい。僕のモチベーションはそこにあるわけで、英文解釈の力をみがいて、好きなミステリーを原文で読む事につなげようとしている。まあ、英文解釈力アップの過程で、仕事で必要となる海外の文献調査に生かせるといいなという下心がないわけではないけれど。

 よくよく聞いてみると、職場での会話で耳慣れない英単語が飛びかっているのが気になっているらしい。嫁さんの仕事は庶務だから、まわりに囲まれている技術者たちの会話に出てくる専門用語にいちいち付き合う必要などないのだ。ただし、日常生活で使われる外来語は日々更新されているわけで、そこは押さえていった方がいいんじゃないかな。現代用語の基礎知識とか、最近よく使われるカタカナ語辞典とか、そんなたぐいの書籍を読んでみたらどう?とアドバイスした。嫁さんは一応納得したようで、図書館で探してみると言った。偉そうにアドバイスしたけれど、僕自身、職場で出てくる英単語やカタカナ語をすべて受け止め切れているわけではない。時には知ってるフリをしてやり過ごしている。アルファベットだけの略称ともなると、もうお手上げ状態だ。カタカナ語の本で「お勉強」する必要があるのは僕も同じだ。でも、こちらも仕事と絡めるのではモチベーションが上がらない。仕事への活用は、あくまで言葉への関心の延長線上に置いておきたい。

 音楽ユニットEE JUMPで人気だったソニンの記事を最近読んだ。芸能活動20周年だそうだ。人気絶頂の時にユニットは解散せざるをえなくなって、彼女自身も芸能界に身の置き場がなくなってしまい、いろいろとあったが、今は舞台女優としてがんばっているようだ。記事の中で「ヴィーガン」である事も告白している。ヴィーガンって最近よく聞くけれども、そういえばちゃんと理解していないよなぁと改めて気づいた。ヴェジタリアンはよく知ってるけど、ヴィーガンはそれよりも新しいトレンドなんだっけ?何が違うんだっけ?記事には「ヴィーガン(完全菜食主義)」と書いてある。やはり僕同様、但し書きが必要な人が多い外来語なんだ。完全菜食主義というからには、野菜しか食べないという事だよね。一見、それで本当に大丈夫って思ったけれど、タンパク質は大豆などでとれるし、米や小麦で炭水化物つまり糖類もとれる。脂質はどうする?ってサラダ油やオリーブ油って植物じゃん。つまり、肉や魚などから簡単に効率よく取れる栄養素を、野菜だけで摂取する事を選択したのがヴィーガンのようだ。それができてしまうのは、やはり最新の科学技術の恩恵があってのことだろう。単純に太古からの生活習慣に戻すということではない。

 でもヴィーガンが「野菜しか食べない」とすると、あれ?ヴェジタリアンはそうじゃないって事?そうか、よく知ってるようで知らなかったのはヴェジタリアンの方か。ヴェジタリアンは、肉や魚は食べない。でも、野菜だけしか食べないわけじゃない。卵や乳製品はOK。ってホントか?ここは、ちゃんと覚えておこう。「日本ベジタリアン協会」では、次のような種類を記載している。
1) ビーガン (Vegan)、ピュア・ベジタリアン (Pure-Vegetarian:純粋菜食)
2) ラクト・ベジタリアン (Lacto-Vegetarian:乳菜食)
3) ラクト・オボ・ベジタリアン (Lacto-Ovo-Vegetarian:乳卵菜食)
4) その他

この分類では、「ヴィーガン」もヴェジタリアンの種類の一つに位置づけられている。ちなみに、一般的なヴェジタリアンは分類3)で、欧米のほとんどのヴェジタリアンは、ここに分類されるようだ。また、分類4)の「その他」では、魚を食べたり、あるいは鶏肉はOKというヴェジタリアンも存在する。「国際ベジタリアン連合」(IVU)という組織では、これらはヴェジタリアンとは認めていないようだ。という事は、この「種類」はヴェジタリアンの定義というわけではなく、あくまで分類に過ぎない。そもそもヴィーガンの立場からすると、自らをヴェジタリアンと思われる事に抵抗がある可能性も考えられる。

 ヴィーガンに分類される人には、まっさきに「人のために動物を搾取したり苦しめたりする事をやめたい」という理念があるようだ。だから肉類を取らないだけでなく、卵や乳製品も蜂蜜も「搾取」にあたるので取らない。さらには栽培や加工の過程で動物への「搾取」が判明すると、それらも取らなくなるらしいので、こうなると単に健康志向というわけではなく、主義主張という側面が強くなる。ヴェジタリアンとひとくくりにされるのは、まじめなヴィーガンにとっては不服だろう。日本には昔から精進料理というのがあって、これらも仏教の理念で「無用な殺生を避ける」という考え方から生み出された僧のための食事なので、ヴィーガンのそれと近い。ただし、精進料理は宗教上の理念に基づき、一方のヴィーガンは倫理的な理由に基づいているので、理念としては対立する部分があるはずだ。そう簡単な話ではない。これ以上は、軽々しく推測で口をはさむ事ではない。もう少し、ちゃんと理解をしてからにしよう。

 ちなみにヴェジタリアンを菜食主義者と訳す事が多いので、「ヴェジタブル(野菜)を食べる人」だと理解してきたが、必ずしもそうではないらしい。「健全な、新鮮な、元気のある」という意味のラテン語「vegetus」に由来するという説もあるそうだ。そもそも「vegetable」が「vegetus」由来の言葉なんじゃないの?という気はするが、まあいいだろう。僕は僕で健康のために「肉」も食べます。もちろん、野菜も卵も乳製品も蜂蜜も、ね。
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2021年02月07日

筒美京平 Hitstory Ultimate Collection 1967~1997(vol.1 DISC4)(その2)

 当時、日曜のお昼どきと言えば日本テレビの「スター誕生」を見るのがティーンエイジャーの当たり前だった。花の中3トリオで売り出すことになる森昌子、桜田淳子、そして山口百恵も、みんな「スター誕生」出身のアイドルだった。そして、岩崎宏美もこの番組からデビューしたアイドルの一人だ。彼女はデビュー当時からアイドルと呼ぶのが憚れるほど抜群に歌がうまかった。それだけでなく、デビュー曲から出す歌、出す歌、聞き心地がよくて歌いやすく、ヒットを連発した。Wikipediaによると同期は太田裕美、岡田奈々、片平なぎさだ。大田は一年早いデビューだと思うが、ほぼ同期と言っていいだろう。筒美さんは同時期の新人アイドル二人にデビュー曲から曲を提供し続けたわけだが、順調なスタートダッシュをきったのは岩崎宏美の方だった。彼女は、またたくまにトップアイドルに躍り出た。僕は当時、岡田奈々のファンだったのでアイドルとしての岩崎宏美には関心がなかったが、彼女の曲自体は好きだった。当時は気づいてなかったが、筒美作品だったのだから好きになるのは当然だったわけだ。そのデビュー曲から3作目までが、このDisc4に収録されている。

 デビュー曲は「二重唱(デュエット)」だ。アイドル時代の岩崎宏美の代表作と言えば2作目の「ロマンス」の方が有名だが、僕は「二重唱」の印象のほうが強い。解説にも書かれているように、筒美京平作品としては珍しく「サビから歌い出す"頭サビ"の形式がとられている」からだろう。筒美さんはサビだけが記憶に残るような曲作りを嫌ったようだが、山口百恵の「青い果実」などで都倉俊一が試みた同様の曲構成を意識したものだそうだ。相変わらずイントロも印象的だが、自然とサビにつながる構成も見事だし、パンチの効いたサビがテンポよく歌われるので、非常に疾走感が出ていて聞き心地がよい。

 2作目の「ロマンス」はチャート1位になり、この曲でレコード大賞新人賞を獲得した。この曲は、担当ディレクターの意向で「当時流行していたヴァン・マッコイなどのディスコ・サウンドを取り入れる」ように筒美さんに依頼があったようだ。ディスコ・サウンドを取り入れているという解説を読んで、ちょっと意外だった。素人の僕が聞く限り、「ロマンス」をディスコ・サウンドだと感じた事は一度もなかったからだ。あらためて音作りに注目しながら聞いてみると、そう思えるところが確かにあった。ヴァン・マッコイというと、なんと言っても「ハッスル」だろう。「ハッスル」というのは、マンボ・ジルバなどと同様、踊るためのリズム形式の一つだと理解しているが、当時の僕にとっては、まず「ハッスル」という曲だった。僕はその頃は歌謡曲からフォークへと関心が広がりだした頃で、洋楽については疎かった。同級生にヤンキーがいて、彼の家で「ハッスル」を聴かされて、踊り方も教えてもらった。確かヴァン・マッコイの「ハッスル」のレコードに振り付け(と言っても足の運び方だけだが)が載っていたはずだ。その後、マッコイがアレンジしたスタイリスティックスの「愛がすべて(Can't Give You Anything (But My Love))」が大ヒットした時は、シングルレコードを買うほどにハマった。「愛がすべて」をよくよく聴くと、バックに「ハッスル」のメロディラインが流れている。「ロマンス」の間奏でも変奏された「ハッスル」がフレーズとして入り込んでいるのがわかる。

 3作目の「センチメンタル」は、誰が聴いてもイントロからディスコ・サウンドをベースにしていることがわかるだろう。解説にも3曲中完成度が頂点を極めていると書かれている。当時は、大ヒット曲の次の曲はなるべく前作を踏まえて似た雰囲気の曲を出すという慣習めいたものがあった。つまり、期待度が高いので、似た曲を続けて出せばそれなりにヒットするという事だったと思う。でも、筒美サウンドにそんな手抜きはなく、あくまでも新しい試みやさらなる完成度の向上を目指している。ちなみに、岩崎宏美の8作目までは阿久悠・筒美京平コンビで作られているが、阿久悠は岩崎宏美の「本格派歌手」のイメージが自分の目指すものとは違っていると感じて、最初は断っていたそうだ。当時、都倉俊一とコンビで担当することになっていた黒木真由美の方に可能性を感じていたというのも断った理由の一つだったが、結局は依頼に応えることになった。「二重奏(デュエット)」はオケ録りまで完成していた曲に数日で歌詞をつけたらしい。

あなたがいて 私がいて
ほかに何もない
ただ秘密の匂い たちこめるだけ
(二重奏(デュエット))

あなたお願いよ 席を立たないで
息がかかるほど そばにいてほしい
あなたが 好きなんです
(ロマンス)

ときめく胸を あなたに伝えたいの
好きよ 好きよ 好きよ
(センチメンタル)


 ところで、Disc4にはディスコ・サウンドのインストゥルメンタル作品として「セクシー・バス・ストップ」が入っている。あの浅野ゆう子がアイドル時代に歌った曲だ。洋楽のカバーと言ってもいいくらいのノリのいいディスコ・サウンドだが、当初はヴァン・マッコイの「ハッスル」のような作品を国内で作るという企画だったらしい。しかもオリエンタル・エクスプレスという架空のグループ名を用いて、作曲者名も伏せて、あくまで洋楽として売り出した。本作に1ヶ月遅れるかたちで日本語歌詞を橋本淳に依頼して、浅野ゆう子が”カバー”した体になっている。インストの方は記憶にないが、浅野ゆう子の歌の方はとても印象に残っている。いしだあゆみと同様に、すっかり女優になってしまった彼女の生歌を聴く機会は残念ながらもう来ないだろう。

 Disc4にはアルフィー「夏しぐれ」やオフコース「忘れ雪」などの、後のビッグなアーティストたちへの提供曲も含まれているが、当時は耳にした事がなかった。まだ、ニューミュージック前夜という時期で、アルフィーにしてもオフコースにしても、歌謡曲という枠組みの中で方向性を模索していた時代だった。どちらの曲も筒美サウンドとしては名曲だが、叙情派フォーク調というところがアルフィーにもオフコースにもマッチしていなかった。もちろん、その後の彼らの活躍を知るからこそ言える話だ。アルフィーがブレイクするのは16作目「メリーアン」(1983年)からだし、オフコースは「忘れ雪」の次の7作目「眠れぬ夜」、さらに15作目「愛を止めないで」(1979年)がスマッシュヒットし、17作目「さよなら」(1979年)でようやく大ブレイクすることになる。

 台頭してきたニューミュージック勢への楽曲提供という意味では、この時期もっとも成功した例は、中原理恵「東京ららばい」と庄野真代「飛んでイスタンブール」だろう。中原理恵自身はシンガーソングライターではなく、札幌でスカウトされた「モデルみたいにトんでる女」に都会的なサウンドの曲を歌わせるというコンセプトのもと、山下達郎、吉田美奈子などによるアルバムが制作されたが、シングルカットする曲ができなかったので、松本隆・筒美京平コンビに依頼がきたそうだ。当時は「東京ららばい」を歌謡曲として普通に聴いていたが、異色作だった事は間違いない。今聴くと、都会のバーで出合った男女の掛け合いを描く前半は、夜の酒場での風景という歌謡曲にありがちなモチーフだが、後半の「東京ララバイ…」で始まる歌詞は、都会で生きる若者の孤独感や閉塞感が、「地下」や「ビル」あるいは「部屋」「窓」といった無機質なオブジェに託されていて、松本さんのセンスが光る歌詞になっている。

 「飛んでイスタンブール」は庄野真代最大のヒット曲だ。解説にはヤマハのポプコンを経ていると書かれているが、正直そのイメージはなかった。Wikiで調べるとたしかに74年、75年に入賞している。それがきっかけで76年にデビューしているが、5作目の「飛んで…」がチャート3位の大ヒットとなった。ちあき哲也の歌詞は、タイトルの「イスタンブール」に合わせて脚韻を踏む語呂合わせになっている。詞先なのかと思いきや、あの軽快なメロディは筒美さんがストックしていたモチーフをベースにした曲先によるものなのだそうだ。この曲のシングル盤は家にあった。僕が買ったのか兄が買ってきたのか記憶が定かではないが、「イスタンブール」という異国情緒が感じられる音作りにとてもハマった。あの印象的な弦楽器の音はギリシャの民族楽器ブズーキによるもので、筒美さんから「何か変わった音を入れたい」という指定があったそうだ。庄野真代さんの次のシングルは「モンテカルロで乾杯」。まさに二匹目のドジョウを狙った企画で、再びちあき・筒美コンビによる楽曲。しかも筒美さんはアレンジも担当している。こちらのシングル盤も家にあった。これは間違いなく僕が買った。二匹目狙いではあるけれど、大好きな曲だ。


東京ララバイ
地下がある ビルがある
星に手が届くけど
東京ララバイ
ふれ合う愛がない だから朝まで
ないものねだりの子守歌
(東京ららばい)

おいでイスタンブール
うらまないのがルール
だから愛したことも
ひと踊り風の藻屑
(飛んでイスタンブール)


Disc4
よろしく哀愁/郷ひろみ 1974
甘い生活/野口五郎 1974
雨だれ/太田裕美 1974
夏しぐれ/アルフィー 1974
忘れ雪/オフコース 1974
にがい涙/スリー・ディグリーズ 1975
誘われてフラメンコ/郷ひろみ 1975
二重唱(デュエット)/岩崎宏美 1975
ロマンス/岩崎宏美 1975
センチメンタル/岩崎宏美 1975
木綿のハンカチーフ/太田裕美 1975
やさしい都会/平山三紀 1976
セクシー・バス・ストップ/オリエンタル・エクスプレス 1976
ラブ・ショック/川ア麻世 1977
哀愁トゥナイト/桑名正博 1977
しあわせ未満/太田裕美 1977
恋愛遊戯/太田裕美 1977
九月の雨/太田裕美 1977
東京ららばい/中原理恵 1978
飛んでイスタンブール/庄野真代 1978

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2021年01月29日

死神の棋譜 奥泉光(新潮社)

 息子が小学生の頃は、一時期週末は将棋漬けの毎日だった。ふとしたきっかけで将棋に関心をもち、みるみるうちに上達し、駒の動かし方も入門書で再確認しながらの僕では歯が立たなくなり、幼児向けの将棋教室に通わせるようになり、それに飽きたらなくなると、もっと上を目指すためにわざわざ千駄ヶ谷の将棋会館のスクールにまで通うことになった。おかげで待ち時間をぶらぶら過ごすうちに将棋会館周辺の様子はなんとなく頭に入ってしまった。同じ頃に「3月のライオン」の連載が始まり、主人公の桐山が義理の父との対局に勝利した帰りに、心の痛みから慟哭する国立競技場脇の公園の風景が手に取るようにわかってしまい、一読者以上に思い入れをもつことになったりした。ありえないことだとは思いながら、このまま才能が開花した場合の本人のつらさや親としての苦しみは、どのように回収されていくのだろうと、息子の将来を思い描いた。

 もちろん、我が子は羽生さんでも藤井くんでもなく、いや、奨励会に通う可能性が残る選ばれたエリートたちでもなく、周囲のたいていの人よりは将棋が強い、つまりは普通の高校生になった。本人は今でもネットで将棋を指すし、プロが指す対局の録画を見ては偉そうに批評したりはするけれど、もう七夕の短冊に「プロの将棋指しになりたい」などと書くような夢はもっていない。そのことに親としてホッとする反面、将棋指しを目指してもがき続ける生き方が存在するという現実を、もはや人ごとのようには感じられなくなった。将棋に詳しくない人にとっては、将棋とは歌舞伎や能などと同じような日本の伝統文化の一つに過ぎないかもしれないが、現実に将棋に向き合っている人たちにとっては、ピラミッドの頂点へと登り詰めるには自らの実力しか頼るものがない、知的で容赦のない格闘技だ。しかも、少しでも油断すれば、あっという間に奈落の底に落ちていってしまい、二度と同じ土俵には戻ってこられない。そんな日々に棋士たちは立ち向かっていかなければならない。

 しかし、そもそもピラミッドの底辺にすらたどり着けずに幼い頃から抱いた夢を捨てねばならないとしたら、その後の人生はどんなものになっていくのだろう。プロの将棋指しになるのに年齢制限があるという事実を、息子が将棋にのめり込むようになって初めて知った。プロの将棋指しの養成所である奨励会で切磋琢磨するプロ候補生たちは、26歳までに四段になれなければ退会を余儀なくされる。彼らは二度とプロ棋士になれない、いや、なれなかった。過去形なのは、近年、アマチュアで活躍しながら特別編入試験(プロ棋士との対局)で勝ち越してプロ棋士になる道が拓けたからだ。それでもなお、プロになるまであと一歩の候補生たちにとって年齢制限という過酷な現実は、高い壁としてたちはだかっている。

 ただでさえ、一般の人からは異能集団と見られるプロ棋士たちだが、将棋の世界特有の制度ゆえに関心がもたれる事も多い。将棋を題材とした小説が書かれる場合には、対局の攻防のサスペンスや暗号めいた棋譜をモチーフにしたミステリーになるか、あるいはプロになれなかった者の人生を描いたドラマになるかのいずれかになることが多いように思う。しかし、本書では、そのいずれをも取り込んでいて、ミステリーファンも将棋ファンも満足させるようなストーリーを見事に構築している。奥泉さんは「モーダルな現象」でも、忘れ去られた作家の未発表原稿にまつわるカルト的な物語を書いているが、あの作品の主人公というか狂言回しは、桑潟幸一助教授というさえない男だった。物語自体は悪夢のような話なのに、桑幸の憎めないキャラクターとのミスマッチのせいで、気が滅入ることなく最後まで読み進められる作品になっていた。

 本作では、奨励会三段リーグで年齢制限の壁に阻まれた者を主人公に据える事で、よりいっそう重苦しい雰囲気をまとわせ、さらには現代の将棋連盟にいたるまでの裏面史として登場する棋堂会という架空のカルト集団を描くことで、現実と妄想との境界がどんどん曖昧になっていく。「死神の棋譜」と呼ばれる棋堂会考案の詰め将棋は、普通ならば不詰め(詰みに至らないできそこないの詰め将棋)なのに、わかる者だけにはわかる将棋の迷宮が隠されている。そして、それを解いたとおぼしき奨励会生は失踪してしまう。失踪した男を訪ねて北海道の棋堂会の本拠地だった奥地の洞窟にたどり着いた主人公は、そこで「死神の棋譜」の謎を解き明かす「祭壇」を幻視してしまう。そこでは、「詰め将棋が解けた者は棋堂会まで来るように」という呼びかけに応えた人として、歴代の名人たちが実名で描かれる。そのストーリーの大胆さに、将棋ファンであれば思わず快哉を叫ばずにはいられない。

 そして、エンディングでは、かつて読んだセオドア・ローザック著「フリッカー、あるいは映画の魔」ほどではないにしても(あの小説は二度と読みたくないほどの悪夢だ)、それに準ずるぐらいには気の滅入るような悪夢が待ち受けている。



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2021年01月18日

筒美京平 Hitstory Ultimate Collection 1967~1997(vol.1 DISC4)(その1)

 昨年末の29日にテレビ朝日「林先生の今でしょ2時間スペシャル」で、爆笑問題・田中がセレクトした筒美京平ベスト20を紹介していた。その中で、編曲家・武部聡志が「無駄なメロディが全くない」と絶賛していた「よろしく哀愁」を、大晦日の紅白歌合戦で郷ひろみが筒美さんを追悼して熱唱していた。このDISC4は、その曲からはじまる。「無駄なメロディが全くない」というコメントには僕も完全に同感だが、その点について補足説明があまりなかったので、発表当時の衝撃を知らない若い世代にはわかりにくいかもしれない。僕なりに噛み砕いてみる。歌には何度も味わわなければ良さが伝わってこない曲もあるし、サビ前のメロディ(Aメロディなど)は覚えてないがキャッチーなサビはいつまでも心に残る曲もある。でも、「よろしく哀愁」はイントロから間奏・エンディングに至るまですべてが一気に記憶に残る曲で、どこをとっても魅力的なメロディラインから構成されている。しかも本メロとのつながりもわざとらしいところがなく、なめらかにつながっていて、まさに「無駄なところがない完璧な曲」と言える。だから、この曲を思い出すときは、今でもかならず印象的なイントロから口ずさんでいる。この曲は、今をときめくジャニーズ事務所初のチャート1位に輝いた。

 「よろしく哀愁」も「誘われてフラメンコ」も、まずディレクターの酒井政利がタイトルを提示して歌詞が作られた。「誘われて…」の方は、作詞の橋本淳が愕然としたそうだ。無茶ぶりが過ぎたせいだろうか、歌詞にはフラメンコを想起させるものは「フラフラ」というオノマトペしかない。この頃は詞先・曲先以外に、プロデューサーからのタイトル先というのがあったのが驚きだ。
会えない時間が
愛 育てるのさ
目をつぶれば 君がいる
友だちと恋人の境を決めた以上
もう泣くのも平気
よろしく哀愁
(よろしく哀愁)

誘われてフラフラ 乱されてユラユラ
誘われてフラフラ 乱されてユラユラ
(誘われてフラメンコ)

 
 郷ひろみは今の男性アイドルたちにつながる直系アイドルだが、野口五郎は20代以降の若い世代のリアルな心情を叙情的に歌い上げる歌手だった。「博多みれん」から「青いリンゴ」「オレンジの雨」で演歌路線から脱却した彼が行きついた到達点が「甘い生活」「私鉄沿線」などの一連の曲だろう。「生活」「沿線」などのキーワードから、当時流行していた叙情派フォークの影響があることは一目瞭然だろう。当時ブレイクしていたかぐや姫の「神田川」「妹」「赤ちょうちん」は四畳半フォークとも呼ばれた。都会での恋人どうしの『甘い生活』は、文字通りには甘くはない。そんなリアルな生活感と切ない心情をうたった「甘い生活」や「私鉄沿線」は野口五郎の代表曲となった。
あなたと揃いの モーニング・カップは
このまま誰かにあげよか
二人で暮らすと はがきで通知を
出した日は帰らない

 当時僕の父方の叔父一家は埼玉県の春日部に住んでいた。叔父は気さくな親しみやすい性格で好きだったが、叔母はちょっと気位が高く他人を貶める毒舌の持ち主で苦手だった。春日部出身の太田裕美のことも、彼女の特徴である舌足らず、あるいは舌足りすぎの歌唱をけなしていた覚えがある。確かに特徴的な歌い方だったのだが、それが声フェチである筒美さんのお眼鏡にかなったのだろう。デビュー曲の「雨だれ」から、後年に大田がニューミュージックに路線を変更するまでの間の曲を筒美さんが提供し続けた。もちろんピアノが弾けるという才能を活かした曲作りだったのだろう。ショパンを連想させる「雨だれ」は、魅力的なピアノのイントロから始まり、ピアノの響きと呼応するかのような透き通った大田の高音の声が絶妙だった。シングル4曲目が、松本隆・筒美京平コンビによる名曲「木綿のハンカチーフ」だが、すでに「雨だれ」から、このコンビの快進撃は始まっていたのだと改めて知った。

 「木綿のハンカチーフ」は、都会に行った男性と、田舎に残された女性との間で交わされる往復書簡を基調とするストーリー性の強い作品だ。歌詞が4番まであるため、当時「長すぎて作曲できない」と筒美さんが一度は匙を投げたエピソードが有名だ。もちろん、ここで「長い」と表現しているのは、編曲までを意識した上での発言だろう。DISC4の解説にも書かれているが、当時の歌謡曲は2コーラス半の構成が当たり前で、4コーラスで男女の対話形式になっている松本隆の歌詞は異例中の異例だった。デビュー曲から3作目までは曲先で、歌詞が筒美さんの世界観に歩み寄る形だったが、松本さんには別のイメージがあったようで、新しいアルバムに松本さんのアイディアが丸ごと採用された際の1曲が「木綿の…」だった。その異例な構成の詞にどう曲をつけたらいいかわからないのには、「名職人」である筒美さんならではの悩みがあったのだろうが、凡人の僕にはわからない。ただ、言えるのは、松本隆さんの見事な起承転結のストーリーを、重くなりすぎないように支えた筒美サウンドの軽やかさが際立つ一曲となっている。

 「木綿のハンカチーフ」の次の「赤いハイヒール」では、田舎で暮らす「そばかすお嬢さん」が出てきて、前作のテーマを引き継いでいる形になっているが、今度は(都会に暮らす?)男性がお嬢さんに一目惚れする話になっていて、前作の悲恋が報われる体裁になっているのが面白い。ちなみに松本・筒美提供曲は13枚目の「振り向けばイエスタディ」まで続く(12作目「失恋魔術師」を除く)が、このDISC4には彼女の曲が5曲も入っている、太田裕美という逸材がいたからこそ、80年代のアイドルにも多くの曲を提供し続けることになる筒美さんの真価が発揮された事の証だと思う。解説には初期の曲はピアノを中心とした「ポール・モーリア風のオーケストレーション」を採用したと書かれているが、「しあわせ未満」以降はもっとポップな曲調を採用し、「恋愛遊戯」に至ってはシティ・ポップの雰囲気が出ている。そしてアルバムの中の曲としては「異質な雰囲気の曲」と解説で取り上げられた「九月の雨」がシングルカットされる。

 「九月の雨」は、言ってよければ郷ひろみの「よろしく哀愁」同様に無駄な部分がまったくない楽曲だと思う。九月に突然に降ってくる驟雨のように、少し不穏な雰囲気を伴ったアップテンポのイントロから始まり、サビでは「セプテンバー レイン レイン」のフレーズが連呼される。これまでの太田裕美にはなかった曲調、なかったサビの連呼だが、それは男女の別れの場面での女性の悲鳴のようにも聞こえる。特に後半にメロディラインが意図的に変わる部分があって、心が叫んでいるかのような表現になっている。後に「異邦人」で大ブレークする久保田早紀にも「九月の色」という雨の歌があるが、どちらもあまりに悲しい九月の雨の風景を歌っていて、連作と言っても通用する共通点を感じる。
ひとり雨だれは淋しすぎて
あなた呼び出したりしてみたの
ふたりに傘がひとつ
冬の街をはしゃぐ風のように
(雨だれ)

恋人よ 君を忘れて
変わってくぼくを許して
毎日愉快に 過ごす街角
ぼくは ぼくは帰れない
あなた 最後のわがまま
贈りものをねだるわ
ねえ 涙拭く木綿の
ハンカチーフ下さい
ハンカチーフ下さい
(木綿のハンカチーフ)

はにかみやさん ぼくの心の
あばら屋に住む君が哀しい
しあわせ未満 しあわせ未満
あー君はついて来るんだね
(しあわせ未満)

September rain rain 九月の雨は冷たくて
September rain rain 想い出にさえ沁みてくる

愛がこんなに辛いものなら
私ひとりで生きてゆけない
September rain 九月の雨は冷たくて
(九月の雨)


Disc4
よろしく哀愁/郷ひろみ 1974
甘い生活/野口五郎 1974
雨だれ/太田裕美 1974
夏しぐれ/アルフィー 1974
忘れ雪/オフコース 1974
にがい涙/スリー・ディグリーズ 1975
誘われてフラメンコ/郷ひろみ 1975
二重唱(デュエット)/岩崎宏美 1975
ロマンス/岩崎宏美 1975
センチメンタル/岩崎宏美 1975
木綿のハンカチーフ/太田裕美 1975
やさしい都会/平山三紀 1976
セクシー・バス・ストップ/オリエンタル・エクスプレス 1976
ラブ・ショック/川ア麻世 1977
哀愁トゥナイト/桑名正博 1977
しあわせ未満/太田裕美 1977
恋愛遊戯/太田裕美 1977
九月の雨/太田裕美 1977
東京ららばい/中原理恵 1978
飛んでイスタンブール/庄野真代 1978

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