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    2024年12月05日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.2.6)

    Chapter7. It . . . that . . .「A It(形式主語) . . . 名詞節」より。

    7.2.6 All who have fought in a battle know how necessary it is that someone should be in command.
    (訳) 戦闘の経験がある人ならみな、誰か指揮者がいることがどんなに必要か知っている。
     この例文の特徴はit is necessary that …という形式主語の構文がhowを用いた感嘆文になっているため、necessaryが前方に出てしまい、it is that …という見た目になるところに注意する必要があるという点であり、それさえ押さえておけば英文解釈になんの疑問もない。ただし感嘆文の「…がどんなに必要か」のような英文臭さはどのようにすれば取れるのか。ちょっとすぐには思いつかない。少しずつ訳語を整えるところから考えてみよう。

     fight in a battleを「戦闘をする」と訳しているが、この文ではどのような「戦闘」を考えておくべきなのだろうか。戦略ゲームのようなボードゲームで繰り広げられるのも「戦闘」には違いないが、あれは一対一の対戦なので指揮者が別にいるわけではない。複数人による「戦闘」であれば、インターネット上で繰り広げられるMMORPGなどの、いわゆる協力プレイなども「戦闘」だろう。指揮者を置くと置かないとでどの程度「戦闘」の結果が違ってくるのかは正直分からない。一番分かりやすいのは戦争における「戦闘」なのだが、戦争の経験があって、さらに戦闘に参加した経験がある人はかなり限定されるので、果たしてそれでいいのかという疑問も湧いてしまう。ここは規模や質などを問わない事にして「一戦をまじえる」程度でごまかしておくことにしよう。

    (推敲訳) いかなる争いであれ一戦を交えた経験がある者なら誰でも、指揮官の存在がいかに必要欠くべからざるものであるか分かっている。
    posted by アスラン at 22:55| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年12月04日

    可燃物 米澤穂信(文藝春秋)

     米澤さん、今度は刑事物を書きたくなったのか、そう思った。
     二月四日土曜日の午後十時三十一分、群馬県利根警察署に遭難の一方が入った。
       …
     十時五十九分、最寄りの派出所から急行した警察官が芥見から事情を聞いたところ、埼玉県さいたま市から来た五人連れのスキー客のうち、四人と連絡が取れないことがわかった。
     非常に緊迫感あふれる乾いた筆致でたんたんと事件発生の状況を描いていく冒頭を読んだ時、日本の警察の一部署が活躍する群像ドラマが展開されるのだろうと思った。それは「らしく」はないが、米澤さんが描く刑事物はどんな風になるのかという興味ももちろんあった。

     だが、すぐに自分が思い違いをしていたことに気づいた。これは刑事物ではあるが、そこに群像ドラマは存在しない。群馬県警本部刑事部捜査第一課という部署の活躍を描く短篇には違いないが、その実、活躍するのは「葛(かつら)警部」のみだ。もちろん周辺には幾人かの部下が名前を伴って描かれてはいるが、役回りも人物像も最低限の範囲にとどめてある。直属の厳しくも信頼のおける上司も、何かと横やりを入れたがる、さらにその上の上司などは、ドラマに厚みを持たせるために多少は具体的な人物として描かれてはいるが、こと事件解決に向けて葛警部が考えるのは、入手した手がかりを統合し解体し、さらにはまた総合する事で真実にたどり着く、いわば「名探偵」のやり口そのものだ。

     つまり、著者がやりたかった事は警察組織を描く事ではなく、警察組織の中にシャーロック・ホームズのような名探偵を紛れ込ませる事だったのだ。「日常の謎」を主戦場として書き出した著者が、本格ミステリの手法で様々な作品を書くようになり、ついに行きついたのが、本格ミステリの手法で刑事物・警察物を描き、そこに名探偵をソフトランディング(軟着陸)させる事だった。だから、さきほどホームズの名を持ちだしてはみたが、警察という部署にホームズは軟着陸させられない。もしそんな事をしたら、テレビドラマ『相棒』の杉下右京のようにしか描くことはできないだろう。警察というリアリティを維持しながらも、刑事が何十人束になっても思いつかないような方法論と思考回路を持ち合わせる刑事が必要だった。通常こういう時は一刑事に名探偵が割り振られるのだが、ここでは警部という責任ある立場に割り振られている。彼は警部としてルーティンワークをこなしながらも、安楽椅子探偵としてわずかに自身に許された時間の中で事件を検討して答を導いていく。

     この新たなヒーローが活躍するシリーズは、これからもっと大きく育っていくかもしれない。いや、それを期待したくなるような出来だ。このヒーローは、まだまだ単なる一警部であり無名に近い存在だが、彼を語る上で控えめだが重要な特徴を著者はちゃんと仕込んである。それは仕事の合間に手早く済ませる「菓子パンとカフェオレ」の食事だ。なんて粗末で、なんて魅力的な食事風景だろうか。
    posted by アスラン at 00:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年12月03日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.2.5)

    Chapter7. It . . . that . . .「A It(形式主語) . . . 名詞節」より。

    7.2.5 It is regrettable, but it is a fact, that children do not look upon their parents with the same degree of affection as their parents look upon them.
    (訳) 親が子供を見るときと同じくらい愛情をこめて子供が親を見ることはないというのは、残念ではあるが事実である。
     この訳文の意味はもちろん誰でも理解できるだろうが、日本語としては違和感がある。問題は「比較構文を日本語として適切に表現するにはどうしたらよいか」という点にある。例えば次のような文を考える。
    (a-1) I am 30 years old. (私は30才だ。)
    (a-2)Fred is 30 years old. (フレッドは30才だ。)
     この2文から比較の文を組み立てると以下のようになる。
    (a) I am as old as Fred.(フレッドと私は同い年だ。)
     元々の文のoldには原義の「歳を取った、年老いた」という意味はなく、数詞(30 years)を伴って「(ある期間が)経った、〜歳の」という意味になるので、原級(as … as)にはさまれたoldもその意味で使われている。その証拠に、私とフレッドが何歳であろうとも、この比較の文は使える。では次の文はどうだろうか。
    (b-1) I love Julia very much. (私はジュリアをとても愛している。)
    (b-2) Fred loves Julia very much. (フレッドはジュリアをとても愛している。)
     この2文から比較の文を組み立てると以下のようになる。
    (b) I love Julia as much as Fred loves. ((フレッドはジュリアをとても愛しているが)私も彼と同じくらい彼女の事を愛している。)
     (b)の文は、loveという動詞を使っている以上、(b-1)(b-2)のように私もフレッドもジュリアを愛している事が前提となっている。ただし、本当の事を言うと(a)の「年齢差がない」場合と同様に、前提となる「愛情の度合いや条件」などは比較の形式では問われていない。
    (b-3) I don't dislike Julia, and I love her in my own way. (私はジュリアが嫌いではない。むしろ私なりに彼女を愛している。)
    (b-4) Fred doesn't dislike Julia, and he loves her in his own way. (フレッドはジュリアが嫌いではない。むしろ彼なりに彼女を愛している。)
     この2文から組み立てた比較の文も(b)とまったく同じになるが、前提が違っている。
    (b') I love Julia as much as Fred loves. ((フレッドはジュリアを彼なりに愛しているが)私も彼と同じくらいには彼女の事を愛している。)
     丸括弧で括った部分に前提となる「愛情の度合い」を書いたが、あえて省略してある。それ以外にも「同じくらいに」を「同じくらいには」に変える事で「愛情の度合い」を幾分緩めた表現に修正してある。

     以上の事から分かるのは、日本語の場合には単に「比較構文」が明示する相対的な差違を訳すだけでは不十分で、潜在化した前提の度合いや条件などを前面に出す工夫をしなければ、適切な日本語にならないという事である。そこで改めて例文に立ち戻る。この例文では、親と子が互いに向ける愛情の度合いを比較しているわけだが、「私」とか「フレッド」のように個別の愛情を取り沙汰しているのではなく、「親たる者」とか「子たる者」という視点で一般的な話をしている。だから「親は愛情をこめて子を見る」という事が前提となっている。その点を少なくとも訳文に入れ込まないと日本語として分かりにくい。
    (推敲訳) 親は愛情をこめて子供を見るが、それと同じくらいの愛情をこめて子供が親を見ているわけではないのは、残念ではあるが事実である。

     比較の問題はとりあえず片がついたので、その他の点を推敲していく。look upon … with affectionは確かに「愛情をもって…を見る」という意味だが、日本語としては熟れていない。「愛情を示す」とか「いとおしく思う」という表現の方が適切だろう。それと、親だから必ず子に愛情を持つという訳でもないので、あくまで「傾向としてそうだ」と書くことにする。
    (推敲訳) たいていの親は子供をいとおしく思うものだが、それと同じようにたいていの子供も親をいとおしく思うものだとは必ずしも言えないというのが現実だ。残念な事ではあるが。
    posted by アスラン at 08:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年11月28日

    明智恭介の奔走 今村昌弘(東京創元社)

    (この文章は『屍人荘の殺人』にも登場する明智恭介に関するある事実を明かしています。それは結末に関わる事実ではないのでいわゆるネタバレとは言えないけれど、初読の人の楽しみを奪いかねないので、少なくとも『屍人荘の殺人』未読の方は読まないでください。)

     確か「このミス」の第一位に、ある新人作家のデビュー作が選ばれたとの前評判を聞いて『屍人荘の殺人』を読んでみたと記憶している。冒頭から、ある状況設定に驚かされ(とは言え、昨今のミステリーは読者を驚かしてなんぼという時代になってしまったが)、続いて主人公の大学生である「俺」にとっての大切な人物であり先輩である明智恭介が姿を消すという、怒濤の展開が待ち受けている。明智恭介は、神紅大学ミステリ愛好会会長して、自ら名探偵を自認する人物だ。つまり、ホームズとワトソンという典型的なバディが活躍するミステリーだと思わせておいて、著者のデビュー作の冒頭からバディの関係が雲散霧消してしまうのが、一つのサプライズであったわけだ。

     『屍人荘…』ではかなりの変わり者として描かれ、語り手であり明智にとってのワトソンでもある「俺」が毎度毎度振り回されてきた事が匂わされてはいるが、当然ながら明智の人となりも「俺」の事もまだよくは分からない読者にとっては、その後のシリーズで折に触れ「俺」が明智の事を回想する場面で、ようやく「俺」にとっての明智が如何にかけがえのない人物であったかに気づかされる事になる。なので、いわゆる『屍人荘の殺人』シリーズとも呼ばれている連作が第二作、第三作と作品を積み上げていけばいくほどに、ワトソンになり損ねた元助手の心残りが我が事のように読者には感じられていく。いや、他の読者はいざ知らず、少なくとも僕にとってはそうなのだ。

     そういう仕掛けをデビュー作から入れ込んだおかげで、天才型でツンデレタイプの女性探偵と気弱な男性助手というバディが物語に不安定な人間関係をもたらす事になる。言ってみれば、慕うべき名探偵をアレからコレへと乗り換えた節操の無さ、あるいは貞節の無さを指弾されているかのような後ろめたさが、「俺」にはつきまとう事になる。夏目漱石の一連の名作ではないが、これも一種の不倫小説と言えるのではないだろうか。ただ、残念な事が一つあるとするならば、「俺」の後ろめたさが作品を追うごとに強くなることで今のバディよりもかつてのバディの方に、一読者である僕も関心がいってしまう点だ。「俺」と明智との蜜月はいかなるものだったのか、と。

     そして、まさに本作がその答を与えてくれた。短篇集ではあるが、明智がどんな人間でどんな探偵だったかが見事に描かれている。もちろん、名探偵ならぬ迷探偵であることは既に僕らは『屍人荘』シリーズで知るところではある。本作でも「俺」という存在がいなければ、名探偵になりきる事はできない明智を、「俺」はうんざりしながらも見捨てることができない。シリーズ本編が不倫小説の暗さを伴うのに対して、こちらは好きになってしまったが故にダメなところも含めてバディを支えずにはいられない恋愛小説だと言っていいだろう。この短篇集の白眉は、最後の「手紙ばら撒きハイツ事件」だ。この作品だけ、若くて未熟な明智が「俺」と出会う前、いや迷探偵になる前の話を描いている。これは正直、感動物だ。この一冊を読み終えた時、僕は即座に思った。明智と「俺」との長篇が読みたい。そう遠からず実現するんじゃないかという予感がする。
    posted by アスラン at 22:55| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年11月23日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.2.4)

    Chapter7. It . . . that . . .「A It(形式主語) . . . 名詞節」より。

    7.2.4 It it not surprising that a man of such persistent and untiring energy should have exercised so great an influence over the thoughts of mankind for many hundreds of years.
    (訳) このように不撓不屈の力をそなえた人が、何百年もの間、人間の思想にかくも大きな影響を及ぼしたことは驚くにあたらない。
     It(形式主語)…that…の形式では、that節の内容が驚くべき事、残念な事、または必要な事、当然な事である事を示している場合には「that節の中にshouldが用いられることが多い。このshouldは、訳すときには無視してよいのが普通である。」と本書では書かれている。さらに、この例文の解説では「have exercisedは主節と従節の時制がずれていることを示すためのもの」であって、should +完了形(〜するべきだったのに)の用法とは違うと書かれている。つまり、このままでは解釈は変わらないけれど単にshouldが飾りのように使われている事になる。高校生だった自分ならば「はい、そうですか」と引き下がるところだが、今の自分はそう簡単には納得しない。

     ここは、またしても江川さんの『英文法解説』の出番だ。Shouldの基本用法の頁の解説には以下のような事が書かれている。
    (a)I'm surprised that you feel so upset. (「相手が当惑している事実」を意外に思っている。)
    (b)I'm surprised that you should feel so upset. (「相手が当惑していると考えるだけで意外だ」を含意する。)
     「要するに(a)と(b)の基本的な意味は同じで、(a)が客観的な叙述であるのに対して、(b)は話者の感情を含めた主観的叙述であると言えよう。」と説明している。基本的な意味は同じだと言うからにはshouldがある場合でも「相手が当惑している」という事実は変わらない。なんとなく「〜と考えるだけで」という表現だと、「相手が当惑している」という内容は客観的事実ではないかのような含みが出てきてしまうが、おそらく(b)にはそういう含みはない。どちらも「相手が当惑している」という客観的な事実は変わらない。ただthat節の部分だけを見ると(a)は客観的に事実を述べていて主節で初めて「驚いている」という私の感情を伝えているのに対して、(b)はすでにthat節の部分で私の感情が移入されているという事だろう。あえて訳すとすると「相手が当惑しているなんて」という感じになるだろうか。主節で「驚く」前に話者の感情が叙述に入っている。それを指して江川さんは「主観的叙述」と書いているのだ。だから、今回の例文も「無視して良い」ですまさず、できるかぎり主観的叙述である事が伝わるようにしたい。

    (推敲訳) このように不撓不屈の力をそなえた人だからこそ、何百年もの間、人間の思想にかくも大きな影響を及ぼしてきたのだろうと思うと、驚くにあたらない。

     その上で訳文の日本語について考えていく。「不撓不屈」がやや気になる。個人的にはあまり使わない。意味はもちろんわかる。日国には「どんな困難に出あっても心がくじけないこと」とある。ただちょっと大げさな気がする。persistent は「やり抜く、あくまで目的を貫く、粘り強い、不屈の」で、untiringは「疲れない、飽きない、根気のよい、不屈の」だ。どちらも「不屈の」が出てくる。こういうとき僕なら「不屈の精神で」とは言いそうだ。

     個人的にこの例文で気になるのはsuchとsoの取り扱いだ。伊藤先生の教えで、suchは名詞に対する修飾語、soは形容詞に対する修飾語という違いはあるが、いずれも「そのように、それくらい」というような前提となる状況がある事を意識して訳すように言われてきた。この例文の範囲には、suchとsoが指し示すものは存在しないので「このように」とか「かくも」という指示語で表現する事になる。ただ、この例文ではsuchとsoが競合しているので、どちらを「こそあど」のどれに当てはめるかという点を意識したい。訳文では「このように」「かくも(このように)」と近称指示語を重ねているが、果たしてそれでいいのか。

     そもそも例文が指し示す人物は「誰」で、どんな「偉業」を前提としているのだろうか。「何百年もの間、人間の思想にかくも大きな影響を及ぼしてきた」というからには、近年で言えばマルクスやフロイト、ダーウィンなどが思いつくが「何百年」とまでは言えない。例えばプラトン、アリストテレスなどは古さの点で申し分ないが人物像がはなはだ希薄だ。現代に繋がる影響を考えるとコペルニクス、ガリレオあたりがよいのかもしれない。「それでも地球は回っている」という名言(実際には言ってはいないようだが)が残されるほどに不屈の精神の持ち主だったガリレオが『天文対話』を書いたのは1632年。ざっと400年前だ。まさにガリレオのための例文だと言ってもいいだろう。その上で、この例文が書かれる状況を想像する。ガリレオの果たした偉業は多くの人が理科や物理の教科書で知るところだろう。だが、果たして人となりはどうかと言えば、そこまで詳しく知るには、伝記を読んだりドキュメンタリーを見たりするという手間をかけねばならない。だから、たとえばそういう一手間をかけてガリレオが「不屈の人であった」という逸話を共有したところで、例文が書かれたとしよう。それならば人となりは近称(このように)であり、偉業の方は遠称(あのように、あれほど)にすべきだろう。
    (推敲訳) このように不屈の精神をもちあわせている人物だったからこそ、数百年にわたり人類の思想にあれほど多大な影響を与えてきたのだろう。そう考えると驚くにはあたらない。
    posted by アスラン at 13:10| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年11月15日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.2.3)

    Chapter7. It . . . that . . .「A It(形式主語) . . . 名詞節」より。

    7.2.3 It is hardly to be expected that the less prosperous parts of the world will tamely accept the continually widening inequality.
    (訳) 世界の中で繁栄において劣る地域が、たえず広がりつつあるこの不平等を今後も従順に容認してゆくものとは思えない。
     「It(形式主語)…thatの構文の中でも慣用表現として用いられる」と伊藤先生が説明しているIt is to be+p.p(受動態)+that…の構文だ。be to 〜は「助動詞としての用法」だとも書かれているが、それ以上は詳しい解説はないので、ここは江川泰一郎『英文法解説』の出番だ。

     「Be to〜」の項で、(1)予定(2)義務・命令(3)運命(4)可能(5)if節で(目的の意味を付加)の用法があると書かれているが、注目したいのは「解説」欄だ。そこでは「この形は主語以外の第三者の意志を伝えるためによく使われる」という点が検討されている。
    (a) The Minister is to meet union officials tomorrow.
    (b) The Minister is meeting union officials tomorrow.
    (c) The Minister meets union officials tomorrow.
     いずれも「大臣はあす組合幹部と会見の予定である」という意味だが、be toを使った(a)は主語以外の第三者が立てた計画であって「公式の予定の一部であることが暗示されている」そうだ。その証拠にと言っていいのか、各文からtomorrowを取り去っても(a)は予定の意味が残るが、(b)(c)はいずれも未来の予定にならない。いずれにしても、この「主語以外の第三者の意志」という点に注意しながら訳文を見てみると、that節内の主語である「…繁栄において劣る地域」とは違う第三者が「〜とは思えない」と言っているのかいないのかが分かりにくい。誰が「〜とは思えない」と考えているかが曖昧だからだ。

     それ以外にも日本語として考える事はいろいろある。「繁栄において劣る地域」というのは説明であって訳文ではない。ここは「後進地域」とする。「後進国」ほどは熟れた言い方では無いけれど。またthe continually widening inequalityという名詞句をそのまま名詞句で訳すのは日本語らしくないし、直訳の「たえず広がりつつあるこの不平等」は舌足らずな表現なので、述語表現(節)に変える。ちなみにinequalityを「不平等」と訳すのは分かりやすいようで案外分かりにくい。日頃「不平等」という言い方はあまり使わないし、「何が平等ではないか」がぼけてくる。そこらへんに注意して、訳文を推敲する。
    (推敲訳) 世界の後進地域ではいまだに社会的格差が拡大しているが、今後もその状況に甘んじたままだと考えている人はほとんどいない。
    posted by アスラン at 23:51| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年11月07日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.2.2)

    Chapter7. It . . . that . . .「A It(形式主語) . . . 名詞節」より。

    7.2.2 It would seem logical that if parents care for children when they are not yet able to enter the labor market, then children will care for parents when they are no longer permitted to remain in it.
    (訳) 子どもが労働市場へ入ることができる前は親が子どもの面倒を見るのなら親が労働市場に留まっていられなくなったら子どもが親の面倒を見るのが当然だと思われるかもしれない。
     itが形式主語でありthat節がその内容であると分かってしまえば、解釈に不明なところは何もない。だから、もっぱら日本語として訳文の違和感を解消する事だけに専念すればいい。

     そこでまずはlabor marketだ。訳は「労働市場」でいいようだ。とは言え、あまり日常では使わない言葉だ。確かに「売り手市場」「買い手市場」のように労働市場を思わせる言葉遣いはしているが、それは言わばビジネス用語として使っている。一方で「労働市場」は経済理論の中で、ある種の抽象度をもって表現される用語だろう。ちなみにニッポニカでは「労働力商品をめぐって売り手(労働者)と買い手(資本家)の間で取引が行われ、この需給関係によって賃金などの労働条件が決定される場」だと書かれている。このような定義からすると、我々労働者は生身の人間であると同時に一個の商品に過ぎないように感じられる。しかし、この文章でクローズアップされるのは「生身の人間」の方であり、「労働市場」と言うのは一種のアイロニーになっているのかもしれない。とすると、労働市場という硬質な手触りと、care for(〜の面倒を見る)という人間的な営みとをうまいぐあいにバランスをとりながら、訳文の日本語に手を入れていく必要がある。

     単純に「労働市場に入る」ではさすがに粗雑だし、文字どおり「入る」というよりも商品として労働市場の中で一つの役割を担うという意味で「一翼を担う」なんかがいいのではないだろうか。それとthat節の前半の従属節の話題の中心は子どもであり、後半の主節の話題の中心は親になるので、それぞれの節で入れ子になったwhenで始める従属節の主語も前半は子どもに、後半では親になるように統一した方がいいと思う。それと、whenの訳し方だが「〜する時」とは言うが「〜しない時」とは言わない。特にthat節の前半の子どもについては、労働市場に入るまでの資格が問われるので「(入ることが)できる前」としているが、日本語として違和感があるので「(入ることが)できるまで」とする。

     肝心の形式主語を表すit would seem logical that…の構文を伊藤先生は「…が当然だと思われるかもしれない。」としている。この言い回しだと、この後に「しかし当然ではないのだ」という否定的な含みがあるように感じられてしまう。この原因はwouldにある。「wouldはit seemsを弱めるための助動詞」だと本書では書かれているが、ランダムハウス英和大辞典では「《主張を和らげて》(1)《婉曲・丁寧を表して》…だろう、…でしょう (2)《疑念・不確実を表して》(まあ)…でしょう」と書かれている。この例文の場合はseemを使って「当然だと思われる」としていて、さらにwouldを使っているので「当然だと思われるだろう」となるところだが、やや日本語として違和感があると感じられたのか「かもしれない」と組み合わせた結果、さきほど述べたように日本語として否定的な含みが入ってしまった。it(形式主語)…thatの構文を順を追って考えると、以下のように断定表現がを和らいでいくとみなせる。
    it is logical that…     (…が当然だ)
    it seems logical that…   (…が当然に思われる、…が当然のようだ)
    it would seem logical that… (…が当然に思われるだろう、…がどうやら当然のようだ)
     理屈からすると、上から順に断定の程度が弱まっていくのだがseemにwouldをつけて「思われるだろう」とするのはやや不自然だ。「思われる、ようだ」と言えば既に日本語としては断定を弱めているので、それ以上程度を弱めていくのであれば、副詞などを伴った表現(どうやら…ようだ)を用いた方がよさそうだ。logicalは「当然」ではなく「理にかなっている、筋が通っている」と訳す事にする。

     以上をまとめて推敲する。
    (推敲訳)労働市場の一翼を担えるようになるまでは子は親に面倒を見てもらうというのであれば、労働市場に居続ける事がもはや叶わなくなった際には親は子に面倒を見てもらう事になるという考え方は、どうやら筋が通っているようだ。

     さらに推敲する。先ほど言及したが、that節の中身はifで始まる従属節と主節から構成されているが、さらにそれぞれの節がwhen節という従属節を抱えているので、日本語でそのまま訳すには少々複雑な入れ子構造になっている。なので、それぞれのwhen節が「子」や「親」を連体修飾するように変える。また、if節は仮定・条件を表すが、このthat節の内容だと「働く資格に満たない子は親に面倒を見てもらっている」という現実を前提条件にしているので、「もし」というよりは「だから」の方が日本語としてつながりがよくなる。
    (推敲訳)労働市場の一翼を担えるようになるまでの子は親に面倒を見てもらっているのだから、労働市場に居続ける事がもはや叶わなくなった親は子に養ってもらう事になるという考え方は、どうやら筋が通っているようだ。
    posted by アスラン at 22:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年11月02日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.2.1)

    Chapter7. It . . . that . . .「A It(形式主語) . . . 名詞節」より。

    7.2.1 My father died on Tuesday. He had an intense love for me and it adds now to my grief and remorse that I did not go to Dublin to see him for so many years.
    (訳) 父は火曜日に死にました。父は私をとてもかわいがってくれました。ずっと前から父に会いにダブリンへ行っていなかったことが、今になってみると私の悲しみと後悔を深めるのです。
     今回からItが形式主語になるタイプの構文を扱う。何故、形式主語を用いるかについて伊藤先生は「このタイプの文では、主部が長すぎて不安定な感じを与えるため」としている。形式主語という枠組がない日本語からすると名詞節を冒頭に戻す事になるので、結果的には頭でっかちな名詞節を抱える文になる。これはもちろん日本語として不安定な文とは言えないが、直訳調でかしこまっているような感じがする。日本語にとっては、「ダブリンに行っていなかった」という状況と「悲しみと後悔を深める」という動作とがどのような関係にあるのかが重要だ。時系列の前後なのか、因果関係なのか、それとも理由なのか。そこを押さえながら日本語を推敲していく必要がある。

     しかし、それ以前に日本語としての違和感を消すために「死ぬ」を「亡くなる」にしたり、題目の「父」は次の文にも引き継がれるので「父は…父は…父に…」の繰り返しを避ける事を考える。まずは第一の文だが、とりあえず最初の「My father」は初出で未知語として扱う事にして、「父は」を「父が」に変更する。
    (第一の文の推敲訳) 火曜日に父が亡くなった。

     第二の文から父を既知語として扱う。add to…(…を増す、…が深まる)という意味だが、ここでは「父は私をとてもかわいがってくれました」を受けて「私」は父の死を悼んでいる(悲しんでいる)はずで、さらに「父に会いにダブリンに行っていなかったこと」が「悲しみと後悔を深める」という流れになっている。だから「悲しみと後悔を深める」ではなく「尚更…悲しくて悔やまれる」のように気持ちの高まりを順序立てて説明する文に直す。
    (第二の文の推敲訳) 父はずいぶんと私に愛情を注いでくれたので尚更、これほどまでに長い間ダブリンまで会いに行かなかった事が、今となっては悲しくて悔やまれてならない。

     以上をまとめて、さらに推敲する。第一の文は「父が亡くなる」という叙述文で、以降は「私」を題目にした文に統一した方がよさそうだ。それと、これは僕の思い込みだが、わざわざ「ダブリンに会いに行く」という表現になっているのは故郷に戻るという感じではなく、幼い頃は同居していたが、両親の離婚か何かで父とは疎遠になっていたようにも感じられるので、その線に沿って手を加える。
    (推敲訳) 火曜日に父が亡くなった。一緒にいた頃はずいぶんと可愛がられたから、尚のこと何故こんなにも長い間ダブリンまで訪ねていかなかったのかと、今さらながら悲しくて悔やまれてならない。
    posted by アスラン at 12:35| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年10月28日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.1 例題)

    Chapter7. It . . . that . . .「@ It+V+that . . .」より。

    7.1 例題
     In the violent conflicts which now trouble the earth the active contenders believe that since the struggle is so deadly it must be that the issues which divide them are deep. I think they are mistaken. Because parties are bitterly opposed, it does not necessarily follow that they have radically different purposes. The intensity of their antagonism is no measure of the divergence of their views. There has been many a ferocious quarrel among sectarians who worship the same God.

    (訳)
     現在の世界を悩ましている激烈な闘争の中で活発に戦っている人々は、争いがかくも激しいものである以上、彼らを対立させている問題は深刻なものであるに違いないと信じている。私は彼らの考えは誤りだと思う。党派が激しく対立しているからといって、必ずしも、彼らが根本的に異なる目的を持っているということにはならない。敵対心の強さを、考え方の違いをはかる尺度にはできない。同一の神を崇拝する宗派の間にも、これまで多くの凶暴な争いがあった。
     「@It+V+that」の総まとめにあたる例題だ。訳文全体を見渡しても言いたい事は伝わってくる。だが、日本語としての適切さという点では手直しすべきところがいくつか考えられそうだ。まずは第一の文。構文の構造は以下のようになっている。
    In the violent conflicts ┐
                  which now trouble the earth
    the active contenders believe that
                          since the struggle is so deadly
                          it must be that
                                    the issues are deep.
                                        └ which divide them
     it+V+that…の構文を入れ子にしたthat節をbelieveが目的語にしているので、入れ子が二段。しかも最奥の主語the issuesに係る関係代名詞節が挿入されているし、it must be that…には副詞節since…が係っている。非常に凝った構文になっている。とは言え、読み解くのは難しいというほどではない。一番の問題は日本語の方で、it must be that…が「彼らを対立させている問題は深刻なものである」を外側から「〜に違いない」と推測していて、ここまでだと話者(語り手)の推測なのだが、それをさらに外側からthe active contenders belive thatが「〜と信じている」と言っているので、「〜に違いない」というのはthe active contendersの推測だという事になる。この文に、というか訳文に違和感がある。当事者が「自ら抱えている問題が深刻であるに違いないと信じている」という部分だ。抜き差しならぬ争いになっているというのに、「(自らを)対立させている問題は深刻なものである」という自覚がなかったとでも言うのであろうか。もしこれが、当事者以外の人が「当事者が抱えている問題は深刻であるに違いないと信じている」であれば、まだ納得はできるのだ。英文の構成が間違っていないのであれば、これは当事者であっても「違いないと信じる」ような状況を訳文に持ち込むしかない。deepには「理解しがたい、難しい、深遠な、浅薄でない、重大な、深刻な」などの意味があるが、この例文の場合は「後戻りできない」つまり「解決不可能だ」ぐらいの状況に当事者が「思い込んでいる」というように解釈するしかない。
    (第一の文の推敲訳) 地球上の各地で人々を苦しめている激しい紛争において、今まさに争っている当事者は「対立がこれほどまでに激化しているからには、互いをへだてる問題を解決するのはとうてい不可能に違いない」と思い込んでいる。

     つぎは一つ飛ばして第三の文。構文自体は7.1.6でやったit follow from B that S+P.のバリアントで、from Bの部分がBecause S'+P'になっている。partiesを「党派」と訳しているが、与党と野党が政争を繰り広げる程度のconflictではないはずだ。第一の文で「紛争」と訳したのは戦争の一歩手前のような争いを念頭においたからだ。なので、ここでもそれにふさわしい訳語に統一する。
    (第三の文の推敲訳) 紛争下にある当事者同士が激しく対立しているからと言って、両者の目的が根本から食い違っているとは限らない。

     第四の文の「敵対心の強さを、考え方の違いをはかる尺度にはできない。」は日本語としては気持ちが悪い。格助詞「を」が続くのも原因の一つだが、英文のantagonism(敵意、敵愾心)、divergence(意見の相違)の部分を名詞のままにしているところが日本語として舌足らずな感じがする。
    (第四の文の推敲訳) 両者の考えが大きく食い違えば食い違うほど、両者が激しく敵対するという事にはならない。

     最後の文(第五の文)は、実例を挙げている。同じ宗教であるにも関わらず主義主張が異なる宗派の方が、異なる宗教を信奉する人々同士の争いよりも対立が激しくなりやすいというのは、よく聞く話だ。言わば近親憎悪的な対立の方が根が深くなりやすいという事だろう。確か、『ブラウン神父』シリーズで有名なG・K・チェスタトンも『正統とは何か』の中で、同じような主張をしていたと記憶している。
    (第五の文の推敲訳) 同じ神を崇拝するにしても宗派が異なると、想像を絶する反目がこれまでに何度も起こってきた。

     全体をまとめてさらに推敲する。
    (推敲訳) 地球上の各地では様々な紛争が人々を苦しめているが、まさに紛争下にある当事者たちは「対立がこれほどまでに激化しているからには、あちらとこちらをへだてる問題を解決するのはとうてい不可能に違いない」と思い込んでいる。だが、それは間違いだと思う。激しく対立しているからと言って、当事者同士の目的が根本から食い違っているとは限らない。両者の考えが食い違えば食い違うほど対立の激しさが増すという関係は成立しないからだ。事実、同じ神を崇拝しているにも関わらず宗派が異なるだけで、想像を絶する反目がこれまでに幾度となく起こってきたのだ。
    posted by アスラン at 23:30| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年10月25日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.1.6)

    Chapter7. It . . . that . . .「@ It+V+that . . .」より。

    7.1.6 If everyone undertook to form all his own opinions and to seek for truth by isolated paths, it would follow that no considerable number of men would ever unite in any common belief.
    (訳) すべての人があらゆることについて自分だけの意見を持ち、孤立した道によって真理を求めようとするなら、相当数の人が共通の信念に結ばれることは決してないという結果になるであろう。
     日本語では「先と後」「前と後ろ」のように、位置関係なのか時系列なのかで「どちらがどちらなのか」を迷う事がある。このfollowを使った構文は特に迷わされる。伊藤先生がこの例文を取りあげたのは、僕のような思い違いをする人が受験生に多く見られるからだろう。
    A follows B.
     これは位置関係で考えると「(後ろにいる)Aが(前にいる)Bに従う」という意味になるが、時系列として考えると「Bが先に起きて次にAが起きる」だし、因果関係ととらえると「(先に起きた)Bが原因でAが起きる」という意味になる。まあ、ここまではいいとして(僕にとっては良くはないのだが)、it follow that…の構文になるとややこしくなる。
    It follow from B that S+P.
     that節全体はさきほどのAに相当する。つまり非人称構文では、さきほど主語だったAがthat節として目的語になっているし、さきほど目的語だったBはfromの目的語になっているというわけだ。ただ、さきほどはAとBの関係を直接followが媒介していたのだが、非人称構文では「天から降ってきたit」から見てA(that節)とBの関係が決まる。つまり同じfollowではあるが用法はまったく違うと考えた方がよいという事になる。さらに例文ではfrom Bの部分が、Aがthat S+Pになったのと同様に展開されて、if S'+P'のようになっている。
    If S'+P', it follow that S+P.

     ここまでが英語として踏まえておかねばならない知識だが、ここからは日本語として踏まえておかねばならない事を考える。訳文は原文のバタ臭さがそのまま残っているため、理解できないというほどではないが「ちょっと何言ってるのか分からない」と突っこみたくなるような部分が見られる。isolated pathsを伊藤先生は「(人から切り離された)自分だけの道」と解説しているが、訳文では「孤立した道」となっている。pathsは道には違いないが、英語特有の表現を日本として無難な表現に変えるべきだろう。それとseek for truthをランダムハウスなどでは「真理を探究する」と訳しているのだが、今ひとつピンとこない。「真理を探究する」というのは哲学や宗教など一部の分野にかぎった言い回しであって、僕を含めて一般の人たちは「真実(もしくは事実)は何なのかを追い求める」というぐらいに噛み砕かないと状況が見えてこない。さらに「相当数の人が…」うんぬんも微妙に気に入らない。「信念に結ばれる」ではなく「信念で結ばれる」だろうし、if文が原因でthat節が結果になるように訳せば「…という結果になるであろう」は日本語として余分だと思う。これらを踏まえて訳文を推敲する。
    (推敲訳) 誰もが何事についても自分だけの意見を持ち、各自のやり方で真実は何かを追求しようとすると、どんな形でも互いに共通の信念を抱いて相当な数の人間が団結すると言うことは今後はなくなるだろう。
     isolated pathsを「各自のやり方」としてみたが、もうちょっと一工夫すべきだ。後半の部分もno considerable number of menやany common briefなどをそれぞれ丁寧に訳に反映しようとしたので、修飾語が多くなりすぎて日本語としてとっちらかってしまっている。
     さらに推敲してみる。
    (推敲訳) 誰もが、何事についても自分なりの意見を持ち、真実とは何かを手探りで追求し始めたならば、いかなるものであれ互いに共通の信念を抱いて団結する人々が相当な数になるなんて事は、今後はなくなるだろう。
    posted by アスラン at 07:10| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする