「あっ、これ読みたい!」というより「これ欲しい!」なんだけれど、一応書籍扱いなので、このカテゴリで紹介しよう。
かつて小学生の頃には、学校校内で業者が売りに来ていた「科学と学習」を購入していた世代なので、「大人の科学マガジン」はずっと関心を持ち続けてはいるのだが、何せ一冊が2000〜2500円もするので、なかなか手が出ない。
最近古本屋で「プラネタリウム」が付録だったムックだけが100円で売られていた。なるほど。あれは付録がなければ、これほどの価値しかないんだ。とパラパラめくったら、プラネタリウムの作り方や鳥形の飛行機を作るための紙型なども含まれていて、十分楽しめそうだった。ちょっと躊躇したために売れてしまったようで、とっても後悔した。
プラネタリウムもテルミンもガリレオ望遠鏡も欲しかったには欲しかったのだが、なんとか見て見ぬふりすることができた。でも、今回の「二眼レフカメラ」は無視することができない。欲しいなぁ〜。
例の「仮面ライダーディケイド」の主人公が二眼レフを持ち歩いていたのも、やや影響してる。その前に、あの持ち歩いていた赤い二眼レフをソニープラザだったかロフトで見かけていて、魅力をインプリントされていたからかもしれない。
アスキーの記事で、「銀塩フィルムで撮るカメラなど今時誰が買うか」などとお門違いの意見を書いていたらしいが、わざわざ「銀塩フィルム」などと言うから、市販のフィルムでは写せないのかと思った。ちゃんと市販のフィルムで撮れるじゃないか。しかも、銀塩フィルムを取り扱う現像所が少なくなっていると、わけの判らないいちゃもんをつけているが、まだまだカメラ付きフィルムの需要はあるはず。おばちゃんや家族連れ、普段そんなには撮らないけれど観光地を旅したときくらいは写真を撮りたいという人にとって、デジカメがどうのデジイチがどうのとトレンドを追う事ばかり言う記者の話などまともに読めやしない。
なによりも、この二眼レフを欲しがる人の多くは「付録」として欲しがるんですよ、ふ・ろ・く。付録が立派に機能して楽しめる。その遊び感覚を抜きにして「今時、銀塩フィルムが…」なんて馬鹿げた話を書くヤツは「豆腐の角に頭をぶつけて…」。言わずともわかりますよね。
欲しい、ほしい。息子みたいに駄々をこねてしまった。なんとこのサイトで3年間でチリツモで貯まったアマゾンの報酬が、ようやくクーポンになって届いた。足りない部分は自前で出して、買っちゃっていいかなぁ。
2009年11月13日
2009年11月10日
鉄塔武蔵野線ウォーク(その9)
[75号鉄塔]
見晴一人の鉄塔探索は、翌日の朝から再び始まる。「翌日も重厚な青空が詰まったような上天気でした。」(P.47)と書き出されているように、鉄塔調査に青空は欠かせない。なんといってもむき出しの太陽の暑さと雲のない青空のすがすがしさを背景に、鉄塔の姿を追い求めるのが理想だろう。
ということで、またしても送電線の真下をたどっていくことは、あっさりと断念しなければならない。町中にあるからだろうか、次の鉄塔での間隔は短いため、表通りからまわりこんでも鉄塔の姿を見失わないので、安心だ。このx号鉄塔は「無帽で尖った頭頂を持ち、身長が高く瑞々しい女性型鉄塔」(P.48)だ。
さきほどまっすぐ送電線の下を突っ切ろうとした畑の左隅に、片山線の鉄塔が見えている。こちらは「料理長(コックさん)型V吊り男性型鉄塔」で、部材は鋼管を使っている。見晴の目には「不細工」と映るのだが、はたしてそれほどに違いがあるとも思えない。ただ、x号鉄塔の「尖った頭頂」は非常にすっきりとして気持ちがいい。
表通りをまっすぐ進んで、雑木林をすぎたところで左に折れる。その奥にx号鉄塔はある。
ストリートビューで確認すると、現在は更地とは言えず、いくつか建屋が見える。だが、元は更地らしきひと囲いの隅に鉄塔が立っているのは変わっていない。
標示板からx号鉄塔が〈75号鉄塔〉であることがわかり、見晴は「次第に明らかにされてくる鉄塔相互の関係」に興奮する。つまり、異形の75−1号というのは、75号と76号の間に位置する鉄塔だということが判ったわけだ。これ以上の事は鉄塔探索からは見えてこない。なぜ枝番なのか。あとから作られた鉄塔なのか、もとは別の系統の鉄塔だったのが、のちに武蔵野線に吸収されたのか。
正直、この小説をなんども何年も読み継いでいる僕にも、この謎は解明されていない。ただ、見晴と同様に「鉄塔相互の関係」だけは、つかんだ気になっている。それでとりあえずは十分ではないかな。
見晴一人の鉄塔探索は、翌日の朝から再び始まる。「翌日も重厚な青空が詰まったような上天気でした。」(P.47)と書き出されているように、鉄塔調査に青空は欠かせない。なんといってもむき出しの太陽の暑さと雲のない青空のすがすがしさを背景に、鉄塔の姿を追い求めるのが理想だろう。
(A地点)
わたしは畑の中に入り、x号鉄塔(注.北側に見える次の鉄塔の事)の方へ歩いてみました。やがて塀や柵が重なって進路を塞がれました。(P.48)
ということで、またしても送電線の真下をたどっていくことは、あっさりと断念しなければならない。町中にあるからだろうか、次の鉄塔での間隔は短いため、表通りからまわりこんでも鉄塔の姿を見失わないので、安心だ。このx号鉄塔は「無帽で尖った頭頂を持ち、身長が高く瑞々しい女性型鉄塔」(P.48)だ。
さきほどまっすぐ送電線の下を突っ切ろうとした畑の左隅に、片山線の鉄塔が見えている。こちらは「料理長(コックさん)型V吊り男性型鉄塔」で、部材は鋼管を使っている。見晴の目には「不細工」と映るのだが、はたしてそれほどに違いがあるとも思えない。ただ、x号鉄塔の「尖った頭頂」は非常にすっきりとして気持ちがいい。
表通りをまっすぐ進んで、雑木林をすぎたところで左に折れる。その奥にx号鉄塔はある。
(B地点)
小さな雑木林を過ぎたところは芝生で蔽われた広い更地(さらち)で、その片隅にx号鉄塔が立っていました。(P.48)
ストリートビューで確認すると、現在は更地とは言えず、いくつか建屋が見える。だが、元は更地らしきひと囲いの隅に鉄塔が立っているのは変わっていない。
標示板からx号鉄塔が〈75号鉄塔〉であることがわかり、見晴は「次第に明らかにされてくる鉄塔相互の関係」に興奮する。つまり、異形の75−1号というのは、75号と76号の間に位置する鉄塔だということが判ったわけだ。これ以上の事は鉄塔探索からは見えてこない。なぜ枝番なのか。あとから作られた鉄塔なのか、もとは別の系統の鉄塔だったのが、のちに武蔵野線に吸収されたのか。
正直、この小説をなんども何年も読み継いでいる僕にも、この謎は解明されていない。ただ、見晴と同様に「鉄塔相互の関係」だけは、つかんだ気になっている。それでとりあえずは十分ではないかな。
2009年11月09日
ぼくらの時代 栗本薫(2009/6/16読了)
彼女はこの作品で江戸川乱歩賞をとり、ミステリー作家としてデビューした。一方で、中島梓というペンネームで、かなり理論武装した批評家としても作品を発表している。それをまとめたのが「文学の輪郭」(講談社文庫)だ。お弔いの意味を込めて、借りて読んでみた。しかし、そこに書かれていることにどうしても共感できない。いや、共感というものではなく、テーマを共有できないといった方がいいのか。
どちらかというと、この本で彼女が書きたかったことは、実作者として文章を書くためには「文学とは何か」という普遍的な難問と格闘しなければならず、その答えがでないうちには自分の今書こうとしているものが、果たしてなんなのかを見定めることはできないという、一種の「作家としてのジレンマ」だと感じた。そうである以上、もうこれは作家自身で解決してもらうしかすべはない。しかし彼女は周知のように、自分でその答えを見つけたか、難題を棚上げしたか、いずれにしても書きに書きまくって、ミステリー・SF・エッセイ・評論と、八面六臂の活躍をし、そして亡くなった。
SF好きにならなかった僕でも、本書ぐらいは読んでいてもよさそうなものだが、実は読んでいない。そもそも乱歩賞にも関心がなかったのだ。だから乱歩賞受賞作を数えるほどしか読んでいないが、本書にしたって「アルキメデスは手を汚さない」とずっと勘違いしていたようだ。
しかし、新装版の文庫の巻末に付された、赤川次郎と若き日の著者との対談で、やはり僕のようなそこつ者の勘違いをたしなめるかのように、赤川は「アルキメデスは…」が若者(大学生)を主役に据えたミステリーであるにしても書き手の年齢からして若者の言葉で書かれてはいないと分析している。そして、本書は正真正銘「若いジェネレーションが書いた青春文学たりえている」と、著者にエールを送っている。
赤川次郎の言葉通りだと多少なりとも僕が共感できるのは、70年代当時の〈軽薄なシラケ世代〉の若者の言動や風俗そのものが、まさに文章に封じ込められていたからだ。同時代の若者の一人であった著者が、シラケ世代の言い分を代弁するかのようにクールに書き上げたのが本書だと言える。当時の世相を少しでも知る世代にとっては、戦後に一度は解体した日本社会の開放感と、これからやってこようとする管理社会との狭間で、あえぐように呼吸せざるえなかった若者たちの閉塞感を感受する事はできるかもしれないが、今の若い世代が果たして共感できるかどうか、それは正直わからない。僕も歳をとってしまったからだ。
しかし、僕の感想を言えば、ちょうど兄の世代、あるいは兄のさらに一つ前の世代にあたる彼らのシラケを批判的な目で見つめ続けたのが、僕らネクストジェネレーションだった。だからこそ、本書をミステリーではなく一つの青春物語として読むと、どことなく郷愁を感じる自分と空疎な思いをする自分とが同居している。
ミステリーとして読むと、これはもう滑稽なほどに詰まらない。いや、何がどうなっているのか、とっちらかっていて分からない。正直な感動だが、当時これが乱歩賞を受賞した理由は、70年代の風俗を生き生きと描き、ミステリーというジャンルに封じ込めた事が、かなり好意的に評価されたのではないだろうか。それ以上でもそれ以下でもない、そんな作品だ。
どちらかというと、この本で彼女が書きたかったことは、実作者として文章を書くためには「文学とは何か」という普遍的な難問と格闘しなければならず、その答えがでないうちには自分の今書こうとしているものが、果たしてなんなのかを見定めることはできないという、一種の「作家としてのジレンマ」だと感じた。そうである以上、もうこれは作家自身で解決してもらうしかすべはない。しかし彼女は周知のように、自分でその答えを見つけたか、難題を棚上げしたか、いずれにしても書きに書きまくって、ミステリー・SF・エッセイ・評論と、八面六臂の活躍をし、そして亡くなった。
SF好きにならなかった僕でも、本書ぐらいは読んでいてもよさそうなものだが、実は読んでいない。そもそも乱歩賞にも関心がなかったのだ。だから乱歩賞受賞作を数えるほどしか読んでいないが、本書にしたって「アルキメデスは手を汚さない」とずっと勘違いしていたようだ。
しかし、新装版の文庫の巻末に付された、赤川次郎と若き日の著者との対談で、やはり僕のようなそこつ者の勘違いをたしなめるかのように、赤川は「アルキメデスは…」が若者(大学生)を主役に据えたミステリーであるにしても書き手の年齢からして若者の言葉で書かれてはいないと分析している。そして、本書は正真正銘「若いジェネレーションが書いた青春文学たりえている」と、著者にエールを送っている。
赤川次郎の言葉通りだと多少なりとも僕が共感できるのは、70年代当時の〈軽薄なシラケ世代〉の若者の言動や風俗そのものが、まさに文章に封じ込められていたからだ。同時代の若者の一人であった著者が、シラケ世代の言い分を代弁するかのようにクールに書き上げたのが本書だと言える。当時の世相を少しでも知る世代にとっては、戦後に一度は解体した日本社会の開放感と、これからやってこようとする管理社会との狭間で、あえぐように呼吸せざるえなかった若者たちの閉塞感を感受する事はできるかもしれないが、今の若い世代が果たして共感できるかどうか、それは正直わからない。僕も歳をとってしまったからだ。
しかし、僕の感想を言えば、ちょうど兄の世代、あるいは兄のさらに一つ前の世代にあたる彼らのシラケを批判的な目で見つめ続けたのが、僕らネクストジェネレーションだった。だからこそ、本書をミステリーではなく一つの青春物語として読むと、どことなく郷愁を感じる自分と空疎な思いをする自分とが同居している。
ミステリーとして読むと、これはもう滑稽なほどに詰まらない。いや、何がどうなっているのか、とっちらかっていて分からない。正直な感動だが、当時これが乱歩賞を受賞した理由は、70年代の風俗を生き生きと描き、ミステリーというジャンルに封じ込めた事が、かなり好意的に評価されたのではないだろうか。それ以上でもそれ以下でもない、そんな作品だ。
2009年11月03日
キムラ弁護士、ミステリーにケンカを売る 木村晋介(筑摩書房、2007年)
今回は「あ!これ読みたい」ではなく「これ読みたくない」本の紹介なのだ。困ってしまうのは、「読みたくない」と言って紹介すると、結局は物見高い人たちの「読みたい」という好奇心に火をつけてしまうかもしれないという点だ。
「本の雑誌」最新号を書店でパラパラと立ち読みしたら、キムラ弁護士がコラムを書いていた。それはいつものことなのだけれど、なんとミステリーの書評だった。確かこの人は本を読まない人じゃなかったっけ?と思ったら、有名なミステリーに噛みついている文章だった。弁護士という専門家が、そんな身も蓋もない事をしてどうするんだとは思ったが、未読のミステリーに関する毒舌だったので、興味なくさっさととばした。
次に、いわゆる〈本の本〉の棚を眺めていたら、まさにシンクロニシティではないか。本書が目にとまった。すでに一冊の本になるまでにミステリーに噛みつき続けてきたようだ。目次を読むと、あるわあるわ、本当に名作と言われる作品を多数とりあげている。クリスティは「そして誰もいなくなった」「オリエント急行殺人事件」に噛みつき、なんとクイーンの「Xの悲劇」にまで噛みついている。
さすがにちょっと惹かれてクイーンのページを読むと、クイーンに噛みつく事がミステリーファンにとってはどんなにおおごとなのかを知らぬ顔で「どうやらたいへんなことらしい」と半ば呆れてみせる。肝心の推理については、本に書かれた事だけで犯人を特定するのは、「専門家(警察や司法関係者)と言えどもムリ」と、名探偵の推理を一蹴し、さらには犯人のメイントリック(ネタバレになるので、詳しくは書かない)を警察は何故見破れないのか、そんなことはあり得ないと切り捨てる。
べつに僕の好きなクイーン作品や、クリスティの中で僕のお気に入りの「そして誰もいなくなった」に噛みついたところで、人それぞれの意見なのだから気にするまでもない。ただ、はじめから「ケンカを売る」ために書いている姿勢には感心しない。本に愛情がない以上は、最初から読まねばいいし、読んだところで書かねばいいのだ。
僕がかなり違和感を感じたのは、ミステリーの世界と現実の捜査とを比較して、あれはおかしい、これはだめだと貶めているところだ。専門家の目から見れば、ミステリーのストーリー展開はありえない事だらけだろう。しかし、そもそもが現実ではありえない事件を扱う点にミステリーファンの関心があるわけだから、「解決があり得ない」などと作品の一部分を拡大してあら探しする事に意味があるとは思えない。
「事実は小説より奇なり」という事も世間にはあるだろうが、たいていの事件では、あり得ることがおこり、あり得る捜査が行われ、あり得る犯人、あり得る動機、あり得る犯行が見出されるだけだ。そこを基準にして専門家(弁護士)が「(ミステリーは)あり得ない」と噛みつくことに、僕は「(そんなケンカの売り方は)あり得ない」と噛みつくことになる。
社会派と言われた松本清張や、その系譜に連なる作家(たとえば高村薫など)の作品にしたところで、どんなに「あり得る事件」を緻密に書き込んでいたとしても、最後まで「あり得る」で通したらミステリーとしては詰まらない。どこかで読者があっと驚くような「あり得ない」が隠されていてこそ、ミステリーを読む甲斐があるというものだ。
とは言え、本書のように専門家から理路整然とミステリーの欠点をあげつらわれると、こちらの分が悪い。なんとか気持ちが落ち着ける言い分はないものかとずっと考えていたら、まさにそれにふさわしい文章を見つけてしまった。「赤い館の秘密」のA.A.ミルンの冒頭の一節だ。ミルンは専門(児童文学)外のミステリーを書くにあたって、自分の好みを開陳している。
そうです。名探偵ポアロやドルリー・レーンが、あなたのようになって、あなたのように事件に噛みついていたら、どれほど面白いと言うのでしょうか、キムラさん。あー、すっきりした。
「本の雑誌」最新号を書店でパラパラと立ち読みしたら、キムラ弁護士がコラムを書いていた。それはいつものことなのだけれど、なんとミステリーの書評だった。確かこの人は本を読まない人じゃなかったっけ?と思ったら、有名なミステリーに噛みついている文章だった。弁護士という専門家が、そんな身も蓋もない事をしてどうするんだとは思ったが、未読のミステリーに関する毒舌だったので、興味なくさっさととばした。
次に、いわゆる〈本の本〉の棚を眺めていたら、まさにシンクロニシティではないか。本書が目にとまった。すでに一冊の本になるまでにミステリーに噛みつき続けてきたようだ。目次を読むと、あるわあるわ、本当に名作と言われる作品を多数とりあげている。クリスティは「そして誰もいなくなった」「オリエント急行殺人事件」に噛みつき、なんとクイーンの「Xの悲劇」にまで噛みついている。
さすがにちょっと惹かれてクイーンのページを読むと、クイーンに噛みつく事がミステリーファンにとってはどんなにおおごとなのかを知らぬ顔で「どうやらたいへんなことらしい」と半ば呆れてみせる。肝心の推理については、本に書かれた事だけで犯人を特定するのは、「専門家(警察や司法関係者)と言えどもムリ」と、名探偵の推理を一蹴し、さらには犯人のメイントリック(ネタバレになるので、詳しくは書かない)を警察は何故見破れないのか、そんなことはあり得ないと切り捨てる。
べつに僕の好きなクイーン作品や、クリスティの中で僕のお気に入りの「そして誰もいなくなった」に噛みついたところで、人それぞれの意見なのだから気にするまでもない。ただ、はじめから「ケンカを売る」ために書いている姿勢には感心しない。本に愛情がない以上は、最初から読まねばいいし、読んだところで書かねばいいのだ。
僕がかなり違和感を感じたのは、ミステリーの世界と現実の捜査とを比較して、あれはおかしい、これはだめだと貶めているところだ。専門家の目から見れば、ミステリーのストーリー展開はありえない事だらけだろう。しかし、そもそもが現実ではありえない事件を扱う点にミステリーファンの関心があるわけだから、「解決があり得ない」などと作品の一部分を拡大してあら探しする事に意味があるとは思えない。
「事実は小説より奇なり」という事も世間にはあるだろうが、たいていの事件では、あり得ることがおこり、あり得る捜査が行われ、あり得る犯人、あり得る動機、あり得る犯行が見出されるだけだ。そこを基準にして専門家(弁護士)が「(ミステリーは)あり得ない」と噛みつくことに、僕は「(そんなケンカの売り方は)あり得ない」と噛みつくことになる。
社会派と言われた松本清張や、その系譜に連なる作家(たとえば高村薫など)の作品にしたところで、どんなに「あり得る事件」を緻密に書き込んでいたとしても、最後まで「あり得る」で通したらミステリーとしては詰まらない。どこかで読者があっと驚くような「あり得ない」が隠されていてこそ、ミステリーを読む甲斐があるというものだ。
とは言え、本書のように専門家から理路整然とミステリーの欠点をあげつらわれると、こちらの分が悪い。なんとか気持ちが落ち着ける言い分はないものかとずっと考えていたら、まさにそれにふさわしい文章を見つけてしまった。「赤い館の秘密」のA.A.ミルンの冒頭の一節だ。ミルンは専門(児童文学)外のミステリーを書くにあたって、自分の好みを開陳している。
探偵そのものについていえば、まず第一に、探偵はしろうと探偵であって貰いたい。…(中略)…科学的な探偵と称するあの顕微鏡を持った男などさっさと消えうせてしまえ!世の有名な先生が殺人犯の残して行ったこまかいゴミを検査して、犯人は醸造所と製粉所との間に住んでいるという判断をくだしたにしても、いったいなにほどのことがあるというのか?…それがどれだけ面白いというのか?(A.A.ミルン「赤い館の秘密」(創元推理文庫))
そうです。名探偵ポアロやドルリー・レーンが、あなたのようになって、あなたのように事件に噛みついていたら、どれほど面白いと言うのでしょうか、キムラさん。あー、すっきりした。
2009年10月23日
本と珈琲のある風景(2009/10/17)
水道橋に用があって、その帰り道。息子のお迎えまであまり時間はないが、疲れを癒すためにサンマルクに行く。旭屋書店のはす向かいにあるサンマルクは、今のようにあちらこちらで見かけるようになる以前から、美味しいチョコクロと、ほろ苦珈琲とが楽しめるので、水道橋でお茶となると、まずここを利用する事が多い。
この日も旭屋書店を目印に表通りに出てみると、なんと「紳士服のアオキ」のド派手な看板に変わっていた。ついに旭屋書店が撤退かぁ。僕が高校生の頃からずっとここにあったわけだから、かれこれ30年以上はあの場所にあったのに。
「時の流れってそんなもんすかね」(「木根川橋」byさだまさし)
そんな感傷はおいといて、チョコクロとアイス珈琲と、そして
を読む。
どうしてもフランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」のイメージをぬぐえず、あれはベトナム戦争を舞台に据えていたので、まさに「地獄絵」とワーグナーの虚無的なオーケストラの演奏が頭の中に渦巻いていたが、原作はもうちょっと文章に「軽ろみ」が感じられる。
この日も旭屋書店を目印に表通りに出てみると、なんと「紳士服のアオキ」のド派手な看板に変わっていた。ついに旭屋書店が撤退かぁ。僕が高校生の頃からずっとここにあったわけだから、かれこれ30年以上はあの場所にあったのに。
「時の流れってそんなもんすかね」(「木根川橋」byさだまさし)
そんな感傷はおいといて、チョコクロとアイス珈琲と、そして
闇の奥 コンラッド(光文社古典新訳文庫,2009年)
を読む。
どうしてもフランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」のイメージをぬぐえず、あれはベトナム戦争を舞台に据えていたので、まさに「地獄絵」とワーグナーの虚無的なオーケストラの演奏が頭の中に渦巻いていたが、原作はもうちょっと文章に「軽ろみ」が感じられる。



